蜜事−ミツゴト−
―――温泉。
ふと目覚め間際の微睡の中で、この一語が浮かんだ。
無意識に伸ばした手が、硬いものに触れる。
冷えたざらつく感触に違和感を覚え、眉をひそめながら眼を開けた。
わずかに離れた位置に、眼を閉じた男がうつ伏せに倒れている。
ほの暗い室内で白く浮かび上がる肌、閉じた眼の睫毛が長く、細い鼻梁、形のいい唇――玲瓏たる美貌の主だ。
癖のないさらりとした髪は襟足こそスッキリしているが、前髪が軽く眼とサイドが頬にかかる程度に長い。
しかも身に着けているのは、平素見かけるピシッと着こなしたスーツではなく浴衣だった。
―――桜薙管理官?
横向きの視界は、自分も冷たいコンクリートの床に倒れているせいだとわかる。
しかも桜薙の近くだけが明るいのは、傍らに行灯めいた卓上ライトが
置かれているせいだった。
だが、それ以外の空間は漆黒の闇に沈んでいる。
周囲に満ちているのはひんやりとした空気で、どこか雨の日の朝めいたしっとりとした湿気が感じられた。
―――なにがどうなってる?
今更ながらに、この状況が異常だということに気づいた。
そこで上体を起こしたそうと、腕に力を込めて――。
「……っ……!?」
ガクンと腕から力が抜け、勢いよく突っ伏してしまった。
ゴツン!
思いのほか強く打ちつけてしまい、打撃音よりも「イテッ!」と大きな声が出てしまった。
瞬間、眼の隅にビクッと身体を震わせた桜薙の姿が映る。
「――広保君?」
どこか眠そうな声は、いつもとは違って妙に艶めかしい。
「はあ。すみません、管理官」
痛む額をさすりつつ詫びると、「いや」とすぐに柔らかな物言いで返された。
あらためて起き上がるべく腕に力を込め、どうにか上体を起こしたところで、左手首に嵌った手錠に気づいた。
しかも、片方は桜薙の右手首に嵌っている。
遅れて気づいたらしい桜薙の顔が、にわかに緊張したものに変わる。
「……どういうことだ?」
「さあ。自分にはさっぱり――」
答えつつ、広保は周囲をざっと見渡してみた。
卓上ライトの光の輪から外れた先は、思ったよりも広大な空間らしい。
というのも、ふたりの声が微かに反響している。
つまりそれなりの広さということだ。
地下室の可能性も考えたが、どうも様子が違うらしい。
「……どこだ、ここは」
思わずそんな疑問が口をついて出た。
桜薙はじっと考え込んでいるようだ。
それに先刻から身を起こそうとしない点も気にかかった。
「管理官、ご無事ですか?」
「平気だ。力が入らないだけで、痛むところはないよ」
平素よりも気さくに感じられるのは、
桜薙の浴衣姿のせいかもしれない。
一方、身長190センチを越す巨漢の広保は、仕事の際と同じスーツ姿だ。
優しげな顔立ちと口角が上がった口元のせいで、普段から人懐っこい印象の男だが――今は緊張のせいか面持ちは険しい。
「そういえば広保君、装備はどうだ?」
言われて慌ててポケットを探ったところ、携帯電話、腕時計、警察手帳、特殊警棒が消えていた。
―――マズイ。『アレ』もない。
青ざめた広保の顔色から、状況が呑み込めたのだろう。
軽く落胆のため息をつき、桜薙はのろのろと身体を起こした。
―――いったい、なにが起きた?
桜薙の腕と肩に手をかけ引き起こしながら、広保は記憶をたどり始めた。
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