ラブ&バデイ
[1] 恋と刑事の裏事情
子供の頃から泣き虫だった。
怖がりで、痛いのも大の苦手――ついでにいじめられっ子。
そんな俺は近所に住む『お兄ちゃん』に、しょっちゅう慰められていた。
『――もう泣くなよ、多希(たき)』
今でも頭を撫でてくれる優しい面影が脳裏をよぎる。
当時もそうだが、今だって怖いのはイヤだし、痛いのはもっとイヤだ。
それが何の因果か、今の俺は――。
「――そこの男、止まれっ……!」
怒鳴りながら、前を走る男の背中を全速力で追っている。
場所は歓楽街の裏通り。
今しも各所の看板を蹴倒す勢いで、1人の男が通りにまろび出てきた。
日に焼けた細面の顔に細い眼――お世辞にも人相がいいとは言えない男が振り返る。
俺の姿――二重の眼、細い鼻梁、ふっくらめの唇――ともすれば女性的とすら映る顔立ちはさておき、スーツ姿で職業に気づいたと見えて、男は猛然とスピードを上げた。
人通りがなく障害物も少ないから速度は落ちない。
こちらはスーツに革靴、向こうは黒Tシャツに黒いコットンパンツにスニーカーという軽装だ。
もっとも服装が走りの邪魔になることはない。
ダテに半年もこの格好で『被疑者』を追ってるわけじゃない。
そう――前を走る男は『被疑者』。
俺の名前は光宗多希(みつむね・たき)。
所轄に配属されて半年の新米刑事だ。
経験こそ浅いものの、相棒(バデイ)を組んでいる先輩刑事が優秀なおかげで、この半年の間に検挙した被疑者は数知れず。
こうした追跡劇だって何度となく経験済みだ。
なによりこっちはふたりで――。
何気なくいつも相棒がいるだろう斜め後ろを見たときだ。
ドクンと心臓が跳ねた気がした。
―――あいつどこへいった……!?
つかず離れず俺と一緒に被疑者を追っていたはずの相棒の姿が――消えている。
動揺したせいか、わずかに男との距離が開いた。
場所は裏通りを抜けて、ガード下の跨道橋に差し掛かっている。
そこを抜けた先は住宅街だ――マズイ。早く取り押さえないと……!
どうにか跨道橋にたどり着いたとき、男が出口に向かう途中の路上に女性が現れた。
くっきりとした眼元、小さな鼻、果実めいた唇――小顔ながらとても綺麗な顔立ちで、結い上げた長い髪と透け感があるワンピースが涼しげだ。
日陰に入ったことで、一旦たたんだらしい日傘を手に邑木と俺を見て眼を丸くしている。
その女性の顔を見た瞬間、俺の脳内にキラリと光の欠片が弾けた気がした。
眼は間違いなく眼前の事象に像を結ぶが、脳内には全く別の映像が浮かび上がる。
場所は病院。
受付にいる女性の姿と、提示した診察券の名前が見える。
さらに女性が壁の案内図を確認している。
指がなぞるのは――『心臓外科』。
そこまで映像が展開したところで、女性の悲鳴が響き渡った。
―――マズイ……!
と思ったときには跨道橋の出口を背に、男が女性の首に腕をまわしつつ振り向いた。
いつの間に出したのか、折りたたみ式のナイフをこちらに向ける。
俺は被疑者の男と女性の3メートルほど手前で足を止めた。
「落ち着きなさい。馬鹿な真似はやめるんだ、邑木(むらき)」
なだめるように両手で示すものの、男――邑木は
「うるせえ、近づくな! この女切り刻むぞ……!!」
まだ若い女性は蒼白な顔で震えているばかりだ。
だが、俺は先の脳内で展開された映像である事実・意味を知っている。
チラリと女性の状態を確認し、俺は努めて冷静な口調で話し始めた。
「今すぐ手を放してあげたほうがいい。その人は心臓疾患で通院中の身だ。お前のせいで発作を起こしたら……大変なことになるぞ」
「なっ……!?」
邑木が驚いた面持ちで女性を俺の顔を見比べる。
「そ、そんなウソに騙されるか……!」
「ウソじゃない。訊いてみなさい……そうですよね、真波(まなみ)さん」
いきなり俺に名前を呼ばれて、女性――真波は邑木の腕の中でぽかんとした。
「は、はい……そうです」
「……知り合いかよ?」
邑木はなおも疑わしそうに俺と真波を交互に見る。
―――まあ、そう思うのも無理はないよな。
「……どこかでお会いしました?」
こう訊ねる真波も不思議そうな面持ちだ。
「以前、真波さんを病院で見かけたんです」
穏やかに言い返したものの、真波は納得がいかないのか怪訝そうだった。
「……と、とにかく……近づくんじゃねぇ!」
毒気を抜かれたみたいに固まっていた邑木が、再び鼻息も荒くナイフを振り上げた。
「落ち着けって。とにかく真波さんを放しなさい」
―――あいつ、どこへ……。
この局面で姿を消した相棒に意識が向いたのもつかの間、男の背後に見慣れた長身の影が近づくのが見えた。
薄闇に浮かび上がるのは精悍な顔立ちに鋭さを秘めた切れ長の眼、通った鼻筋、薄めの唇――すっきりとした短髪にスーツ姿の男の姿だ。
ネコ科の大型肉食獣を思わせる身のこなし、気配も足音も見事に消している。
すぐさま姿を消した相棒の意図を読み取り、俺は大きめの声で「とにかく!」と邑木の注意を引くことに専念する。
そうした間にも、真波の顔色がますます悪くなってきた。
息遣いが苦しげだし、邑木が支えてなければ今にも倒れそうだ。
―――時間がない。
「真波さんを放せ。人質が欲しいなら俺がなってやる」
言いながら数歩近づいた俺に、邑木が慌てた様子で真波を引きずるように後退した。
そのとき――ナイフを持つ邑木の腕を、背後から伸びてきた相棒の手がとらえた。
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