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パンドゥーラ[前]

[0] プロローグ

 湿り気を帯びた風が浜辺を吹き抜けた。
 早朝。
 夜の蒼を残した大気は冷たく澄んでいる。
 潮騒は穏やかで、薄曇りの空は遠く水平線と溶け合っていた。
 冷えた砂浜に腰を下ろした男はぼんやりと海を眺めていた。  

 男が身に着けているのは、ネイビーのフィッシングベストにブルーのカッターシャツ、ベージュのカーゴパンツ、足にはアーミーグリーンのゴム長靴だ。
 どれも新品のように見えるが、頭に目深にかぶったキャップだけは、使い込んで所々擦り切れている。
 そんな格好の男は、誰の眼にも釣り人に見えるだろう。
 だが、男の手には釣り竿はなく、誰もいない浜辺にぽつんと腰を下ろして海を眺めているのだった。

 男の表情は空模様にも似て、どこかくすんでいた。
 眼の下にはうっすらと隈ができ、頬の辺りがやつれて肌は乾いていた。  男は疲れていた。
 あれほど情熱を持っていた仕事にも、円満で危なげなところなどない家庭にも、どこか疲れを感じるようになってしまった今の自分が悲しかった。
 気がつけば40をとうに過ぎ、長年真面目に勤めてきた会社では低迷する景気に押されて人員削減の憂き眼に遭うかもしれないのが今の男の身の上だ。
 管理職にあっても簡単に会社から追い出されるのが、経費を……ことにかかる人件費を少しでも減らしたい中小企業の現状なのだ。

『加藤(かとう)君。自主退職なら、それ相応の退職金を用意する。2、3日
考えてみてくれ』

 そう言って、上司は加藤に有給休暇を強引に取らせた。
 そして休みの初日の今日、夜明けを待たずに釣りに行くと書き置きを残し、加藤は自宅のマンションを後にした。

 一路海沿いの道をひた走り――辺りが薄っすらと明るくなり始める頃、眼にしたこの海岸で加藤は車を停めたのだった。
 加藤が座る浜辺の反対側のなだらかな斜面には、防風林の松の緑が鮮やかだ。
 砂浜には道路沿いに丈の低い草が密集して繁り、それらに混ざってハマナスの緑が乾いた砂浜に点々と緑を散らしている。
 花が咲けば、甘い香りと赤紫の花が殺風景な砂浜に彩りを添えるのだが、季節は五月……あいにくとまだ蕾は硬い。

 ここから、少し先の町までの間に五キロにわたって広がる砂浜と草地『千人浜(せんにんはま)』と呼ばれているらしい。
 らしい、というのは、加藤がここに来るまでの道中、道筋を確認するために読んだガイドブックに載っていた記述をぼんやりと記憶していたことによる。
 ガイドブックは観光客向けにも作られているらしく、そこそこによって違う名産品や詳細な地区名と主要道路、さらには地名の由来などがイラストつきで記載されていた。
 ガイドブックによれば、その昔、この沖合いで御用船が難破して乗っていた千人余りの命が波に呑まれて消えたという。
 千人浜の名は船に乗っていた千人に由来しているらしい。
 しかし、辺りの景色は穏やかでそういった悲劇的な伝説は少しも感じさせない。

 海は穏やかだった。
 日が高くなるにつれて風の湿り気は乾いたそれへと変わっていく。
 ぼんやりと海を眺めながら、加藤は自分がここに来た理由を考えた。
 海が見たかったわけではない。
 釣りも、いわば家を出るための口実だったような気がする。
 真の理由、とにかくがむしゃらに車を走らせたその理由は何だったのか。  都会から離れたかったのだ。
 あの会社のビルが建つ街から、安らげない自宅のリビングから……波の音に耳を傾けながら、加藤はそう思った。
 そして、何よりひとりになりたかったのだとも思う。
 加藤は眼を閉じ、波の音に耳を澄ませた。
 深呼吸する。
 鼻孔から、潮の香りがする空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 すべてが穏やかで静かだった。
 眼の前に広がる海の優しい波音は、疲れて張りつめた心を不思議と和ませてくれるように思えた。
 ゆっくりと身体を包み込む潮騒。
 寄せては返す規則的な波のさざめき。
 微かに吹き抜ける風の囁き……。
 しばらくして、加藤は鼻孔をくすぐる潮の香の中に別の匂いを嗅いだ気がした。
 微かな生臭い匂い。
 魚の死骸か何かだろう――加藤はそう思い込もうとした。
 せっかくの穏やかな眼前の海のような心に、少しの波風も立てたくはなかった。
 しかし、加藤のそんな思いなどまるでおかまいなしに、鼻孔に届く何かが腐敗したような不快な臭気は次第に強く、耐え難くなってきた。
 加藤は眼を開けた。

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