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君は僕のスノードロップ
まったく。今日に限ってどうしてこんなことが起こるんだ。
1人そんなことを愚痴りながら、俺はいつもと同じく迎えの車に乗って出勤する。
朝一に受けた電話で、我が社『アイゼンハーツ』の買収が決まったという。
父から受け継いだ会社を、業界トップに押し上げたのは俺だ。
昨年秋には上場を果たし、取引先とも巧くやっている。
業績はまずまずでこの時世にも、何とか赤字を出さずに黒字経営を続けていた。
そんな矢先の買収だ。
油断したとは思えないし、先刻迎えの車が到着前に経営コンサルタントと顧問弁護士に話を聞いた限りでは、株所得に関する取引は合法で違法性はないという。
つまり、極めて合法的かつ性急にコトは進んだということだ。
誰だ? 誰がこんな真似をした――。
怒り狂いつつ社のロビーに入ると、いつもなら迎えに出ているはずの主任秘書がいない。
「――おい、末永(すえなが)はどうした?」
訊かれた秘書課の女子社員は、威圧感たっぷりの俺の声にビクつきつつ口を開く。
もっともビクついてるという点では、居並ぶ副社長も専務も似たようなものだが。
「は、はあ。あの……今はちょっと席をはずしてまして――」
俺は秘書の無能ぶりに苛立ちながら、その脇をすり抜けてエレベーターに向かった。
ふと、扉が閉まる前に手が差しこまれ、見慣れない男が乗り込んできた。
宵闇を思わせる黒髪に黒眼。白い肌に上等なスーツの深い色合いが映える。
身形は整っているが、どこか底知れない雰囲気をまとった男だ。
年齢は俺と同じか少し上――男は眼が合うと、ニッコリと曇りのない笑みを向けた。
扉が閉まり、エレベーター内に2人きりになった。
追いかけてきたはずの秘書課と上役の面々は取り残されたようだ。
「失礼ですが、アイゼンハーツの社長さんですよね?」
『ですよね?』と訊きながら、口調は確認のそれだ。俺は無表情・無感情に頷く。
正面の鏡に男の横に並ぶ金髪の男が見える。
横に並んだ黒髪とは対照的に、『太陽にキスされた色』とアメリカでは詩的に表現される明るい金の髪。
ふわふわとした髪に下にアクアマリンの眼。肌は男のそれよりも白いし、顔立ちだって繊細で、スーツに包まれた身体つきも華奢にすら映る。
見た感じ、威圧感とも迫力とも無縁。
だが、それでも――。
「ああ。俺がアイゼンハーツの社長。美守(みもり)・アイゼンハーツだ」
やっぱり――と、男は表情を和ませる。
「お会いしたかったんです」
「どうして」
「は?」
「どうして俺に会いにきたのか、と訊いている」
威圧感に満ちた物言いと眼に宿る剣呑な光に、それでも男は柔和な笑みを崩さなかった。
これは意外だ。
大抵の者は俺の外見と言動のギャップに驚き、驚きの後には俺の雰囲気に飲まれて言いなりになる。
だが、この男は違うらしい。
わずかばかり男に興味が湧いた時、エレベーターが目指す会に着いた。
チン、と気の抜けるような音とともに、扉が開いて――。
「……っ……!?」
俺は盛大に驚いて固まった。
そこには――。
―――誰もいなかった。
いつもなら忙しく行き交う社員の姿がない。
足早に廊下を歩きながらフロアの各オフイスも覗いてみたが、デスクにも誰1人として座っていなかった。
それなりに人の気配や話し声、活気が溢れていた場所が、まるで休日の社内のように閑散としている。
だが、今日は平日だ。GWは近いが断じて休日ではない。
いったいどうなっている……?
「――誰もいらっしゃらないようですね」
その声に気がついて振り向くと、俺の半歩後ろに男がついて来ている。
「一緒に来る気か」
訊くというよりは確認の俺の苛立った問いにも、男は柔らかに微笑んで
「ええ」と頷く。
「社長のあなたにお話があるんです」
「なんの話だ」
この忙しい時に……それにどうして今日なんだ?
「折り入ってお話が。できれば2人きりでお話ししたいのですが」
「今のこの状況は2人きりとは違うのか? 今話せ……!」
歩きながらの会話にも、男は少しも遅れることなく言葉を返しながらついてくる。
これにも俺は感心した。
慣れた主任秘書の末永でさえ、俺の足にこれほど歩調を合わせてついてはこれない。
だが、またしても男の興味が湧きかけた矢先、目指す部屋に着いていた。
―――社長室。
ドアを開けるなり俺は再び眼を疑った。
それにこの――。
「あっ、あんっ! ああっ……!!」
響き渡る甘ったるい嬌声。
社長室奥に鎮座する重厚なマホガニーのデスクに、両手をついて腰を浮かせた半裸の末永の姿がある。
その腰を抱えて激しく責め立てているのは、警備員の制服姿の体格のいい青年だ。
2人はこちらに気づかない。
それもそのはず、クライマックス間近のようで、青年の動きがさらに激しさを増した。
「はあぁ……あぁんっ……!!」
末永が放つ嬌声の艶めかしさ。それに剥き出しの肩とはだけたシャツの胸元に、整ったスーツ姿を崩さない男が見せる絶頂間際の顔――知らない顔だ。
ゾクリと背を駆けたのは、嫌悪の悪寒か別のモノか……わからない。
俺はただ、眼の前でセックスに没頭する2人を呆然と眺めていた。
不意に末永が声もなく仰け反り、2人がほぼ同時に達したのだの気づいた。
そこで俺は我に返った。
「ここで、何を、している……?」
怒りのあまり声が震えないよう苦労しつつ、俺はひと言ずつ区切って言った。
「あっ……しゃ、社長……あんっ!」
最後の「あんっ」は、慌てた青年が末永から離れたせいだ。
2人は顔を赤らめつつも、慌てて身形を整えている。
俺は呼吸を整えてもう一度口を開いた。
「末永、社長室で何をしている?」
ビクッと身をすくませた末永は、傍らに立つ青年の顔をチラ見する。
たった今この眼で見たのだから、言い訳は通用しないことは末永にもわかっているはずだが――俺は本人の口で説明させたかった。
何故、会社が乗っ取られるかもしれない緊急事態のさなか、主任秘書のこの男は、恋人――それも同性の恋人と、よりによって社長室でコトに及んでいたのか。
だが、末永は気まずそうにうつむいたまま、いつまで待っても話そうとしない。
「……もういい。末永、お前は今日限りクビだ……そこのお前もだ」
「そんなっ……!」
すがりつくような末永の顔を見つめ、俺は無表情に声に険をにじませて言い放った。
「出て行け! 今すぐ……!!」
それまで立っていたドア前から脇に退くと、俺の後ろで一部始終を見ていたらしい男が横に立った。
まだ何か言おうとした末永は、長く俺についていただけに、この状況で何を言っても無駄だとわかったようだ。
俺は言い訳を許さないし、部下……特に秘書の失態には厳しい。
それもこんな、最大級の失態の前では――どんな言い訳も聞く耳を持たない。
脇を通り過ぎる時、末永は俺に潤んだ眼を向けて唇を噛んだ。
そんな眼差しに俺は違和感を覚える。さらに俺の横に立つ男を睨んだ眼つきには、末永らしくない、剥き出しの感情が見え隠れしていた。
そうして2人が出て行ったあとには、なんとも言えない気まずい空気だけが残った。
「……それはそうと、お話を聞いていただけますか?」
―――この状況で?
眉を寄せて睨む俺に、男はまた笑みを返してきた。
あんなものを見せられたあとだというのに、何事もなかったかのような爽やかな笑顔だ。
軽くため息をついて、俺は渋々うなずいた。
「……いいだろう。話を聞こう」
「――世界的セキュリティの老舗、『アイゼンハーツ』。ですが、今この会社は危機的状況にありますよね?」
俺はデスク前の革張りの椅子に掛ける気になれず、壁に寄りかかって男に向き直った。
「……知っていたのか」
「ええ、もちろん。今夜にも緊急の株主総会が開かれて、新たな経営陣が決まるでしょう」
―――『今夜』、か……。
だが、それを何故この男が把握している?
「お前は誰だ? ……いや、訊き方を変えよう。何者だ?」
「雪村(ゆきむら)雫(しずく)と申します」
その名前から連想したのだろう――俺はつい口走っていた。
「……スノードロップ」
春先にかけて咲く白く美しい花。
花言葉は、希望、慰め、逆境の中の希望――。
「え?」
怪訝そうに首を軽く傾げた雪村に、俺は「なんでもない」と気を取り直して続けた。
「それで雪村、俺に話とは?」
「私があなたの会社をお助けしましょう……その代わり」
「その代わり……なんだ、金か?」
金で話がつくなら最も手っ取り早い。
一時の損失を補填するくらいの底力は今の我が社にもあるはずだ。
だが、男は表情を変えずにゆるゆると首を振った。
「条件がふたつあります」
―――条件? 金でなければ、なんなんだ……?
「……言ってみろ」
俺が腕を組んで壁にもたれると、雪村も俺の前に立って胸に右手を当てた。
「私をあなたの秘書にしてください。先ほど解雇した主任秘書の代わりに、私をあなたの……社長専任の秘書にしてほしいのです」
ふむ――俺は男のつま先から頭のてっぺんまでとっくりと眺めて、それが悪くない条件だと思い始めていた。
先のエレベーターや廊下での言動、さらに社長室で展開された情事には一切触れず、それどころか冷静に今こうして交渉までしている。
なかなか使えそうだとは思っていたのだ。
「……それで、もうひとつは?」
そこで俺の耳元に顔を寄せ、雪村は低い声で囁いた。
聞くなり俺は、男から飛び退くようにして離れていた。
「なっ! なんだと……!?」
顔をしかめて訊き返すが、驚きのせいで声が震えてしまった。
「簡単なことです……あなたを抱かせてください、美守社長」
ニッコリと微笑んだ男の、これも曇りのない笑みを俺は呆然と見つめる。
表情と言葉の内容が一致してない気がするが、そんなことはどうでもいい。
―――俺を抱きたいだと……?
この男も末永と同じく、同性が性の対象なのか?
冗談じゃない。
確かにこれまでもそうした性癖の持ち主に、俺はことあるごとに言い寄られてきたが、俺は誰がなんと言おうとストレート――性の対象は女性限定だ。
だが――。
一方で、冷静に雪村の言葉を天秤にかけている。
この身を自由にさせるだけで俺は会社を救える。
ここまで大きくするために自分が払ってきた時間と労力を思えば、このまま会社が乗っ取られて経営陣が一新されるのを、指を咥えて見ているわけにはいかなかった。
ところが我が社で最大の株主だったはずの俺が、第2、第3の位置にまで落ち、今や別の何者かが筆頭株主だ。
株の40%を持つその人物が経営陣の人事権を有する以上――俺にできることは別の株主から株を買い取り、その株主を上回る所得率を得る以外ない。
それには問題があった。
『アイゼンハーツ』は先に男が言った通り世界規模で展開している。
現在、本社は日本に置いているが、ドイツからの移民だった祖父が創業当初はアメリカに本社があった。
もっとも当時は地味な企業向けの警備会社。
現在のように企業・個人問わず警備員を派遣し、自社開発の強固なセキュリテイシステムで警備全般をこなすようになったのは、俺が社長になってからだった。
話を戻して、そんな会社の成り立ちと経緯から、株主は世界中にいる。
彼らにこれからアポを取って、ちまちま株を買い集めていては間に合わない。
その上、俺個人の資産では、どう頑張っても残り10%程度の株をかき集めるのがせいぜいだ。
つまり『危機的状況』と男が言うとおり、今の俺はナイフの刃先を咥えて坂道を駆け下りているに等しい。
いつ死んでもおかしくない状況――もちろん社長としてという意味だが――なのだ。
それを一度の情事で守れるなら、こんな有利な取引はない。
―――どうする? だが、男に抱かれるなど……。
俺があれこれ考えていると、電話が鳴り始めた。
素早く歩み寄ってデスクの固定電話の受話器に伸ばす俺の手を、雪村が脇からやんわりと止めて握りしめる。
「……おい」
「出ない方がよろしいかと。おそらく報道関係者です」
「何……!?」
俺は落ち着き払った雪村の顔と電話を見比べた。
―――もうマスコミが嗅ぎつけたっていうのか?
「どうしますか、社長?」
電話は鳴り続けている。
俺の代わりに受ける秘書はいない。社員すら――少なくともこの場にはいない。
「考えている時間はありませんよ? 私は条件を出した……後はあなたが頷くだけ」
それまでの笑みとは違い、どこか妖しい笑みを浮かべた雪村が、握った俺の手を口元に持っていく。
「さあ、どうするんです……?」
鳴り続ける電話のせいか、雪村が俺の手に唇を押し当てたからか、それもわからない。
脳内のパニックが頂点に達した俺は、電話の呼出音に苛立ちながら――。
「わかった、条件を飲む。お前の好きにしろ……!!」
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