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秘めたる誤算

[序章]


 ―――殺すには惜しい。

 そんなことを思いながら、薄汚れたビリヤード台を挟んで向き合った相手に眼を凝らす。

 アーモンド形で切れ長の二重の眼、細い鼻梁、形のいい唇――玲瓏たる美貌の主だ。

 癖のないさらりとした髪は、襟足こそすっきりとしているが、軽く眼と頬にかかる程度に長い。

 均整の取れた肢体を包むスーツは、さして高級そうでもない。

 手に持ったアタッシュケースすら安物だ。

 それでいて姿が浮かび上がって見えるのは、ビリヤード台の隅に置かれたオイルランタンの炎のせいばかりではない。

 そんな男は、柳田司(やなぎだ・つかさ)と名乗った。

 本人は商社に勤めていると言ったが、果たしてモデル並みに容姿の整ったこの男を使いに出すとはどんな会社なのかと訝りたくなる。

 だが、いずれこの場には関係のない話だ。

 あらかじめ取引相手の素性は調べるが、対抗組織や警察関係者でなければ問題ない。

 本人が話す会社の名簿に名前が記載されていたし、同じく話した通りの住所・マンションに住んでいた。

 蓮波埠頭の倉庫街、中でも寂れきった古い倉庫を『取引』の待ち合わせ場所に指定されても、柳田は文句ひとつ言わずにこの場に足を運んできた。

 こちらは蓮波区最大の勢力を誇る指定暴力団・『碧凰会(へきおうかい)』には足元にも及ばないものの、そこそこ名の通った九鬼(くき)興業に身を置く突撃隊長の異名を取る男――火塚(ひづか)だというのに。

 見かけによらず度胸があるのか、それともただの世間知らずなのか……。

「――それで、売ってくれるのか?」

 沈黙を破ったのは、柳田の無感情な声だ。

「ああ。もちろん……先に金のほうを確認させてもらおうか」

 火塚が頷くと、柳田は無言でアタッシュケースを台に乗せた。

 慣れた手つきで鍵を開け、大きく開いてこちらに向ける。

 並んでいるのは五千万を下らない札束だ。

 金を見るなり火塚の思考から、柳田の美貌は彼方へ消え去った。

 1カ月前のことになる。

 蓮波港湾地区に一隻の船が入港することになった。

 個人所有の大型客船で、世界一周の旅の途中だという。

 この船に取引先を招いて、接待することになったのが柳田の会社だ。

 船上パーティーのセッティングを任された柳田は、酒や料理等ケータリング業者への手配とは別に、あるサービスも提供することを上司に命じられた。

 それが『ブレンド・ラッシュ』――富裕層の若者の間で密かに流行っている違法ドラッグだった。

 柳田は知り合いのツテを頼って売人を捜しまわり、ほどなく火塚の元にも『ブレンド・ラッシュ』を大量に仕入れられる売人を捜している男の噂が入った。

『巧くやれば、結構な稼ぎになるじゃねぇか』

 そう言って笑ったのは、他でもない火塚の兄貴分・馬酔木(あせび)だ。

 だが、馬酔木は九鬼興業の若頭――『碧凰会』との協定があるため、堂々と動ける立場にない。

 そこで馬酔木の代理として火塚が取引に名乗り出た。

 もっとも最近は『ブレンド・ラッシュ』絡みの事件で、売人が立て続けに検挙されていたため、殊の外慎重に動かねばならなかった。

 相手の素性を調べ上げ、行動監視に最低でも2週間――妙な動きがないとわかるまで取引は保留としたが、柳田はそれでもかまわないという。

 勤めている会社のほうも実態のないゴースト企業ではなく、数年前からそれなりの業績を上げている。

 加えて、羽振りのいい会社社長がクリスマスに合わせてパーティーを企画していることも、一部の取引先にはすでに知られているとわかった。

 そんな中、乗り気の馬酔木が、取引を急ぐよう命じたのが昨日――。

 待ち合わせ場所を柳田に指定し、火塚はかき集めた『ブレンド・ラッシュ』を詰める準備に入った。

 ところが、ここにきてある筋からタレコミがあった。

『――お前が取引しようとしている男、本庁の管理官だぞ』

 新しい悪戯を思いついたみたいな揶揄する口調で、聞き覚えのない男の声が電話口で楽しげに告げたのだ。

 本名は桜薙司(さくらなぎ・つかさ)――調べてみると、警視庁捜査一課殺人犯捜査係十数名の管理官の中に同じ名があった。

 といっても、馬酔木はその事実を知らない。火塚は報告せずに自分の肚に収めたからだ。

 火塚にはある考えがあった。

 それは――。

「……言われた額を持ってきたが……問題でも?」

 控えめにかけられた柳田の声に、火塚の意識はつかの間の回想から現実に引き戻された。

「いや。なにも問題ねぇな」

 じっと見つめていたアタッシュケースの札束から視線をそらし、火塚は足元に置いた黒いダッフルバッグを持ち上げた。

 ビリヤード台に乗せるさまを見ていた柳田が、「その中に?」と訊いてきた。

「ああ。中身を確かめてくれ」

 無造作に押しやると、柳田はバッグを引き寄せてジッパーを開けている。

 視線を落としてうつむいた男の頭に、火塚は胸元から出した拳銃を突き付けた。

 ハッと息を呑んだものの、柳田の眼に怯えの色はない。

「……これはなんのつもりだ?」

 静かな声も、無理に平静を装っている風でもない。

 そこはやはり職業柄なのか。

「フン。アンタの正体は割れてんだよ、桜薙管理官」

 火塚が口元を歪めて言うなり、柳田こと桜薙の眼が大きく見開かれた――これは本当に驚いているようだ。

「どうしてそれを――」

「巧く話を作ったモンだよな。会社は登記された本物。柳田という社長秘書も実在している……だが、そいつは潜入捜査の準備に時間をかけた結果だもんな?」

「くっ……」

 火塚の指摘に桜薙の無表情が崩れた。

 悔しげに歯を食いしばり、ひそめた眉がやけに艶っぽい。

 この男が潜入捜査でオトリになったなら、今頃この建物の周囲は捜査員が固めているのかもしれない。

 とはいえ、こちらもひとりでノコノコ出向いたわけではない。

 舎弟の手練れを数人連れてきて、倉庫周辺を見張らせている。

 異変があれば、彼らが携帯電話を鳴らすはずだ。

「……金をよこせ」

 火塚の考えはこうだ――取引に乗ったフリをする。

 現れた男から金を奪う。そして……殺す。

 ―――ナメた真似をしてくれた返礼だ。

 そう考えていたのだが、桜薙を見ているうちに別の衝動が湧き上がってきた。

「……おい、脱げ」

「な、に……?」

 桜薙が怪訝な面持ちで訊き返す。わけがわからないといった顔だ。

「服の下に仕込んだマイクと無線機、それにGPS……全部出せ」

「そんなものは付けてない」

「だったら、さっさと脱いで見せてみろ」

「断る」

 銃を眉間に突きつけられても、男は表情ひとつ変えずに言い返した。

 さすがに管理官……意外と度胸が据わっていると見える。

 感心する一方で、火塚の頭にカッと血が上った。

 いつもならキレるところだが、ここは自制を最大限に働かせる。

 この男――桜薙ほどの容姿なら、売り物になる……。

 『ブレンド・ラッシュ』の顧客の多くは、何故か同性同士の恋人たちが多い。

 それら金と暇を持て余した富裕層の客が相手なら、この男に買い手がつく。

 しかも身分は警視庁の管理官だ。

 手元に置き鎖につないで飼い慣らすのは、快楽以上に下剋上の炎が燃え上がるに違いない。

「……脱ぐのが嫌なら、手を頭にのせて後ろを向け」

 桜薙は多少不満げながら、言われた通りゆっくりと背を向けた。

 火塚は銃を突きつけたまま、バッグの中をまさぐって目当てのものを取り出した。

 ひとつずつ丁寧に包装されたそれは、一見するとアナフィラキシー補助治療剤(エピペン)にしか見えない。

 火塚は片手と口を使って封を破り、桜薙の身体をビリヤード台に突き飛ばした。

「なにす――」

 言葉の途中で、桜薙の肩にペン状の先を押しつける。

 痛みを感じない注射針の先から体内に流れ込むのは、バッグの中身と同じ『ブレンド・ラッシュ』だ。

 経口摂取よりも効き目が強い注射による投与なら、ほんの数秒で桜薙はクスリの支配下に落ちる。

 とはいえ火塚に同性への欲情はない。

 売り物にするために、媚薬の効果でどう乱れるのかを見てみたかっただけだ。

 火塚が押さえつけていた手を放すと、桜薙はぐったりとビリヤード台にもたれた。

 上体を台に預けたまま、下半身がズルズルと滑り、力なく膝をつく。

 ハアハアと苦しげな息遣いが聞こえてきた。

 背後から見える桜薙の頬がわずかに紅潮している――効いてきた証拠だ。

「いい気分になってきたかい? 管理官さんよ」

「なにを……?」

「こっちをナメてくれた礼だよ。アンタを売り飛ばしてやる……金持ちのゲス野郎にな」

 ニヤリと火塚が唇を歪めた瞬間――。

「――いい眺めだなぁ」

 いきなり火塚の背後からのんびりした低い声がかけられ、同時にビリヤード台にドサリと重い音とともになにかが乗せられた。

 ゾクリと火塚の背に悪寒が走る。

 直前まで気配を悟らせないばかりか、声がするまで一切の物音がなかった。

 倉庫の中に潜んでいたなら、闇に沈むそこここに置かれた雑多な物につまずかないはずはないのだが――。

「楽しそうなところ邪魔して悪いが、そろそろ幕だな……火塚」

 揶揄するに似た物言いで言いながら、男はゆっくりと火塚をまわり込んできた。

 銀縁眼鏡をかけた端正な顔立ちときちんと整えた短髪、さらに安物とは見えない上等なスーツのせいで、商社マンか弁護士あたりが似合いそうな麗容だ。

 それでいて身にまとう気配と鋭い眼つきは、威圧じみていて剣呑そのもの――この状況でなかったなら、同業と疑ったかもしれない。

 ―――刑事(デカ)だ。

 だが、驚いたのは火塚だけではない。

 火塚の背後を見るなり、桜薙は息を喘がせながら眼を見開いて息を呑んだ。

「吉良(きら)……どうしてここに――」

「いいザマだな、サナギ……そこでおとなしくしてろ」

 吉良と呼ばれた男は、面倒くさそうに言い返す。

「その呼び方はヤメろと何度も……」

「相変わらず融通の利かねえ野郎だな。ちったあ黙れよ」

 ふたりのやりとりを見るに、どうやら知り合いらしいが――。

 突然現れた男の空気に呑まれた火塚が、いっとき呆然としている隙にやにわに首になにかが巻きついた。

「……っ……!?」

 とっさに振りほどこうにも、万力めいた力で一気に締め上げてくる――男の腕だ。

「なにすんっ……」

 言いかけた言葉が続かない。

 手にした銃すら、背後の男にあっさりと奪われた。

 一方、ビリヤード台に近づいた吉良は桜薙の様子を眺め、火塚を振り返ってニヤリと唇を歪めた。

 警察官に似つかわしくない、ひどく嗜虐的な笑みだった。

「広保(ひろやす)、手加減しとけよ。そいつは外で待ってる三枝(さえぐさ)に渡すんだからな」

 背後の男への呼びかけよりも、三枝と聞くなり火塚の背に再び悪寒が湧いた。

『組対(ソタイ)五課』の三枝は、ことあるごとに火塚を逮捕しようと手ぐすね引いているような男だ。

 しかも外で待っているということは、これは組対と本庁の合同捜査といったところか。

 だが、ここで逮捕されてはたまらない――火塚は焦った。

「おい! 俺を逮捕ってなんの容疑だよっ……!?」

「麻薬及び向精神薬取締法違反の容疑、だろ」

 背後の男に拘束された火塚を眺めて、やはり笑みを浮かべたまま吉良が答える。

 すかさず火塚は言い返した。

「そいつは無理だな。俺が持ってきたのはダミーだぜ?」

「え?」

『ダミー』の一語に反応したのは、息を喘がせながら台にもたれた桜薙だ。

 怪訝そうな眼差しが、火塚とバッグを行き来する。

「確かめてみろよ。それは――」

「薄めた牛乳だなぁ」

 火塚以上に、吉良がニヤニヤと笑っている。

「おい、笑っている場合か。これは警察による違法捜査だぞ」

 ところが余裕の笑みは消えない。それどころか最高に嗜虐的な眼つきで火塚を見下ろした。

 ―――なんなんだ、この余裕。

「先ほど俺が持ってきたバッグ……なんだと思う?」

 吉良が軽く顎で示した先に、火塚と桜薙は同時に眼を向けていた。

 火塚が持ってきたものとまったく同じデザイン・大きさのバッグがビリヤード台に乗っている。

「ここに来る前にお前の情婦(オンナ)の部屋に寄ってみたんだよ。隠すんなら、もっとマシなところに隠せ」

 物言いと同じく、吉良の顔に浮いたのはからかいの笑みだ。

 対する火塚は、話を聞くうちに背筋に冷たい汗が伝っていた。

 隠していたもの……それは。

 そのとき、桜薙がよろめきながら、ビリヤード台を支えにバッグに近づいた。

 クスリの効果のせいで、力の入らない手に苦労しつつジッパーを開けている。

 中身を確認するなり、呆れ顔を吉良に向けて「おい」とぞんざいに声をかけた。

 バッグの中から溢れんばかりに、淡いピンク色の液体入りの小瓶が覗いている。

 ―――『ブレンド・ラッシュ』だ。

「これって違法――」

「お前は黙っとけ。ネタはそろったんだ、いい頃合いだろ」

 と、吉良は火塚に視線を戻した。

「――って、コトで。お前には似合いの場所に案内してやるよ、火塚」

 吉良は愉快そうに火塚を見て宣言した。

 同時に、火塚を後ろから拘束した男の腕に力がこもる。

 苦痛に感じたのはほんの数秒――火塚は落ちた。

 漆黒の暗闇に。無意識の彼方に。そして――あらゆる意味で……落ちたのだ。

 意識を失う寸前、やはり揶揄する響きの男の声が耳に届いていた。

「……なあ、忘れてないんだろ、あの夜と俺の味――」

 誘うような声音は、いったい誰に向けたものか……。

 今や完全な闇に沈んだ火塚にはわからなかった。

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