夜−NightCruising−
深青の宵闇が霧雨にぼんやりと霞んでいる。
ガラス張りのエレベターに乗り込んだ男は、むっつりと押し黙ったままくすんだ大気の下に広がる光の粒を眺めていた。
ビルに灯ったきらびやかな光は、宝石に似ていなくもないが――男には味気ないものにしか見えない。
無精髭の顎をさすりつつ視線を戻すと、ガラスに胡散臭い中年男が映っている。
長身に薄汚れたベージュのコート、グレーのスーツはもくたびれている。
しかもボサボサの金髪に無精髭、胡乱な眼つきとくれば、胡散臭い以外の何者でもあるまい。
ふん、と鼻から息を吐き出した時、エレベーターが停止して誰かが乗り込んできた。
すぐに扉が閉まったところを見ると、乗った人物がすぐに『CLOSE(閉)』ボタンを押したのだろう。
予想通り、すぐさまエレベターは上昇し始めた。
視線だけ動かし、乗ってきた人物をそれとなく観察した。
うつむいているため、長めの前髪に隠れてどんな顔立ちかわからない。
だが、漆黒のコートに包まれた全身から冷えた気配が放たれている。
―――何者だ……?
そんな疑問が浮かんだ時、黒衣の主は顔を上げた。
ほう。
思わず胸の裡で呟きながら、男はその顔をまじまじと眺めた。
さらりとした黒髪、切れ長の冷めた光を宿す眼、細い鼻梁、形の良い唇――整った顔立ちにもかかわらず、甘さが感じれない。
ガラス越しに眼が合うと、男はすうっと笑みを浮かべた。
それまでの冷めた気配はなくなり、人を惹きつける魅力的な笑みだった。
思わず向き直ると、男は笑みを浮かべたまま口を開いた。
「……セルジュ・ザンビーノ刑事だね?」
訊くというよりは、確認の口調だ。
「誰だ、お前。なんで俺の事を知ってる?」
「俺は沢村(さわむら)。アンタに話があって来たんだ」
顔をしかめて問うセルジュに、沢村は淡々と答えた。
「なんの話だ?」
セルジュが訊き返すと、沢村はおもむろにエレベーターの階数表を振り返った。
つられて視線を向けると、最上階に着くところだった。
「――着いたよ」
沢村が言うが早いか扉が開いた。
そのままエレベーターを先に降りた沢村の後を、セルジュは慌てて追いかけた。
「待て、ここは一般人は立ち入り禁止だ。一階の警官は何をやってるんだ」
セルジュは沢村の背中に言いながら足を速めた。
横に並ぶと、沢村の腕に手をかける。
「下の警官は急がしそうだったよ。捜査からはずされた刑事が、勝手に現場に入ったから混乱しているんだろうね」
立ち止まった沢村は、悪びれた風もなくセルジュに首を傾げて見せた。
セルジュは渋面を作って黙り込んだ。
捜査からはずされた刑事とは、他でもない自分だ。
「で、お前はどうやって入ったんだ?」
「『ザンビーノ刑事に話がある』と言っただけ」
そんな理由で一般人を入れるとは思えなかったが、セルジュはとりあえず納得することにした。
気がつくと、エレベーターホールから奥に進んだところにある、ガラス張りの広間に出ていた。
工事中の立て看板もそのままに、脚立や工具類も放置されている。
壁の一面にはビニールが無造作に貼り付けてあった。
ガラス張りのドアの手前、剥きだしのコンクリートに点々とどす黒いシミが広がっていた。
すでに片付けられた鑑識のポイントがなくとも、それが血痕だとひと目でわかる。
「……あれが死体のあった場所?」
淡々とした沢村の口調に、セルジュはため息をついた。
本来なら一般人は追い出すところだが、不思議と沢村を追い出そうという気にはならなかった。
捜査からはずされた刑事と一般人は、どちらも現場への立ち入りは厳禁だ。
この場合、沢村もセルジュも立場にさしたる違いがあるわけではない。
そこまで考えて、セルジュは鼻から息を吐き出した。
「ああ。被害者はここに何者かに呼び出されて殺された」
「殺されたのは、ナタリー・アンベルゼ。元ブレッセル・アンド・ガーディアンズの秘書」
セルジュは驚いて沢村を見た。
「ちょっと待て。なんでそんなことまで知ってる? 殺されたのは昨日の夕方で、まだ被害者(ガイシャ)の身元の確認だって済んでねぇんだぞ」
「だから」
と、沢村はセルジュに向き直った。
「アンタに話があるってさっき言っただろ」
沢村は問いかけるように首をわずかに傾げた。
さらりと揺れる黒髪、冴えた眼差し――。
じっと見つめる黒衣の主に、セルジュはゴクリと喉を鳴らして頷いた。
「――ナタリーが死にました」
言葉とは裏腹に、静かで穏やかな物言いだ。
微かな違和感に沢村が眼を向けると、長い黒髪の男――久弥がナイフとフォークを手に眼の前の男に話しかけている。
場所はダイニングルーム――。
大型客船エバンジェリンのVIP区画の部屋に身を置くごく一部の者だけが、この場所で食事するらしい。
『らしい』というのは、沢村自身がまだこの船内での生活に慣れていないためと、誰かが説明してくれたわけではないことによる。
それにナタリーが誰なのか知らない。
いずれ自分には関わりのない話だろうと、沢村は無表情に眼の前の食事に意識を戻した。
この日の夕食は和食。
炊き立てご飯は少し硬めだが、味噌汁はダシが利いているし、焼き魚の焼き加減も申し分ない。
とはいえ、和食は沢村のみで、他の面々は洋食であるらしい。
現に先の久弥は、ラム・チョップを器用にナイフで切り分けて口に運んでいた。
沢村が黙々と箸を動かす間も、話は続いているようだ。
「――『血塗れの猟犬(ブラッディ・ハウンド)』が発動するな」
しばしの沈黙の後、低い声がそう言った。
声の主はユージン・K。
黒髪、浅黒い肌、精悍な顔立ち――岩のような巨漢だが、筋肉質の身体を包むスーツは上等で、身を包む気配もこの船の支配者にふさわしい。
ユージンは猛禽めいた灰色の眼を細め、思案げな眼差しを虚空に彷徨わせている。
「どうします? ナタリーの情報はこちらには重要です」
そう訊き返した久弥が、人形めいた顔にわずかな険をにじませる。
「その前に何があったのか知りたい……どこまで調べた?」
「ニューヨーク市警のセルジュ・ザンビーノが事件を担当しています。ですが、彼は今朝捜査からはずされました……おそらく手が回ったものと」
「ザンビーノ。『食いついたら離れない』だったか……使えそうか?」
「ええ。ですが、唯一弱点があります」
ほう? ――と、ユージンが息をつく。
「あなたと同じ、黒髪の若い男が好みのようです」
そこでユージンと久弥の視線が沢村に集中した。
「……何?」
値踏みするような2人の視線に居心地の悪いものを感じつつ、沢村は表情を変えなかった。
「沢村、ニューヨークへ行ったことは?」
「あるけど……それがどうかした?」
自分には関わりがないことと思っていたのだが――イヤな予感がしてきた。
「……部屋に戻って準備したまえ。君を連れてニューヨークへ行く」
有無を言わせぬユージンの物言いに、沢村はため息をついた。
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