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死天使JOKER

[1] ポテチ星人コンソメ系


「――コロ、サ、レタ……?」

 返ってきたのは、およそ日本語とは思えない言語――発音が変なのだ。

「ああ、そうだよ。殺されたんだ……これで二人目だ」

 俺はむっつりと言い返し、今度はどんな妙ちきりんな答えを返すかと相手を眺めた。

 ひと言で言えば人形のような奴だ。

 サラサラの黒髪、対照的に白い肌に猫めいた眼元。

 服装はヨレヨレの黒のジャケットにブカブカのパンツ。足元は素足に汚れたスニーカー。

 身なりは汚いが中身は綺麗――汚い包装紙に包まれた、上等な菓子といったところか。

 お菓子人形は俺を見つめてしかめっ面をしている。

 何か考えているのだろうが、考えるフリをしつつボーッとしているように見えなくもない――短気の虫が疼いてきた。

「なんとか言え、キリフダ。そんな顔したって、出てこないモンは出てこねぇぞ」

「怒らないでよぉ、ザイゼンさん」

 テヘへ、とキリフダは甘ったるい顔で笑った――これだから菓子っぽいのか?

 いや、それだけではない。キリフダは机にうず高く積み上げた菓子袋のひとつを破いた。

 ビリリ、という音が、狭い派出所の室内に大きく響く。

「おい、何をくつろいでやがる。ここはお前の菓子食い天国じゃねぇぞ」

 そこらのチンピラなら震え上がるドスの利いた声で俺が言っても、キリフダはニコニコ笑って「大丈夫大丈夫」などとポテトチップスを頬張っている。緊張感の欠片もない。

「お前なぁ。どこの世界に交番で菓子袋開けまくる奴がいるんだよ。同僚が帰ってきたらなんて言い訳すりゃいいんだ。あ、コラ! 俺の湯飲みを勝手に……コーラ注ぐな!!」

 俺は慌ててキリフダの手をつかみ、コーラがなみなみと注がれた湯飲みを取り戻した。

「じゃあ、こっち使うね」

 悪びれた風もなく、キリフダは同僚の湯飲みにコーラをドボドボと注いだ。

 俺が何か言う前にコーラを一気飲みし、「ぷはあ~」などと実に幸せそうに息をつく。

 見ているうちに頭の中がすっと冷えてきた。怒るほうがバカっぽい。

「それでさ、どこでどんな風にコロサレタの?」

 やはり変な発音でキリフダは話を戻した。

「被害者の死因や殺害方法など、一般人には警察内部の情報は開示できない」

 俺は断固とした口調で言い返した。

 これでも警察官(サツカン)だ――左遷(トバ)された身の上でも。

「だって、例の不審者の話に関係してるんでしょう?」

 キリフダの問いかけを無視して、俺は湯飲みのコーラをがぶりと飲んだ。



 発端は不審者情報だった。

 閑静な住宅街にあるにもかかわらず……いや、閑静だからこそなのか、夕方から夜間にかけて不審者の目撃情報がチラホラと寄せられ始めた。

 お陰で俺が勤務する派出所も都心に比べて忙しくはないはずが、このところは警邏(ケイラ)――見回りや挙動不審な人物への職務質問、通報現場への急行と何かと忙しい。

 だが、不審者については目撃情報が曖昧で、大方は無関係な人物を不安のあまりそれらしく感じた程度ではないかと――少なくとも俺は高をくくっていた。

 そんな中、1人目が殺された。

 所轄の刑事が現場を訪れ、俺と同僚は近隣住人から寄せられた情報の提供と現場周辺の案内、後はほとんど使いっ走りと雑用に明け暮れ――犯人の手がかりは杳としてつかめぬまま、俺を嘲笑うかのように……今朝2人目の被害者が変わり果てた姿で発見されたのだ。

 近隣の小中学校の集団下校や保護者による児童・学生たちの送迎などで、1人で出歩く若者の姿が徐々に減っていった。

 一方では、朝晩の犬の散歩を欠かさないご婦人や、昼夜問わず住宅街の掃除をしていた高齢ボランティアのメンバーまでもが、すっかり姿を消してしまった。

 今では日が落ちると、この辺りの住宅街は人影がなくなる。

 ところが――キリフダは違う。

 この少年が現れたのは今月の始め、折りしも不審者情報が寄せられ始めた頃だ。

『――オマワリさん、この近くのコンビニってどこですか?』

 ニコニコ笑いながら、人形のような少年はそう訊いてきた。

 こちらは制服を着た巡査、どこから見ても立派なオマワリさん。

 道案内もお手の物だから親切丁寧に教えてやる。

 すると、少年は菓子を買い込んだ帰りに交番へ立ち寄り、あたふたする同僚を無視して机のひとつに陣取って菓子を広げるや無邪気に食べ始めた――これには呆れ果てた。

 警戒心も緊張感もゼロ。

 だが、市民を守るのが警察官の使命、ここでキレてはいけない。

 パリポリ菓子を食べまくる少年に問うたところ、名前はキリフダであること、この近くに住んでいるらしいことなどがわかった――その他は一切不明。

「何のためにお前に不審者情報を教えたと思ってるんだ? 1人目の被害者が出た時点で、危ないから夜の1人歩きはやめろと言っただろう。それをこんな夜中に菓子抱えて――」

 俺が菓子袋のひとつを取り上げると、キリフダはまたしても甘ったるい笑みを浮かべた。

「ああ、それコンソメ味。ザイゼンさんはそれが好き? 僕とおんなじだねぇ」

 俺はガックリと脱力する――めげるな、俺。めげるな、オマワリさん。

「ザイゼンさんが教えてくれたコンビニのお姉さん、とても優しくて親切なんだよ。僕が迷っているとあれこれ教えてくれるし。そのコンソメ味はお姉さんのオススメなんだ」

「……スリーエフか、セブンイレブンか、それともローソンか?」

 何軒も教えたから、そのいずれかだろうが――。

「水色とピンクの可愛い看板のお店。名前は……なんだろ?」

「レシート持ってねぇのかよ。店名ぐらい確認しろ」

 と、ついかつての職場での口調になってしまう――癖はなかなか抜けないものだ。

 キリフダは立ち上がると、菓子クズだらけの手をパンパンと払って、ついでポケットに両手を突っ込んだ。

 ごっそり山と出てきたのは、すべてコンビニのレシートだった。

 俺の机にどっさり置いて、「やれやれ」などと言いながら再び菓子を食べ始める。

 呆然としつつも、俺はレシートの一枚を確認してみた。

 ――スリーエフ、多摩ミュータウン駅前店。

20XX年11月3日、午後10時52分。

合計金額1729円。

品名・ポテトチップス(スペシャルコンソメ味)。

品名・ポテトチップス(ハイパーコンソメ味)。

品名・ポテトチップス(ウルトラコンソメ味)。

品名・ポテトチップス(ロイヤルコンソメ味)。

品名・ポテトチ――。

「……おい、コラ。ポテチ星人コンソメ系」

「はぁーい、こちらポテチ星人コンソメ系でぇす!」

 律儀に手を挙げ、キリフダはニコニコ笑っている――何が楽しいんだか。

「お前、これ全部スナック菓子のレシートかよっ!? お前の食生活はどうなってんだ!!」

「だって……」

 途端にキリフダは肩を落として俯いた。

 シュンとした姿が叱られた子供のようだ。

 その様子に、俺はハタと気がついた。

 こんな夜中にコンビニで買物し、帰り道に交番に立ち寄って菓子を食べているのは――家庭の事情があってのことではないか。

「お前、そういえば家はどこなんだ? 親は? 家に帰っても誰もいなくて1人なのか? 1人じゃ心細くて、それでここに入り浸っているのか?」

「ザイゼンさん、心配してくれてるの?」

「当り前だ。俺は警察官だぞ。困っている人を助けるのが――」

「うん、僕もおんなじ。困ってる人と迷っている人と、悪い人をなんとかする……けど」

 いや、ちょっと待て――『僕もおんなじ』って何が、だ?

「おい、俺と同じってなんだ。お前も困っている人や迷っている人を助けるってのか?」

「助けるよ、もちろん。けれど、ポテチはさぁ……反則だと思うんだよねぇ。僕の時代にはなかったもん。こんな美味しいもの……ザイゼンさんってば幸せ。ポテチ星人になれる」

「はい?」

「ほふふぁ、ほへひへいひんひは、はへはへ。へほ、ふぁいへんふぁんふぁ、ふぁへふ」

 キリフダはまたしてもバリボリとポテチを食べている――口の中めーいっぱいかよ。

「日本語で話せ。それにだ、お前の名前と年齢と住所。今日こそ、コイツに書いていけ」

 俺が差し出した用箋を受け取り、キリフダはモゴモゴ口を動かした。

 綺麗な顔立ちが、フグのように頬がパンパンで台無し。ポテチの何がそこまで執着させるんだか。

 キリフダはたどたどしく、ボールペンで白い紙に何やら書き込んだ。

 名前・小田切礼一郎(おだぎり・れいいちろう)、年齢・20歳。住所・東京都多摩市多摩ミュータウン――。

 名前の真ん中を取って『キリフダ』か。年齢と住所を見て、俺はキリフダの顔を睨んだ。

「おいコラ、ポテチ星人」

「なぁに? ちゃんと書いたよ」

「『なぁに?』じゃねぇよ。この住所はこの派出所のモンだろうが。それにハタチだぁ?ウソを書くなウソを。お前、どう見積もっても16、7が精々だろ」

 キリフダは俺の顔をとっくりと眺め、「テヘへ」と照れ臭そうに笑った。

「本当の年齢は? お前の年頃で夜中にフラフラ出歩いているのは補導対象だな」

 キリフダは「ホドウ?」とキョトンとした顔だ。

 おもむろに顔の前に両手を開き、指を折りながら何やら数え始める――おいおい、数えないと自分の年がわからないってのか?

「えーと、記憶浄化が明治元年の1868年……てことは、僕は……かれこれ156年?うわ、まだまだぺーぺーだな。トキカゲが知ったら笑うかも。ん? こっちでは関係ないのかなぁ」

 明治元年1868年? それに156年ってなんの話だ。まったく――。

 文句を言おうと言いかけた時、室内に電子音が鳴り響いた。



 青い闇に影絵のような木々の黒――いつからこんなに夜の闇は深くなったのだろう?

 俺は見えてきた雑木林の入口で、それまで乗っていた自転車を止めるなり走った。

 木々の隙間から車のヘッドライトが光る。

 やがて開けた場所に出ると、パトカーと私服刑事たちが数人たむろしているのが見えた。

 意外にも紺色の制服姿の鑑識もいる――ずいぶんと素早いな、とチラリと思った。

 いかめしい顔をした刑事たちの間に、見知った同僚の顔を見つけて俺は駆け寄った。

「――3人目です……」

 まだ新米の芳田(よしだ)巡査は顔を強張らせて俺に言った。

 現場周辺に張り渡された黄色いテープが揺れる。

 その向こう――被害者のものらしい白い脚が覗く。また女性だ……それも、若い。

 その時、刑事たちの1人が、俺を振り返ってじっくりと眺め回した。

 俺は眼をそらして知らん顔をするが、相手は近づいてきた――ええい、来るなっつーの。

「……ザイゼン。こんなところで何してるんだ?」

 年かさの見知った顔の刑事は、さも不思議そうに訊く。

「はい。午後11時45分、こちらに急行せよと指示を受け、急ぎ駆けつけました」

 せいぜい慇懃に言い返すと、年かさの刑事は相好を崩した。

「ははあ。さてはお前さん、トバされたんだな? あれほど暴走するなと釘を刺したのに」

 俺は涼しい顔でその言葉もやり過ごしたが、傍らの若き同僚は怪訝そうに眉を寄せる。

「あの、失礼ですが……ザイゼンさんのお知り合いですか?」

 俺は言いかけた文句を飲み込む――階級が同じなんだから『さん』はいらねぇだろ。

「知り合いも何も。元は警視庁捜査1課きっての切れ者……財前惟年(ざいぜん・のぶとし)、別名『悪魔のノブ』とはコイツのことだ」

「えっ、アクマっ……!?」

 いきなり俺の肩越しに、ニョキッと生えたのはキリフダだった。

「うわっ……お前、一体どうやって?」

「さっきからアンタの後ろにおったぞ。てっきり目撃者を連れてきたんだと思っていた」

 のんびりと年かさの刑事が返すと、キリフダは俺の肩にぶら下がったまま頷く。

「ザイゼンさん、アクマなの?」

「ええい、悪魔がスリーエフ案内するか? それよりどうやってついて来たんだよ」

 文句を言った時、一際明るいフラッシュが瞬き、辺りを青白く染め上げた。

 黄色いテープの向こう、それまで見えなかったものが眼に飛び込んできた。

 長い髪が乱れかかる、あどけなさの残る少女の顔。

 見開いたままの生気のない黒い眼。

 ズタズタに切り裂かれ、半裸の身体にまとわりつく布地。

 白い肌と鮮血の赤――。

「……チクショウめ」

 奥歯の間から押し殺した声を漏らし、俺は変わり果てた少女の亡骸を睨み据えた。

 俺が何気なく見ると、キリフダも少女の姿をじっと見つめていた。

 白い横顔が仄かに燐光をまとって、人離れした顔がさらに作り物めいて見えた。

 噛みしめた唇の間からキリフダが低く呟いた。

 俺には意味不明な言葉だった。

「――逃亡レイス……」


[2] 猟奇的ブラッド


「――俺らは考えなくていいんだよ」

 俺がさらりと流すと、ヨシダはわずかに鼻白んだ。

「けど、これで3人目ですよ? 今月7日に1人、2人目が今日……あ、日付が変わってますね。昨日19日未明、同じくその日の深夜に3人目。手口はいずれも同じ猟奇殺人」

「警察官(サツカン)が軽々しく『猟奇』言うな。マスコミ系の脳ミソで考えると刑事の道が遠のくぞ」

 自転車を押しつつ睨むと、ヨシダはそれでも不満そうに唇を尖らせる。

 若き新米巡査には、自分の管轄区で起きた殺人事件に対して、格別興味がかき立てられるのだろう。

 俺もかき立てられないわけではないが――トバされて少々懲りた。

 面倒はゴメンだ。

 雑木林はすぐに途切れ、住宅街の裏路地に出た。

 緩やかな坂道の途中に、私立の名門・聖蓮(セレン)学園の洋館めいた瀟洒な校舎が森の木々の間に覗く。

 このところは学園の生徒たちの姿も、めっきり見なくなった。

「そういえば……あの子、大丈夫ですかね?」

 白い校舎を眺めつつ、ヨシダが思い出したように訊いてきた。

「……さあな」

『大変だ、早くレイスを止めないと……!』

 そんな言葉を残し、キリフダは身を翻して走り去ってしまった。

 追いかけるヒマもないほどの素早さと慌てた様子に、刑事たちが俺とヨシダに身柄確保を命じたのだが――。

 キリフダの姿は忽然と消えていた。

 その後、現場に規制線を張って現場周辺道路の検問を要請、モロモロの雑用をこなして現場から解放される頃には午前3時を回っていた。

 キリフダについて刑事たちにあれこれ訊かれたが、俺もヨシダも名前程度しか知らないと答えるにとどめた――。

「でも、ザイゼンさん。あの刑事さんにはあの子のこと『S』だって……」

 さすがに老練の刑事をごまかすのは難しいと判断した俺は、とっさに『あいつはSです』と言ってしまった。

 ちなみに『S』というのは、情報提供者などの捜査協力者を指す隠語だ。

「そうでも言わねぇと、あの場であいつの説明に困ったんだ。この俺の後ろにくっついて気配も悟らせないなんて、タダモンじゃねぇとあのエリちゃんに知られてみろ。やれ何者だ、すわ容疑者か……なんて想像しただけで頭痛いぜ」

「エリちゃん?」

 ヨシダが怪訝そうに顔をしかめる。

「あのベテランっぽいゴマ塩頭のおジイ。所轄の江里将種(えり・まさたね)警部補、通称エリちゃん」

「へえ、可愛い呼び名ですね。じゃあ、あの子は不審者や事件には無関係なんですか?」

「……ただのポテチ好きのガキだろ」

 俺は言いながら、本当にそうだろうかと密かに疑っている。

 だが、あいつが犯人だとはどうしても思えない。

 ただひとつだけ確かなのは――キリフダは何かを知っている。

 その時――低い地響きがして、辺りの景色がグラリと揺れた。

「うわっ!」

 ヨシダがよろめき、俺はとっさに自転車を支えに素早く周囲を見回した。

「な、なんだ? あれは――」

 木々に半ば隠れた校舎の向こう、屋上付近から光の玉が白く尾を引いて空を駆けた。

 流れ星のように爆ぜた光は、そのままこちらに向かって一直線に飛んでくる。

「わわわわ、な、ななな、なんでしょう、アレ……!?」

 ヨシダは声をひっくり返しておののいている。

 見る間に近づいてくる光は、軽自動車ほどの大きさがある。

 光源がなんなのか定かではないが、ひたすらに眩しいのは確かだ。

 そう思いつつ俺が手をかざしたその時――。

「そこを退いて、ザイゼンさん……!!」

 耳朶を打ったのは、聞き覚えのある声だった。

「退け、ヨシダ……!!」

 狼狽えて固まったヨシダを突き飛ばし、俺もすぐさま飛び退いた。

 それまで俺たちが立っていた道路の中央を、光の玉が凄まじいスピードで通り過ぎる。

 光の玉はすぐ先の雑木林の土手に激突して、花火のように無数の光の粒を散らした。

 再び軽い地響きと同時に、地面がグラリとひと揺れする。

 森の木々や土手や辺りの景色すら神々しく染め――白い光はふっとスイッチを切るように消えた。

 しんと静まり返った周囲に、ドンドンと音が響くと思ったら――自分の心臓の音だ。

 俺は呼吸を整え、倒れた自転車はそのままにヨシダを見た。若き巡査は茫然自失の体で、真っ青な顔を土手に向けて座り込んでいる。

「今のは――」

「……さあな」

 せいぜい強気に返したが、俺の声も少しばかり震えがきていた。

 ゆっくりと土手に近づくと、辺りにはもうもうと白煙が立ち込めている。

 土手の土を盛大に抉り取って、車が衝突した後のような軌跡を残した先に――白い煙に包まれたまま、人影がヨロヨロと出てきた。

 一瞬、ガラにもなく腰の拳銃に手が伸びかけたが、すぐにその手を下ろした。

 煙の中から現れたのは――。

「キリフダ……!!」

 俺が駆け寄るのと、キリフダが倒れかかるのは同時だった。

 泥まみれの身体を受け止めると、じんわりとした熱が伝わってきて腐葉土の匂いがした。

「ザ、ザイゼン……さ、ん?」

「お前、一体――」

 言いかけた時には、ガクリとキリフダの全身から力が抜けていた。

「あ、おいっ……!?」

 俺の腕の中でキリフダは気を失っている――コイツは一体なんなんだ?

「その子……キリフダ君ですよね?」

 ヨシダが恐る恐る訊いてくる――『キリフダ君』かよ。

「ヨシダ、自転車頼むわ」

 唖然として固まったままのヨシダをその場に残して、俺はキリフダを背負うなり急ぎ足で坂道を下っていった。



「――ここ……どこ……?」

 ドアを開けて真っ暗な玄関に入ると、意識を取り戻したキリフダが俺の背でボソボソと言った。

 靴を脱ぐのもそこそこ、背負った泥だらけの物体を風呂に運ぶ。

 ドスン、と思ったよりも大きな音を立て、キリフダが脱衣所の床に落っこちた。

「……痛いよぉ」

 そんな非難めいた声もどこか弱々しい。

「すまん。大丈夫か?」

 慌ててキリフダに向き直り、間近に顔を覗き込む――綺麗な顔が泥に汚れて台無しだ。

 眼が合うとキリフダは「テヘヘ」と笑った。

 思ったよりも元気そうだ。

「キリフダ、とにかく風呂に入れ。話はそれから聞くから」

「フロ……」

 キリフダは室内を物珍しそうに眺め、俺に視線を戻した。

 そこでいきなり姿勢を正して正座すると、ペコリと俺に頭を下げた――ちょっと驚いた。

「……お言葉に甘えまして、お先にいただきます」

 俺は呆然と泥にまみれた黒髪の頭を見つめた――どんな家で育ったんだ?

 追いかけてくるヨシダをひたすら無視して、俺はキリフダを自分のマンションへと連れ帰った。

 キリフダの身柄を所轄の刑事たちに渡すのだけは、しばし避けたかったからだ。

 根拠は自分がこの眼で見たあの光だろう。

 それに――キリフダの言葉も気になっていた。

『――逃亡レイス……』

 そして姿を消す直前の言葉もある。

 キリフダは何かを止めようとして、その結果があの光の暴走だったのではないか。

 とはいえ、あの光がなんだったのかは不明だが。

 とにかくキリフダに話を訊く。結果如何では――所轄の刑事たちに身柄を預けることになるかもしれない。

 こうした根拠も何もない行動が、エリちゃんも言っていた俺の困った暴走癖のなせるワザか。

「フン、別にいいさ」

 独りごちて、俺はタンスから洗いざらしのパジャマを取り出した――少し大きいが別にいいだろ。

 それとバスタオルを手に風呂に向かう。

 ザバザバと派手に湯の音が響いていた。

 脱衣所の戸を開けると同時に、濡れ髪のキリフダが顔を覗かせた。

「ザイゼンさん、背中見て。背中――」

 と、裸の背中がこちらに向けられた瞬間、俺は息を呑んで立ちすくんだ。

 風呂上りの湯気の立つ身体、しなやかな裸の背中に視線が吸い寄せられる。

 肩甲骨の辺りにタトゥーが彫り込まれていた。

 精緻な意匠は翼の形で背中を覆っている。

 右腕に『DA‐J』とあり、左手の甲には繊細な花のような紋様が施されていた。

 色彩は黒のみだったが、それら意匠には見る者を圧倒する異様な迫力があった。

 日本のタトゥー技術の高さは知っていたつもりだが――これには真面目に驚いた。

 ―――いや、それよりも……。

 キリフダの腰から下――妙に丸みを帯びたラインが眼を惹く。

「どう? 汚れ、落ちてるかな……?」

 キリフダが肩越しに振り返る。

 汚れは――ない。

 タトゥーも鮮やかな白い背中は綺麗なものだった。

 だが――。

 肩越しに振り向いたキリフダノの胸元を見て、俺は盛大に最大級の驚きに固まった。

 ふっくらとした魅力的な盛り上がりは――疑う余地のない胸の膨らみだ。

 つまり……。

「お、お前、女だったのか……!?」

「えっ」

 キリフダが首を傾げつつ振り向いて――眼の前にほっそりした身体つきに似合わぬ豊かな胸が揺れ――。

「バカ、こっち向くな!」

 慌てて眼の前にタオルをかざしてガードする。

「汚れ、落ちてたかなぁ?」

 キリフダは気にした風もなく無邪気な声音で訊ねる。

 カッと頬に血が集まるのを、ごまかすように咳払いしつつ眼をそらして答えた。

「泥は綺麗に落ちてるよ。それより、そのタトゥーはなんなんだ?」

「――これはシルシ」

「シルシ?」

 うん、とキリフダは頷いて、俺の手からバスタオルを取って身体を拭いた。

 決まり悪く手渡すと、覚束ない手つきでノロノロとパジャマを身に着け始めた。

 キリフダの衣服は見かけのまま、泥まみれのジャケットとブカブカのパンツ、ヨレヨレのTシャツだけだ。

 自分のものとまとめて洗濯機に放り込んだ――そこで気づく。

「お前、パンツ……下着はどうした?」

「ないよ」

 ボタンを留めつつ、キリフダはケロリと答える。

 手つきがじれったい――短気の虫が。

 キレそうになりつつ見守っていると、ようやくキリフダはボタンを留め終えて俺を見た。

「ザイゼンさんのパジャマ、大きいよねぇ」

 キリフダの身長はせいぜい160センチに届くぐらい。

 俺は185センチを越す長身だし、それに見合う筋肉の固まりだから確かに図体だけはデカイ――顔も強面だしな。

「見ての通り俺は大男だからな。済んだら――」

『話がある』と言いかけた時、キリフダが大欠伸をした。

 仕方なく俺は言い直す。

「……とっとと寝ろ。布団は敷いてあるから」

 俺が言い終えるのを待たずに、キリフダは弾むような足取りで廊下を走っていった――すっかり元気になりやがった。

 心配して損した、とは言わないが。



「――うわあ……畳だぁ」

 キリフダは部屋に入るなり、布団が敷かれている四畳半の和室を眺めつつそう言った。

 嬉しそうに眼を輝かせるほどの部屋ではない、決して。

 マンションの角部屋だが日当たりは悪いし、六畳の寝室と四畳半の和室がひと部屋ずつ、リビング、キッチンのコンパクトな2LDK。

 唯一の自慢は広めのユニットバスだけ。

 独身のくせに部屋数もそこそこの広いマンションに住んでいるのは、トバされる以前の職務や身の上などモロモロに関係しているのだが――まあ、あまり楽しい話ではない。

 先に寝るよう言い置いて、俺はとにかく風呂に浸かった。

 湯が半分に減っていたのだが、キリフダの汚れを思うに今回はキレないことにする。

 そこでハタと気づく。

 男だと思っていたから、特に考えもせず泊めることにしたが――いいのか……年頃の娘を独身男性の1人住まいに一泊させて?

 だが、今の今まで男だと思っていた娘をいきなり異性として意識するのもどうかと思う。

 さらに言うなら、キリフダ自身が徹底して服装・言動モロモロ『男の子』だったわけで。

 脳裏に浮かびかけた魅力的な膨らみは――忘れよう。そうしよう。

「……うん、俺は何も見なかった」

 キリフダのことはこれまで通り『男の子』扱いする――無理矢理ながらそんな結論に至った。

 俺が入浴を済ませてリビングに戻ると、先に寝ているはずのキリフダが、床に正座して待っていた。

 足を止めた俺に向き直り、きちんと両手をついてお辞儀する。

「これからお世話になります。どうぞよろしくお願いします、旦那さま」

「――ダンナサマだぁ?」

 思いきり顔を歪めて半音ばかり声を上げると、キリフダが「あれ?」と首を傾げた。

「あれれ? 今のご挨拶ってこうじゃないの? 『お世話になります』って今はどんな風に言うんだろ……『ザイゼンさん、お世話になります』で、いい?」

 見かけによらず、妙に古臭いというか……それとも親のしつけの賜物か。

「お世話になるのは今だけだろ。いいから早く寝ろ、キリフダ。俺は定時には交番に戻るし、そうだな……俺はあと3時間、お前はあと6時間くらい寝られる」

「うん。じゃあ……おやすみなさいませ、ザイゼンの旦那さま」

 と、キリフダは実に丁寧にお辞儀をしたのだった――まったく何者なんだ、コイツは?



 数時間後、キリフダは姿を消した。

 俺がロクに寝た気にもなれずに、四畳半の襖を開けると――部屋は空だった。

 布団はきちんと畳まれて壁側に寄せて置いてあった。

 乾燥機の中の着替えも消えていて、リビングのテーブルにはメモが一枚と――どういうわけかスナック菓子の袋がひとつ。

『――ザイゼンさん、僕は行きます。

またアイツが動きだしました。

僕はアイツを止めなければなりません。

お菓子は起きたら食べてください。

それと……鍵を預けていきます。

お風呂とお布団をありがとう。とても嬉しかった』

 キリフダより、と下手クソな文字がしめくくる。

 俺は少しだけキリフダに苛立ちを覚えつつ、自分の不甲斐なさに腹が立ってきた。

 菓子袋の下には鍵が転がっていた。

 持ち上げると――ズシッときた。

 真鍮製の古めかしい鍵だ。

 握りの部分に獅子と月桂樹の紋章があしらわれ、鈍い光沢のある鍵の表面は傷だらけだ。

 大きさから察するにかなり立派な錠前のものだろう。

 キリフダはやはり何かを知っていた。

 この『アイツ』とは、おそらく犯人――。

 それに『行きます』、『アイツを止める』って――どこに行くつもりだ?

「ええい、チクショウめ!」

 俺は何かに急きたてられるように、制服に着替えるなり部屋を飛び出した。



『――死因は腋か動脈及び頚動脈損傷による大量出血……失血死です』

 まだ朝靄の残る通りを急ぐ俺の耳に、現場での鑑識の所見が蘇る。

 被害者はズタズタに切り裂かれて――失血死したのだ。

『鉤爪状の鋭いもの……凶器の特定は少し時間がかかるかもしれません』

 凶器の特定は犯人を断定する上で最も重要な要素のひとつになる。

 特定に時間がかかる間に次の被害者が出ないとも限らない。

 とはいえ、捜査情報は交番勤務のオマワリさんに逐一入ってくるわけではないから、犯人についての詳細情報がこちらに下りてくるのは、まだまだ先になるということだ――つまり、刑事(デカ)部屋の話を悠長に待っていられない。

 俺の脳裏では、昨夜の少女の亡骸にキリフダの顔がダブっていた――縁起でもない。

 派出所の中に駆け込むと、ヨシダが眠そうな顔で「オハヨォゴザイマスゥ」と挨拶してきた。

 ヨシダは通いではなく、派出所続きの住宅に1人暮らし――早朝でも関係なくいる。

「……おい、こっちにキリフダは来たか?」

「いえ、僕が起きてくる前はわかりません……お菓子はなくなってましたけど」

 ここに来たのだ――戻って菓子袋を持って、リビングに鍵と一緒に残していった。

 俺はポケットから鍵を取り出してあらためて眺める。この形と古めかしさ――どこかでこれに似た紋章を見た記憶がある。

 俺は記憶をたどり、すぐさまその答えを見つけた。

 ―――聖連学園。

 俺はすぐさま交番を飛び出した。

ヨシダの声が聞こえたが、走り出した時には風とともに消えていった。


[3] 死天使のテリトリー



 携帯電話から聞こえてきたのは、さっき顔を見たばかりのヨシダの声だった。

「――ああ、やっとつながった!」

 早朝の住宅街には人通りはなく、空気が青空のように冷たく澄んでいる。

「不審者が現れたそうです。聖蓮学園の用務員さんから通報がありました」

 俺は今まさに、その聖蓮学園の校門が正面に見える通りに出たところだった。

「どうして無線を使わない? 服務規程違反だろうが」

「それが……こんな朝早くから、エリちゃんが――」

「……エリちゃんがどうした?」

 ヨシダの緊張した声を聞きながら、素早く考えをめぐらせた。

 すぐさまいくつかの指示を出して、くれぐれも失礼のないよう言い含めて通話を切った。

 俺が派出所を飛び出すのに合わせるように、エリちゃんことエリ警部補が現れたという。

 俺の行方とキリフダについてあれこれ訊ね、帰っていったらしいが――。

『変ですよ、なんかこう……うまく言えないけれど』

 いつもなら、『バカ、予断でモノ言ってんじゃねぇよ』などと毒づくところだが、今回ばかりはヨシダの言葉が正しく思えた。根拠も何もない、それこそ勘のようなものだ。

 被害者が3人目ともなれば、現場の刑事は息つくヒマもないほど忙しくなる。

 そんな中、取り立てて事件に関連などなさそうなオマワリの俺とS・キリフダを訪ねてくるとなると――俺の経歴ガラミで誤解でも生じたか、あるいは……キリフダが疑われたか。

 いずれにしても時間がないのは確かだ。刑事たちがキリフダを捜しているなら、それが俺ガラミだろうとなかろうと、なおのことキリフダを誰よりも先に見つけなくては。

 派出所から学園前までおよそ10分のランニングをこなし、適度に身体が温まってきた頃に校門に着くと、用務員らしき初老の男が神妙な顔で待っていた。

「……あ、オマワリさん」

「どうも、おはようございます。こちらから通報を受けまして――」

 みなまで言わさず用務員は俺を門の内側に入れてくれた――引っ張り込まれた、というほうが正しい。

 まだ時間が早いため、敷地内に生徒や教員の姿はない。

 用務員は白いシャツにベージュのズボン、黒のゴム長靴というシンプルないでたちだ。

 手には庭仕事に使うらしい、柄の短い熊手と皮袋を持っている。

「それで……どちらに?」

 あえて不審者とは言わず用務員を促す。

 すると、用務員は梅干と渋柿を合わせて食べたような、凄まじい渋面で校舎の奥をビシッと指差した――仇がいるかのようだ。

「怖いので、私はここにおります」

 断固とした口ぶりに反論する気はなく、俺は1人用務員が指差しほうへと向かった。

 用務員が指差したのは、ふたつの校舎をつなぐ渡り廊下と中庭だった。

 遠くから見ると、それほどでもないが近づくと緑がやけに深い。

 立派な枝ぶりの欅が黒々とした葉陰を落とし、花壇に植えられた寒椿が早くも蕾を膨らませていた。

 ちらほらと深い緑に散る赤紫の蕾の間に、なんの前触れもなく漆黒の背中が現れた。

 細身の長身、黒髪のかかる白い襟足。凛とした立ち姿には、言い知れぬ迫力がある。

『――本当なんです、全身真っ黒の怖い感じの人が……』

 以前、派出所に寄せられた不審者の情報が脳裏をよぎる――これが例の不審者か?

 なるほど近づき難いこの雰囲気では、用務員が怖がるのもわかる気がする。

「――ああ、ちょっとすみません」

 優しげで穏やかな物言いで近づくと、黒衣の背中がこちらをゆっくりと振り返った。

 俺は少しだけ「ほお」と感心した。無論、顔にも声にも出さないが。

 玲瓏たる美貌、人形めいた整った風貌がキリフダに似ている。

 年齢は20代そこそこだが、コートにデニムパンツ、革ブーツいずれ全身真っ黒。それに雰囲気と気配は剣呑だ。

 無感情な青年の眼差しに不気味なものを感じつつも、俺はにこやかに話しかけた。

「失礼ですが、こちらの学園の方ですか?」

「……いいえ。俺は部外者です」

 きっぱりと低い声が返ってきた――堂々と認めるか、普通?

「はあ、そうでしたか。いや、まいったなぁ」

 俺はさも困った顔をして頭を掻いてみせた。

「何か問題でも?」

 青年は涼しい顔で訊いてきた――『問題なのはおめぇだよ』とは、もちろん言えない。

「ここは学園の……いわば私有地なんです。関係ない方には、学園側で立ち入りを禁じているんですよ。何か御用があってこちらに? 私でよろしければお手伝いいたしますが」

 親切丁寧に訊ねるのが、俺の職務質問のモットー。

 だが、青年は無表情のまま動かない。

「ちょっとこちらに……」

 さりげなく近づいて背に腕を伸ばす。ポケットに触れた瞬間、わずかに金属音がした。

「あれ? もしかして何か持ってらっしゃいます? 実は用務員さんが学園の鍵の束を失くされたそうなんですよ。私が呼ばれたのはそのためでして。あ、ひょっとして……拾ってくださったのは、あなたなんじゃないですか? 鍵の束」

 多少ワザとらしいものの、警察官とはいえ職務質問で相手の身体に触れることは厳禁だ。

 これは明らかに怪しい相手のみに使う裏ワザ。

 空き巣ならば泥棒道具が出る。

「ああ……ポケットの。これは――」

 拍子抜けするほどあっさりと、青年はポケットから鍵がついた金属の環を取り出してみせた。

 ぶら下がっているのは、キリフダが俺に預けた鍵と同じ――獅子の紋章の鍵だ。

「それは……あなたのものですか?」

 ここで自分のものだと言うならそれもよし。

『違う』と言うなら交番までご同行願おうか。

「これは複製したものです。オリジナルは別の人間が持っています」

 淡々とした口調で言うなり、青年は鍵を指差して――そろりと指先で撫でた。

「……っ……!」

 ひとつだった鍵がふたつに増えた。青年が撫でるとさらにひとつ増える――手品か?

「俺は無機物の複製が得意でして。これはそうして作ったものですよ」

 増えた鍵をまとめてひと撫ですると、鍵はひとつを残して煙のように空気を歪めつつかき消えた。

「……い、今のは……手品ですか?」

「見たままです……けれど、あなたがたは眼で見たものすら真実ではないと疑うようだ。嘆かわしいですが、人間とはそういうものなのですね。俺もいい加減学習しましたが」

 寂しそうに笑う青年は年不相応に達観して見えた。

 言うことも哲学者めいている。

「その鍵をどちらで? 用務員さんに確認していただくわけにはいきませんか?」

「この鍵はあの用務員のものではないと、あなたが誰よりも知っているというのに?」

 読まれている――コイツは一体何者だ?

 そろそろ感じのいいオマワリさんのフリをやめるか――そう思っていると青年の気配がふっと和らいだ。

「ひょっとして、あなた……ザイゼンさん?」

「は? いえ、どこかでお会いしました?」

 内心の動揺を悟られまいとすかさず言い返す俺に、青年が猫のように眼を細めて笑った。

「ああ、やっぱり。キリフダから聞いてますよ。とてもお世話になっているとか――」

「失礼ですが、キリフダとは……?」

「あれは……俺の相棒ですよ。『デス・エン』は2人一組と決められているので」

「デス・エン?」

 訊き返すと、青年は眉をひそめてため息をついた。

「……あなたは犯人を探しているのでしょう?」

 いきなり核心をつく質問に、俺はとっさに身構えた。

「アンタ……一体……?」

 ああ、と青年は思い出したように息をついて、ついで俺に向けて一礼した。舞台俳優のように優雅な仕草が様になっている。

 顔を上げるや、上品に微笑んだ。

「――申し遅れました。俺は時影(トキカゲ)。キリフダの相棒です」

 その名前は聞いたことがある。キリフダに年齢を訊ねた時のことだ。

 だが、ここで訊きたいのはキリフダとの関係でも名前でもない。

「ひとつ訊きたい。アンタらは何者なんだ? キリフダは、『アイツを止める』と言って姿を消した。アイツってのは犯人のことだろう? アンタらも犯人を捜しているのか?」

 俺の顔を眺めてトキカゲは「ふうん」と鼻を鳴らす――スカした気に食わない反応だ。

「ひとつと言いながら、質問はみっつになっているようだが? 我々の素性と行動目的、さらにはこれからの行動方針……いただけないな、欲張りは」

「いいから、教えてくれ」

「知ってどうする?」

 すうっとトキカゲの気配が冷えた。口調が変わり、眼つきすら冷たく鋭さを増す。

「我々の行動と目的はあなたには関係のないことだ」

 さらりと言いながら、トキカゲは鍵を振ってみせた。チャリチャリと金属が鳴る。

「あなたはキリフダにこれと同じものを預かっているはずだ。この鍵があなたを真実へと導く手助けになるだろうとアイツは考えたのだろうな。困ったことにアイツは少々、人間に肩入れしすぎるきらいがあるのでね」

 困ったものだ、とトキカゲはため息をついて鍵をポケットに戻した。

 そのまま何事もなかったように背を向けて歩きだす。俺は慌てて後を追った。

「待て! 鍵が真実に導くって、なんの真実だ? 事件について言っているのか……!?」

 ザワザワと風もないのに木々が揺れ、肩越しに振り返ったトキカゲの顔が影に沈んだ。

「あなたは警察官、行政サイドの人間だ。この国の国民の生命・財産を守り、公共の秩序維持に務める。我々も基本理念は同じだ。命を受け、果たすべき役目のためにここにいる。だが、我々とあなたは領域(テリトリー)がまるで違う。あなたは人間サイドのルールに従い行動したほうがいい……さもないと――」

 俺は唇を歪めて笑ってやった――こうした脅しなど慣れているから怖くもない。

「さもないと?」

「……死天使が誘うよ」

『デス・エンジェル・ガ・イザナウ』……?

 ゾクリと背筋を駆けた悪寒はトキカゲの眼の鋭さのせいばかりではない。

 言葉と同時に、トキカゲの背から巨大な翼が広がったからだ。

 漆黒の双翼が視界を黒く染める。

「……っ……!」

 瞬きした時には、ほんの数歩前にいたはずのトキカゲの姿は影も形もなかった。

 俺はしばし呆然として、思いきり自分の頬を平手で張ってみた。

 痛いが納得できない。

 空を駆ける巨大な光の玉、背中から羽根が生えた美貌の若者――昨夜から眼を疑うことばかりが起きる。

 ここらでいい加減、夢なら醒めてくれないかと思ったのだが――。

 すでに揺れていない木々を見上げ、俺はさて用務員にはどう言い訳しようと考えながら中庭を引き返した。

 途中、キリフダから預かった鍵を取り出してみた。

『――この鍵があなたを真実へと導く助けになるだろう、とアイツは考えたのだろうな』

 ならば――キリフダが俺に鍵を託した意思を汲み取ってやろう。

 俺は俺のルールとやらに従って行動すればいい。

 キリフダを捜すついでに犯人の手がかりも追うのだ。



 俺が校門まで戻ると、用務員は律儀に待っていた。

「不審者ですが……それらしい人物は見当たりませんでした。逃げたんでしょう」

 用務員は浮かないで俺が手に持った鍵を見ると、「おや」と首を傾げた。

「ああ、その鍵――」

「知ってるんですか、この鍵?」

「旧校舎の鍵ですよ。取り壊しが決まっているので、今は誰も入らないんですが」

 用務員が手を伸ばしたので、俺は素早く手を引っ込めた。

「この鍵、先ほど中庭で拾ったもので。私のほうで預からせてもらっても……?」

 みなまで言わずに語尾を濁す俺に、「はあ」と用務員は気の抜けた返事をして頷いた。特に思うところはなさそうだ。

 俺は丁寧に礼を言った後、『不審者が隠れていないか見回ろう』と申し出て、旧校舎の位置を教えてもらった。

 中庭を通り過ぎ、さらに森の奥を目指して歩きだした。

『トバされて凝りた』、『面倒はゴメンだ』と言いながら、すでに俺はどっぷりハマっている。

 キリフダ、トキカゲの顔が浮かんでは消え、最後に脳裏に蘇ったのは――昨夜の少女の無残な亡骸だった。

 あんな被害者をこれ以上、俺の管轄区内で出させてたまるか。

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