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ケムシノハナシ

[1] 毛虫夜行


 真っ青な夏空、遠く入道雲がソフトクリームみたいで、陽光はひたすらに眩しい。

「――真夏(まなつ)。俺と一緒に毛虫を見に行かないか?」

 夏本番、8月に入って間もない午後の駐車場でそんな風に誘われた。

 ―――ああ、海に行きたい。泳ぎたい。

 真夏こと僕はそんなことを思っていたわけだけど、話を戻して――誘いの相手は上司の世楽(せら)さん。

 適当に切ったような不揃いな髪と前髪はムク犬みたい。

 背が高く身体つきも筋肉質で屈強だから、見かけの胡散臭さのせいで道を歩けば大抵の人は避けて通る。

 おまけに今日もオシャレとは無縁な、淡いブルーのつなぎの半身分を腰のあたりで袖で結ぶという雑なスタイル。

 Tシャツから覗く日に焼けた腕が、いかにも鍛えた感たっぷりでムキムキしている。

 それでも僕は知っている。

 この人、実はすごく――。

「それ、デートのお誘い?」

 僕は冗談めかして訊いてみた。

 途端に世楽さんが「はあ?」と呆れ気味に息をつく。

「お前、脳が腐ってるだろ。例のBLだっけか? それ読みすぎだ。それに――」

 腕を組んで僕を見下ろす世楽さん。

 至近距離だと頭ひとつ分背が高いから、僕は自然と見上げる格好になった。

 長い前髪が風に揺れてくれないかなと期待したけれど、この日は無風――ジリジリと焼けつくようなアスファルトの上は熱気と逃げ水が立ち上る。

「俺がお前を誘ってどうすんだ。毛虫を見に行くのがデートになる発想がおかしい」

「だって、これから行くんでしょ?」

「おうよ。行くのか行かないのか」

「イヤだな。初めては毛虫プレイって」

 僕は女の子が恥ずかしがるみたいな仕種で、一方の手は軽く握って口元に当てつつ、もう一方の手で世楽さんの厚い胸板をパンパン叩く。

 すると世楽さんは『このやろう』と、僕の髪を両手でグシャグシャにかき回した。

「まだ言うか。毛虫プレイってなんだよ? いったいどんなプレイだよ。気色悪いこと言ってると給料減らすぞ」

「またまた。僕のこと大好きなくせに――」

 などと言い合っているうちに、僕は世楽さんに腕を引っ張られて駐車所の一角を占領する4WDに押し込まれた。



 半年ほど前になる。

 その時、僕は真冬の寒空を見上げて途方に暮れていた。

 父が死んだからだ。

 父が運転する車が路外に転落――同乗していた母と妹は即死で、父も意識が戻らない状態が続いていた。

 僕は東京で仕事をしていたけれど、母と妹の死と父の入院の知らせに仕事を辞めて、北海道の片田舎――神桜内(かむさない)町の実家に帰ることにした。

 と、いうのも、父には僕以外に頼る肉親がいなかった。

 母とひとつ年下の妹が逝ってしまった今、親戚・親類の類はいずれ縁遠い。

 誰も父の面倒を看てくれない……そう思っていたが、そうではなかった。

 入院後の父の世話は、父の会社の社長さんが率先してやってくれていた。

 僕ら父子は治療費やその他モロモロでも、何から何まで社長さんにお世話になったと言っても過言ではない。

 母と妹の葬儀後まもなく父も亡くなって、たて続けの葬儀その他の手配や各手続やらで走り回る間も、社長さんは実に親身になって僕を支えてくれていた。

 社長さんはまさに恩人だった。

 けれど、葬儀が終わってハタと気がつくと……僕には何も残っていなかった。

 お世話になった社長さんへのお礼の帰り道、人気のない駐車場で屈み込んでぼんやりと空を見上げながら、『これからどうしよう』と考えていた。

 仕事ナシ。金ナシ。恋人ナシ。生きる目的も……ナシ。

 見上げた曇天に負けず劣らずの、灰色の絶望感に寒風がやたら身に沁みる。

「――何してんだ、こんなところで?」

 ぶっきらぼうな物言いにそちらを見ると、大きなムク犬が水色のつなぎと綿入り半纏を着て僕を見下ろしていた。

 ―――ああ、あったかそうだなぁ。

 しみじみとそう思っている僕の前に、ムク犬は屈み込んで眼線を合わせた。

 といっても、合わせたような気がするだけ。

 実際は前髪に隠れた眼がどこを見ているのか、まるでわからなかった。

「風邪ひくぞ、藤家真夏(ふじいえ・まなつ)。なんなら、俺のところに来るか?」

 いきなりフルネームで呼ばれて驚いた僕は、相手の顔をまじまじと見つめてしまった。

「えっ? えーと……あなたは――」

 このムク犬っぽい人を、僕は何度も見たことがある。

 けれど、父のことでかかりきりだったせいか、社長さんが連れてくる何人もの1人としてしか覚えていなかった。

 ―――誰だっけ? せめて名前が出てくれば……。

「ああ。名前思い出そうとしてんなら無駄だぞ。俺、お前に名乗ってねーもん」

 ふふんと鼻で笑われ、少しだけムッとしたところで――ムク犬は髪をかき上げた。

「……っ……!」

 眼を奪われるって、こういうことなんだな――と、思った。

 切れ長の涼しげな眼元、すっと通った鼻筋、形の綺麗な唇――見とれるほどの整った顔立ちなのに、すぐさま長さのまばらな髪が眼元を隠してしまった。

 ―――美人だ……ものスゴく。

 男性相手に『美人』はどうかと思うが、僕の中ではムク犬が美人に化けた気がしたのだ。

「……そっ、それでっ! お、お名前をっ……!!」

「あん?」

「お名前を教えてください。お願いしますっ……!!」

 その時、僕はどんな顔で言ったんだろう?

 たぶん相当に必死な面持ちだったんだと思う。

 わずかに身を引いたものの、ムク犬美人はすぐに頷いてくれた。

「名前は世楽芙蓉真(せら・ふゆま)だよ。あの白髪頭の親父の息子だ」

 僕ら父子の恩人の社長さん・世楽芙蓉吉(ふゆきち)さんの息子さんが、この世楽さんだった。

 そこで――僕は何をトチ狂ったか、勢い余って言い放っていた。

「僕をもらってくださいっ……!!」

 ――バカだな……バカだよ、うん。

 けれど、世楽さんは粉雪の舞う駐車場でトンデモ発言をかました僕を笑ったりせずに、『おう、任せろ』と胸を張ってくれた。

 世楽さんは僕の『もらってください』を、どう受け止めたか?

 なんと、僕を空きのある事務所の事務員として雇ってくれたのだ。

 勤務先は父と同じく『世楽運輸株式会社』。

 父と同じ事務員――父の空席に息子が収まった形になる。

 ちなみに世楽さんも、同じ年に社長を継いで二代目になった。

 それから僕は父の代わりになれるよう、ひたすら真面目に働いた。

 本当は事務員なんてやったことがないし、まして運送関係など関わったこともなかったから、専門用語の多さと不慣れな事務仕事に四苦八苦した。

 それでも、どうにか仕事にも慣れて数カ月――。

 僕の日常は充実していた。生きる目的だって見つけることができた。

 何故なら――。



「――着いたぞ」

 世楽さんのひと言で、つかの間の真冬の回想から蒸し暑い真夏の現実に引き戻された。

 返事をする前に、世楽さんはさっさと車から降りてしまった。

 僕も遅れて降りてみると、これといって特徴のないコンビニの駐車場だ。

 国道二車線の車の流れは、この時間帯――午後2時にしては多めか。

 夏休み中ということもあって、太平洋沿いの海が見える幹線道路は車も多く行き交う。

 このまま道なりに下れば、隣町との境界に大きな海水浴場があるのだ。

 逆ルートをひたすらに上れば、近在では最も大きな港と石油備蓄基地、工業地帯を有した大きな苫小牧市がある。

 一方、コンビニの建物の左右には申し訳程度の駐車場・看板があるが――隣接する建物などはない。

 そのため、ぽつんと建っているコンビニはどこか寂しげな印象だ。

 さらにコンビニの裏手は山を削った土手になっていて、土留めに植えられた植物が『元はなんだったんだ』とツッコミたくなるようなジャングルな様相を呈している。

 そしてコンビニの正面には、一段低くなった土地に柵で仕切られた牧草地と太平洋――水平線が太陽の光にキラキラしていて、青空と海の色合いが遠く溶け合って綺麗だった。

「……こんなところで、毛虫?」

 僕はざっと辺りを見渡して、同じように辺りを眺める世楽さんを振り返った。

「畑仲(はたなか)はそう報告している」

 ひどく真面目な物言いで世楽さんは言う。

「畑仲さん? 畑仲さんがここに毛虫が出るって言ったんですか?」

 世楽運輸の中では畑仲さんはベテランドライバー。日に焼けたスキンヘッドの上に眉毛が薄いため見かけは怖いが、ニコニコと笑顔が絶えない陽性気質な人だ。

 何より季節問わず運転慣れしているし、配送ミスもほとんどない優秀なドライバーと記憶している。

 そういえば、今日は勤務表に名前がなかったが――。

「奴が言うには、そのせいでコケたんだ……あそこで」

 世楽さんが指差す先には、道路沿いの土が草ごと抉れ、さらには路面に何やら湿ったような黒ずみが刻まれている。

 いや、それよりも。

「……コケたんですか?」

 それは単に転んだという意味ではない。

 畑仲さんはドライバー。コケたのは車ごと――立派に交通事故だ。

「ああ。スリップして路外に転落。おかげでクレーンの手配と後片付け、おまけに警察への出頭やらで、俺はスゲエ忙しい思いをした」

 淡々とした世楽さんの低い物言いを聞きながら、俺は内心青くなっていた――脳裏に父の死顔がよぎる。

「た、大変じゃないですか! 畑仲さんは? 無事なんですか……!?」

「無事だよ。軽い脳震盪だそうだから、今日明日は休ませたんだ」

 僕がホッとする一方、世楽さんは道路に視線を戻し、「見当たらねぇな」とボソリと呟いた。

 道路には毛虫はおろか、虫一匹見当たらない。

「暑い。我慢できない。アイスが食いたい」

 やおら子供のような言いようで僕を見下ろしつつ、世楽さんは顎でコンビニを示した。

「真夏。アイス」

『買ってこい』という意味だ。

 これはいつものことなので、僕はあっさりと頷いてみせる。

「はいはい。バニラ? それともチョコ?」

「ラムネ味のがいい。水色のやつ」

「はいはい。ホントに芙蓉真ちゃんったら、お母さんが今すぐ買ってきますからね」

 僕が冗談めかしてそう言うと、世楽さんは凄まじい低音で「はーい、ママ」と言い返してきた。

 これには僕は盛大に鼻から噴いてしまった。



「――う。暑い……」

 買物を済ませてコンビニを出ると、そこはうだるような灼熱地獄だ。

 店内の心地よい空気に一旦は引いていた汗が、焼けたアスファルトの熱気に当てられて一気に噴き出てくる。

 頬を伝う汗を拭いつつ駐車場の車まで戻ったものの、車中にも周囲にも世楽さんの姿はない。あるのはコンビニに入る前にはなかった、高級そうな外車――ポルシェ・ボクスターだった。

 さらに辺りをキョロキョロ見渡していると、ふと眼の前が暗くなった。

「――お姉さん、誰かと待ち合わせ?」

「えっ」

 日焼けした若者が3人、僕の行く手を塞ぐように並んでいる。

 これから海水浴に行くのか、いずれも派手なシャツと半ズボン姿で足元はクロックスとサンダルだ。

「ヒマだったらさ、俺らと一緒に海に行かねぇ?」

「えーと……」

 そう言われて、遅れて気がついた。

 ―――これ、ナンパだ……。

「あの、連れがいるんで――」

「ええー? どこに?」

 若者たちが口々に言いながら、大げさに辺りを見まわす。

「行こうぜ。水着だったら途中で買えばいいし」

「そうそう!」

 若者の1人が僕の腕を引いて、もう1人が反対側から肩に手をかける。

 真昼の駐車場で、男たちに強引に連れられていく僕――。

 ―――どうしよう? いや、どうにかしないと。

 海に行きたかったのは確かだけど、こんな遊んでる風のチャラチャラした若者たちとではない……断じて。

「イヤ、ごめん……放して――」

 ポルシェまで数メートルという位置で、若者たちの歩みがピタリと止まった。

 彼らの視線をたどると――。

 上半身裸の見事な肉体美を晒して、世楽さんが仁王立ちしていた。

 ホカホカと身体から湯気が出ているのは、汗が蒸発しているせい?

 僕が筋肉に見惚れて呆然とする一方、若者たちの表情には警戒の色が宿る。

 それもそのはず、筋肉質の巨漢は眼が長い前髪に隠れてどこを見ているかわからない。

 その姿は怪訝を通り越して、どこか剣呑な雰囲気と迫力だ。

「悪いんだけどさ、そいつから手を放してやってくれないか?」

 低い声でのんびり言いながら、世楽さんが指差したのは僕だ。

「……な、なんだよ。この子は俺らと――」

「そいつは俺の連れなんだ。なんだったら、ジャンケンで勝負してもいいぞ?」

 鼻白んで言い返そうとした男の1人は、拳を握りしめてググッと盛り上がった世楽さんの上腕筋を見るなり――慌てたように手を放した。

 世楽さんは『ジャンケン』って言ったし、本人に自覚もないだろうけど……どう見ても『拳で勝負・殴り合い』を匂わせてるように映る。

「彼氏いるなら、しゃーねーし」

「なんだよ。彼氏連れかよ」

「つまんねー」

 などと捨てセリフを吐いて、それでもなお僕に粘つくような視線を送りつつ、彼らは車に乗り込んで去って行った。

 ホッと息をつくと、世楽さんがホカホカと湯気をまといつつ近づいてきた。

 ―――Tシャツはどうしたんだろう?

 いや、それよりも――。

「……あの、世楽さん。ありがとうございました」

「気にすんなよ、真夏」

 そう言いつつも、世楽さんはしみじみと僕の姿を眺めて腕を組む。

「うん。そのポニーテール。今日はいつもに増して乙女な姿だな……男には見えない」

「あっ、そうか」

 僕は言われて気がついた。

「これ、世楽さんのせいじゃないですか。ここに来る前に僕の髪をグシャグシャにしたから……」

 それでいつもは下向きに結っている髪を、暑いこともあって高い位置で結んでしまったのだ。 

 服装はそれほど女の子っぽくないモノを心がけているけれど、この日はカーキ色のTシャツにワインカラーのベストを羽織っていて、下はベージュのハーフパンツだった。

 しかも、僕の髪は腰に届くほど長いし、顔つきは童顔で身体つきも華奢だ。

 そのせいでよく女の子に間違われるけれど、こっちに帰ってきてからはナンパされたことなどなかったのに――。

「うう……ポニーテールのせいだ」

「泣くな。ポニーテルが似合うなんざ、新しい男の武器だと思え」

 どんな武器? ――と、ツッコミたいけれど、世楽さんが慰めてくれているのはわかる。

 それに、なるほど。武器か……。

 ―――よし、ここは攻撃に転じる機会だ!

「じゃあ、世楽さん、ポニーテールの似合う僕とデートしてくれる?」

「アイスを食ったら考える」

 とっておきのウルウルな眼で言ってみるが、ムク犬筋肉男には少しも通じない。

 むむ。なかなか手強い……。

 そろって道路を横断して駐車場に戻り、世楽さんは車のドアを開けて顔をしかめた。

 車の中から熱気がふき出して、まるでサウナ並みに蒸し暑い。

 世楽さんに続いて乗り込んだ僕は、熱い背もたれに背中をくっつける気になれずにシートに半端に腰かけてドアを閉めた。


「――はい、アイスです」

 すかさず袋から取り出して差し出すと、世楽さんは受け取るなり包装紙を破いて口に咥えた。

 咥えているのはアイスだけど、僕の腐った思考は別のものを想像してドキドキしてしまう。

 そんな妖しい視線に気づかない世楽さんは、僕を見て「ふぅおういえふぁ」と気の抜けるような声を出した。

 そういえば――これで言ってることがわかるんだから、僕ってスゴイ。

「へんひょーのおひゃはん、へんひらったら? (店長のおばちゃん、元気だったか?)」

「もう。アイスのお礼は? せめて『ありがとう、愛してる』くらい言ってほしいな」

 つぽん、と口からアイスを抜き取り、世楽さんは真顔を僕に向けた。

「ありがとう、愛してる」

 見事に棒読みで言いきるなり、世楽さんはシートベルトを締めている。

 ―――くっそー、悔しい!

「店長さんなら元気でしたよ、とーっても。『社長によろしく』って言ってました」

「ふぉうか(そうか)」

 シートベルトを締めつつ僕が不服そうに唇を尖らせるのも知らぬげに、世楽さんは再びアイスを口に咥えたままエンジンをかけて車を出した。

 神桜内は田舎だが太平洋に面した町はそこそこ広し、山側へ行けばかなり広大な敷地を有した牧場が多く点在している。

 それら広大な土地をくまなく走り回る世楽運輸とその社長である世楽さんは、町内では大手メーカーや宅配事業者の配送業務を委託されている関係で実に顔が広い。

 コンビニの店長のおばちゃんも例外ではなく、僕を見てまず第一声が『まなっちゃん、社長は元気?』だった。

 何かあると世楽さんが僕を連れ回すせいで、僕も意外と顔が知られていたりする。

 それはそうと――。

「あ。思い出しました! 店長さんが毛虫は見てないけど、『変なものを見た』そうです」

 ガクンと、車がつんのめるようにして停まった。

 コンビニの駐車場を出て、二車線に乗ろうかという白線手前の位置だ。

「……変なもの?」

 パクッ。ムグムグ……ゴクン――世楽さんが訊きながら、棒アイスのひとかけらを飲み込んだ。

「怪談じゃないだろうな?」

「いや、どうだろ……その、畑仲さんが事故に遭う直前、白いモノを見たって……」

 店長さんの話はこうだ。

 事故が起きる前、道路の向こうに白いモノが横切って行くのが見えた。

 畑仲さんが事故に遭った辺りには、古い常夜灯が設置されているのでそれではっきりと見えたという。

 それはふわふわと漂うように、道路を横切って行き――。

「直後に、畑仲さんのトラックが横転……事故に遭ったそうです」

 もっとも事故直後に警察へ通報した後は、交替で店奥の自宅に引っ込んでしまったため、白いモノが何だったのかは店長さんは確認できずじまいだったらしい。

「……怪談じゃないか、それ?」

 アイスの残りをかじりつつ、世楽さんがひどく嫌そうに言う。

「うーん……そう言われてみるとそうですよね」

「俺は信じない。オバケとひょっとこは信じない」

 ―――ひょっとこ?

 思い切りツッコミたいところだけど、ひとまず僕は自分のアイスを食べることにした。

 いつもはソフトクリームにするけれど、世楽さんの真似をして『ラムネ味』のアイスにかじりつく。

 爽やかな酸味と甘みが口いっぱいに広がり、僕は思わず笑顔になった。

「これ、美味しい!」

「だろ。夏はやっぱこれだよ」

 世楽さんも機嫌よさそうに頷いて、軽快に車を走らせている。

 車窓に流れる景色から察するに、来る時のルートを逆にたどっているようだ。

「事務所に戻るんですか?」

「ああ。お前が買物に行ってる間に、畑仲のトラックが落ちた土手の下に降りてみたんだが……牧草が倒れてるだけで見事に何もなかった。もちろん毛虫もいなかった」

「じゃあ、毛虫探しは終わり?」

 ―――ちょっぴり残念だな……。

 そんなことを思っていると、「いや」と世楽さんが首を振った。

「おおっ! デート続行?」

「リュファスのところに行こうと思う」

「え――」

 僕は思わず顔をしかめてしまった。

「イヤなのか?」

「イヤっていうか……」

 リュファス・サルザールさんは世楽さんの同級生で幼馴染。

 いわゆる腐れ縁の長い付き合いらしいけれど、一度だけ会った印象が――僕にとっては非常に危険だった。

 それはつまり――。

「安心しろ、リュファスは馬ひと筋だから。お前をナンパしたりしないよ」

 ―――ああ、全然わかってない……。

 ムク犬めいた横顔を眺めつつ、僕は深く深くため息をついた。



 僕は世楽さんが好きだ。

 もちろん人としても上司としても好きだけど、僕のそれは恋愛対象としての『好き』だ。

 それについては世楽さんも知っている。

 入社の際に面接でこれまでの経歴と合わせて、自分のことを包み隠さず告白したからだ。

 東京で女装した男性、いわゆる『男の娘』が売りのコスプレ・バーに勤めていたこと。

 その関係で髪も長く伸ばしていたし、女の子みたいな仕種が身についてしまっていること。

 とはいえ女装が得意というだけで、いわゆる『おネエ』のように精神が女性などではなく、平素は男性として普通に暮らしていること。

 それにボーイズラブを扱ったアニメやゲーム、小説やコミック等のいわゆるBL系コンテンツが大好きなこと。

 さらには、恋愛対象も男性であること。

 過去にそのことで父とモメて、高校卒業後に家を飛び出して上京――以来、実家には寄りつかなかったこと……。

 ひと通り話し終えて、『これで雇う気は失せるかな』と、内心ドキドキしていた。

 個人的趣味はともかく性的嗜好を隠さずに告白されて、一般の会社が雇い入れてくれるとは思えなかったから。

「――BLってのは、どういうシロモノだ?」

 無言で聞いていた世楽さんは、僕が話し終えるとそんなことを訊いた。

 事務所奥に位置する社長室の応接セットのソファーで、世楽さんと向き合って座ったまま――僕は緊張しつつ答えた。

「えーと……男性同士の恋愛を描いたもの、です」

「ふうん。じゃあ、お前さんはそのBLが好きで、自分も男性とイチャイチャしたい?」

「……そ、そうです」

 言い知れない居心地の悪さに、声が小さくなってしまう。

 世楽さんの質問の意図がわからない。

「よし、採用……!」

「ええぇっ……!?」

 嬉しいはずなのに、かなり驚いて声がひっくり返ってしまった。

「早速だが、明日から来てくれ。それまでに席を用意させるから」

「ちょっ……ちょっと待って!」

 ドアに向かう大きな背中に慌てて駆け寄って、世楽さんの手をつかんで引き止めていた。

「あの、いいんですか? 僕は男の人が好きで……だから、つまり――」

「ちょうどいいじゃないか。ウチは男ばっかりだから、よりどりみどりだぞ。社内恋愛も自由だから、BLでもなんでも好きにしていい」

 さらりとそんなことを言われて、僕はとっさに頭に血が上ってしまった。

 よりどりみどり?

 冗談じゃない。僕が好きなのは――。

「僕が好きなのは、あなたなんですっ……!!」

 言うなり、ハッとして世楽さんの手を放してしまった。

 やっちゃった……これで不採用確定。

 それだけではない。

 ―――失恋も確定だ……。

 といっても、僕の恋が巧くいったことは一度もない。

 好きな人がストレートだったり、同じ性的嗜好だとしてもすでに恋人がいたり、やっと恋人ができたと思ったら、二股かけられていたり……。

 ああ、僕ってこれからも、きっと失恋し続けるんだ……。

 ぽふっ。

「え……?」

 泣きそうな僕の頭に温かなもの。

 思わず顔を上げると、世楽さんが僕の頭のてっぺんに手を乗せてナデナデしている。

「まあ、俺はBLってのはよくわからんが……一緒に仲良くやっていこうか」

 そう言って髪をかき上げた世楽さんの、屈託のない明るい笑顔に僕は釘付けになった。

 仲良くやっていこう……?

 それって……『好きでいてもいい』ってこと?

 湧き上がってくるのは、天にも昇るような昂揚感――頬が紅潮し、全身が喜びのあまり震えてくる。

「はいっ! よろしくお願いしますっ……!!」

 僕は迷わずそう言って、深く頭を下げていた。



「――というワケで、僕とエロいコトをしましょう」

「お前は。どうしてそう……今の話のどこがどう、エロいコトにつながるんだ?」

 車で事務所に戻るまでの間、僕は世楽さんに熱意を込めて説明した。

 それはつまり僕があの面接でいかに恋に落ちて、世楽さんを大好きかということを――。

「夏ですから。解放的になりましょう……ホラ、すでに脱いでるし!」

 僕が世楽さんの裸の上半身を指差すと、「ああ」と何かを思い出したような声を出した。

「これは解放的とは違うぞ。俺はお湯を浴びたんだ」

「お湯?」

 そうそう――世楽さんがステアリングを切り返し、反転させた車を事務所の駐車場の定位置に乗り入れる。

「あのコンビニの裏には、駐車場の清掃用に水道があるんだ。ホース付きのやつ」

「ああ。そういえば――」

 何度か朝早くに、店長さんが水打ちしている姿を見かけた。

 世楽運輸もそうだけど、広い駐車場の清掃には外付けの水道は欠かせない。

 コンビニも月一くらいのペースでの清掃時には、大量の水を駐車場一面に撒くのだろう。

「それがお湯だったんですか?」

「そうだよ。てっきり水だと思い込んで頭から被ったら……お湯だったんで、慌ててTシャツ脱いだんだよな」

 それであの時、身体から湯気が出ていたのか――。

「あっ……それじゃ、Tシャツは?」

 いつもの駐車スペースで車が停まり、世楽さんはエンジンを切ってキーを抜いた。

「……忘れてきた」

「取りに戻ります?」

「うーん。腹も減ったし、そろそろ『夜番』が来る頃だ……メシ食ってから考える」

『夜番』はその言葉どおり、夜通しトラックを走らせて早朝に航空機やフェリーに載せる荷物を運ぶドライバーのことだ。

 世楽さんは毎日どんなに忙しくても、『夜番』が出発するのを見送ってから、一日の業務を終える。

 そして翌日、彼らが戻ってくる時間帯がどんなに早かろうと遅かろうと、世楽さんは必ず出迎えるのだった。

 それとは別に、今気がついたことがひとつ――。

「世楽さん、リュファスさんのトコは行くのやめたの?」

「ん――」

 シートベルをはずした世楽さんは振り返って――たぶん僕をじっと見ていると思うんだけど、例によってどこを見ているのかわからない。

「お前がイヤなら、無理に行こうとは思わないよ」

 ―――え? それって、僕のため……?

「世楽さんっ……!」

 感激して抱きつこうとした僕の手は、素早く身を翻して車を降りた世楽さんをかすりもしなかった。

 バタン。

 ドアが閉まる音と、僕が運転席のシートに突っ伏すのは、ほぼ同時だった。

 むむむ。やっぱり手強い……。

「おーい、タイムカード押したら、俺のところに来いよ」

 世楽さんがガラス越しに、のんびりと僕に声をかける。

「行きますっ! 行きますとも……!!」

 僕はシートにぶつけた鼻をさすりつつ、涙目のまま車を降りようとして――そこで後部座席に置いた買物袋を思い出して、慌てて手に持って車を降りた。

 コンビニでアイスを買う傍ら、勇気を出して『あるもの』を購入してきたのだった。

 ―――まあ、どうせ……ネタだと思われて、笑われるだろうけど……。

 心の中で呟いて、世楽さんの背中を追うように事務所に入っていった。

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