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レイン・ダンサー

[1] 喧嘩はワインの後で


 雨が世界をシルク・グレイに染め上げている。
 陰鬱な雲と、絹のように柔らかな雨。
 摩天楼。
 イエロー・キャブ。
 人々は傘を手に足早に通りを行く。
 久し振りに見るニューヨークの景色は、どこかくすんで見えた。

 雨が似合う街だ。

 男はそんなことを思いながら、静かにハンドルを切った。
 クリスタルタワー・ホテル。
 ビルの建ち並ぶ一角、一際目立つホテルの前で男は車を降りた。
 宵闇の如き黒髪に浅黒い肌、精悍な顔立ちと鋭い灰色の眼――ブルーグレイのスーツとベージュのコートに包まれた巨体から、辺りを威圧する強烈なオーラを放っている。


 男の異彩にベルボーイはしばし呆然と見とれていた。
 相手のそんな反応に慣れているのか、男は片方の眉をつり上げただけで無表情に車のキーを差し出した。
 すかさずベルボーイはキーを受け取り、専用駐車場に車を移動させるため運転席へと向かった。
 ふと眼を向けた先では、後部座席からふたつの影が降りるところだった。
 長い黒髪に白い肌、人形を思わせる端正な顔立ち――白いスタンドカラーのスーツをまとった姿に、ベルボーイはまたしても見とれる。
 ベルボーイの視線に気がつくと、相手は笑みを浮かべてするりと車から離れた。

 ―――美人だ。

 それに包み込むような柔らかな気品がある。
 ベルボーイは相手の笑みに、行ったことのない遠い東洋の島国の女性を思い浮かべた。

 その後から、フランス人形のような少年が降りてきた。

 くしゃくしゃの金髪にガラス玉のような青い眼で、白い肌は白磁のように滑らかだ――ほんのりと色づいた頬が初々しい。 
 3人のいずれも否応なしに人目を引く。
 車に乗っていたのは、その3人だけのようだった。
 ガラス張りの回転ドアを抜けてホールに向かう3人の後ろ姿を、ベルボーイはしばし眼で追っていた。


 部屋に入ってすぐ、正面の一面ガラス張りの向こうに広がる摩天楼のビル群が見えた。
 セントラル・パークの緑も見渡せる。
 この展望と、豪華な食事、贅を尽くした室内装飾――しかもガラス張りにもかかわらず、特殊強化ガラスと警備システムで守られたこのクリスタルタワー・ホテルは、VIPご用達でもある、セキュリティ面に優れたいわばガラスの要塞だった。
 ベージュの落ち着いた色合いのカーペット、白い布張りの椅子、白塗りの調度品。
 どれも一級品の上質なものだ。
 大邸宅の居間を思わせる広い室内を見渡し、ユージンはため息をついた。

 ―――景色はいい。

 だが、それだけだ。
 高級だろうとそうでなかろうと、特に興味は湧かなかった。
 ユージンがこのホテルを選んだ理由はただひとつ。
 わずらわしいクライン関係者を、ホテルの厳しいチェックでシャットアウトできることと、セキュリティ面に優れているからに他ならない。

 郊外の別荘に行くことも考えたが、砂漠での旅の疲れも癒えないうちに、別荘までの数時間の距離を移動するのは気が引けた。
 何よりミストラルが慣れない長旅で疲れている。
 それに数日後には、大型客船・エバンジェリンが完成する。
 可能な限り、足に便利な場所に身を置くのがいいだろうと判断したのだった。
 加えて外国ならいざ知らず、アメリカ国内ではユージンはちょっとした有名人だった。

 世界各国に支社を置く巨大企業クラインの現総帥がユージンの父親だ。
 しかもユージン自身も現在クラインの重役でもある。

 ユージン・クライン――それがユージンの名だった。

 ただし、いつもは『ユージン・K』と名乗り、クラインの名はできるだけ使わずに済ませている。
 クラインの名は絶大だった。

 政財界に強力なパイプラインを持つゆえに、どこにいてもその血を引く者というだけで特別扱いを受ける。
 だが、それらはユージンにとってわずらわしい以外の何ものでもない。何よりクライン関係者と、彼らに擦り寄ってくる者のへつらうような笑みだけはしばらく見たくなかった。
 すでに部屋に運ばれている荷物を手に取ったユージンは、横に並んだ久弥とミストラルの脇をすり抜けて奥へと向かった。
 続きの部屋を抜けると廊下があり、両脇にドアが四つ並んでいた。
 ベッドルームは四部屋あるらしい。
 突き当たりの壁にかけられた鏡に、浅黒い肌の男がスーツを身にまとって立っているのが見える。
 退屈そうな顔をした自分の姿を眺めつつ、ユージンは手近なドアを開けた。
 ユージンに続いてベッドルームに入った久弥は、不必要に広く感じられる部屋を見渡すとミストラルを振り返った。

「今夜はベッドで眠れますよ」
「うん」
 頷いたミストラルは、眼を輝かせてベッドにジャンプした。
 ポンポンとベッドの上で無邪気に跳ねる姿を横目に、ユージンは久弥へと眼を向けた。
「何日かはここで過ごす。君も少し休むといい」
「ええ。そうさせてもらいます」
 久弥は笑顔でユージンの手から自分の荷物を受け取り、長い黒髪をなびかせてするりとドアから出て行った。

「ユージン、ねえ、ユージン」

 ミストラルはベッドから飛び降り、ユージンに駆け寄ってきた。
 くしゃくしゃの金髪がふわふわと揺れ、青い眼がキラキラと輝いている。
「なんだ?」
「今日は一緒に寝てもいいよね?」
 ユージンは笑った。
「今年で7歳になったんだから、1人で寝ると言ったのは君だぞ。明日からは忙しくなる。君も早めに休んでおけ」
 途端にミストラルは頬を膨らませた。
「久し振りのベッドなのに」
「家に戻ったらいくらでも一緒に寝られる。今夜のところは1人で休んだ方がいい」
 ミストラルはまだ不満げだった。
 ユージンがじっと見つめていると、やがてミストラルは渋々といった様子で頷いた。
「わかった。でも、家に帰ったらいいよね?」
 ミストラルの荷物を置いて自分の荷物だけを手に取り、ユージンはドアへと向かった。

「『7歳の誓い』とやらは、そんなに脆いものなのか?」

 ドアの手前で振り返り、揶揄するように片方の眉をつり上げると、ミストラルはぶうっと頬を膨らませた。
「いじわる!」
 その声を背中に聞きながら、ユージンは笑みを浮かべてドアを閉じた。


 廊下に出たところでドアを見渡した。
 閉じられたドアはどれも同じに見える。
 だが、中から伝わる微かな気配に、どうやら久弥はミストラルの部屋の斜め向かいにいるらしいとわかった。

 ユージンは、ミストラルの部屋の向かいに位置するドアを開けた。
 部屋のレイアウトもベッドの位置も、使われているベッドカバーやベッドサイドテーブルも、何もかもが先ほど眼にしたミストラルの部屋と同じだった。
 部屋は同じ造りで、各部屋に備えられているバスルームも同様に、すべてが統一された構造になっているのだろう。

 ユージンは荷物を置いてバスルームに向かった。
 シャワーを浴び、新しいシャツとスラックスに着替えてさっぱりしたところでバスルームを出た。
 乱れた黒髪をタオルで拭っている時、ふとユージンは軽い眩暈を感じた。

 ―――疲れか?

 ここ数日間の強行軍が災いしたか……そう思った。
 砂漠での探し物が空振りに終わり、久弥とともに高地の別荘に戻ると――ミストラルがホームシックにかかっていた。
 急ぎ荷物をまとめ、飛行機を乗り継いだ。
 途中、ホテルでゆっくり休むこともできたのだが、ミストラルはアメリカに帰りたがるあまり、少しでも移動することを望んだ。

 結果、飛行機に乗りっぱなしで丸2日。
 今日まで、まともな寝床と陸地を踏んでいなかったことを思い出した。
 この程度、たいしたことはない。
 だが、空港からレンタカーを借りるまでの間に雨に濡れていた。
 もしかしたら、その時に風邪をひいたのかもしれない。
 少しだけ休むつもりで、ユージンはベッドに横になった。


 ドアが開く気配に、とっさに枕の下に手を差し入れ、銃をつかむ。

「――ユージン?」

 訊き慣れた久弥の声に銃から手を離し、ユージンは上体を起こした。
「……食事か?」
「ええ。ミストラルがぐっすり眠ってしまっているので、部屋に運ばせました。あなたはいかがなさいます?」
「いただこう」
 そう返しながらベッドを降りた時、やはり軽い眩暈にユージンは思わず息をついた。
「ユージン?」
「ん?」
「具合が悪いんですか?」
 久弥の声には心配そうな響きがあった。
「少し疲れただけだ」
 言って、ユージンは久弥に続いて部屋を出た。


 ガラスの向こうには、きらめく夜景が広がっている。
 眠っている間に、すっかり夜は更けていたようだ。
 テーブルに並んだ食事は、レストランのそれのように豪勢だった。
 しばし無言で食事に没頭した。
 ふと食事を終える頃、久弥がじっとユージンを見つめているのに気がついた。

「なんだ?」
「……具合がよくないのでしょう?」
 心配げな面持ちで、久弥は訊いた。
 食事の間、ユージンはやはり軽い眩暈を感じていた。
 そのせいか、いつもに比べて食事の量が少なかったらしい。
 目ざとくそれに気づいた久弥は、ユージンの異変に気がついたのだろう。
 ユージンは答えずに、ワインボトルを手に取った。

「それよりも、どうだ?」
 久弥はユージンをじっと見つめていたが、やがて頷いてワイン・オープナーを手に取った。
 久弥がユージンの手からボトルを手に取り、慣れた手つきでコルクを抜く。
 花に似た甘い香りが辺りに広がった。
 久弥が差し出すグラスを受け取り、ユージンは一気に呷った。
 喉を滑り落ちるワインは、今日は何故か冷たく感じられる。
 それでも鼻孔をくすぐる香りに、ユージンは軽く息をついた。
 グラスの中身を少しだけ傾けた久弥は、ユージンに先ほどと同じ眼を向けていた。
 温かな気遣いをにじませた眼だ。
「久弥、少しは楽しそうに飲んだらどうだ?」
 久弥は困った顔でグラスを傾ける。
 じっと見つめていると、やがて久弥はグラスの中身を一気に飲み干した。
 白い喉が、誘うようにほんのりと色づいている。
 ユージンは、さらに久弥のグラスにワインを注いだ。
「……ユージン」
 子供を咎める母親を思わせる口調で、久弥はユージンの手を止める。
「いいから、飲みたまえ」
 揶揄するように片方の眉をつり上げると、久弥は観念したように微笑んだ。

 しばらく無言でワインを飲んでいた。
 久弥の肌がほんのりと染まり、ユージンも軽い酔いを感じ始めていた。
 いつもより少し多めに飲んでいる。
 やがて、久弥が口を開いた。
「酔いで、少しはあなたが正直になるといいんですが」
「正直? 俺はいつでも正直なつもりだが」
 冗談めかして言うと、久弥はまっすぐユージンを見つめた――真剣な眼差しだ。

「具合が良くないのでしょう?」

 なるほど、そのことかとユージンは笑った。
 さすがに酔いでごまかせるほど、久弥は単純ではない。
「少し疲れただけだ。何も問題はない」
 久弥が軽くため息をついた。
「正直に具合が悪いと言ってもいいでしょう」
「たいしたことはない」
 言って、ユージンはグラスのワインを飲み干した。
 気のせいか、そのワインはやけに冷たく感じられる。
 そんなユージンの様子を見て、久弥は困ったように眉を寄せた。
「何年あなたの傍にいると思っているんです? 調子が良いか悪いかぐらい、すぐにわかるんです。ちゃんと話してください。薬を用意しますから」

「ほう。なんでもお見通しというワケだな。さすがプラウルクラウドの者だ」

 この言葉に久弥はため息をついた。

 久弥・プラウルクラウド――それがこの男の名だ。

「今はそんな話をしているんじゃないでしょう」
「今年も、そろそろドイツに顔を出す時期だな」
 ドイツが久弥の生国だ。
 そして久弥、は隠された闇の貴族・プラウルクラウの正統な血を引く男を祖父に持ち、日本人の母の血を引くクオーター……末裔だった。

 プラウルクラウド――『渡りをつけるもの』。

 歴史の裏で支配者が懐柔したい相手、あるいは情報収集のため、『渡り』をつけるために動かした一族だ。
 久弥もまた、一族の血筋を受け継ぐ者として動いている。

 現在の支配者はクライン。

 久弥はユージンの父・ユーグリットの『渡り』なのだ。
 そんな久弥は、年に数回ドイツのプラウルクラウド家に顔を出す。
 理由は聞かないが、それなりの理由があるのだろう。
 何よりユージンは、久弥がただの里帰りでドイツに行くとは思っていなかった。
 世間一般的な理由で動く――そんな単純さは、久弥にはない。

 だが――。

 今まではそれについて触れたことはなかった。
 それをあえて言わしめたのは、ワインの酔いがなせる業か……それとも――。
「ユージン、今はそんな話は……」
「プラウルクラウドは子供に過保護なのか、それとも甘いのかね?」
 ユージンは軽くグラスを弄びながら、久弥に探るような眼を向けた。
 仕方ないというように、久弥は軽くため息をつく。
「たまには、あなたも家族に会ってはどうですか」
 この言葉に、ユージンはユーグリットの顔を思い出した。
 黒みがかった茶色の髪、夏空を思わせる青い眼――鏡で見るたびに血のつながりを感じずにいられない、ユージンとよく似た顔立ち。
 脳裏に浮かんだ、相手を見透かしたような笑みが浮かんでは消え、ユージンは胸に苦いものが広がるのを感じた。
 気がつくと、こう言い返していた。

「3ヵ月に一度ドイツに帰って、『黒蜥蜴(ブラツク・リザード)』に会うのかね?」

 微かに久弥の周りの空気が冷える。
「彼は兄ですから、顔も合わせるべきでしょう」
 当り障りのない返答だ。
 しかし、その言い方に微妙な変化が生じている。久弥が長くユージンの傍にいて、癖や体調を覚えてしまうように、ユージンにも久弥のその微妙な変化は容易に読み取れた。
 久弥はフレデリクス――15歳年の離れたこの兄のことには、触れられたくないのだ。
 酔いがそうさせた、というのは言い訳か。
 ふと、ユージンは久弥に習いたての日本語を使ってみたくなった。

「『肌を合わせに』ではないのかね?」

 この一言に、久弥は椅子から立ち上がった。
 冷ややかな眼差しをユージンに向け、久弥はそれまでとは口調を変えた。
「冗談なら、そこまでにしてください」
 それまでの穏やかさは欠片もなくなり、声が氷のように冷たい響きに変わる。
 久弥の兄・フレデリクスはクライン本社に身を置いている。
 それもクラインの総帥ユーグリット・クラインの直属で、裏の仕事を取り仕切っていた。

『イレイザー』――消し去る者。いわばクラインの裏の始末屋、それがフレデリクスの仕事だった。

 整った顔立ちに淡い金色の髪と、極北の空を思わせるアイスブルーの眼。
 酷薄な笑みを浮かべた男は、美しい顔立ちにもかかわらずどこか蜥蜴を思わせた。
 その雰囲気と印象からか、男はもっぱら裏の通り名で『黒蜥蜴』と呼ばれている。
 もっともユージンは密かに『闇蜥蜴(ダーク・リザード)』と呼んでいたが。
 このフレデリクスは久弥に特別な感情を抱いている。
 自身の腹違いの弟と、文字通り肌を合わせるほどに。
 そして、黒蜥蜴が一番に殺したがっているのは他でもない、久弥を傍から決して離そうとしない男――ユージンだ。
 この奇妙な兄弟の関係について、ユージンは気づいてはいたが言わずにいた。

 そう、今の今までは……。

 久弥の顔を見上げたまま、ユージンはゆったりと腕を組んだ。
「フレデリクスは君にご執心なようだ」
 ユージンは言いながら、久弥をじっと見つめた。
 眼を細めた久弥の表情がさらに険しくなる。
「ユージン」
 咎めるような口調で久弥は言った。
「あなたらしくない。やめてください、そんな話は――」
 ユージンは「ほう?」と訊き返しつつ静かに立ち上がった。
 ゆっくりとテーブルをまわり込み、久弥の前に立つ。
「どんな話なら、俺らしいと?」
 問いかけながら久弥をじっと見つめる。
 久弥はユージンの視線を受け止めたまま答えない。
「君はいつか俺に聞いたな。君を抱いている時、エージェを思い出さないか…と」
 この物言いには久弥がユージンを睨んだ。
 射抜くような鋭い眼差しに、ユージンは背筋がゾクリとする。
「君はどうだ? 俺に抱かれている時、フレデリクスを――」

 パン、と頬の辺りで久弥の手の平が派手な音を立てた。

「どうかしています」

 ―――そうとも。どうかしている。

 ユージンは自嘲めいた言葉を、冷めた頭で呟いていた。
「そんなあなたは……嫌いです」
「ほう。好かれていたとは知らなかったな」
 無表情に眼を向けるユージンに、久弥は一瞬だけ痛みを堪えるような表情を見せた。
 唇を噛み、じっとこちらに向けた眼には言いようのない非難の光が揺れている。
 今まで見せたことのない顔だ。
 これほど感情的な久弥など、これまで見たことがなかった。
 しばらく無言でユージンを見つめた後、久弥は不意に身を翻した。
 さらり、と長い黒髪が弧を描いて背を滑る。
 そのまま久弥は部屋から出て行った。
 乱暴に閉められたドアが、必要以上に大きな音を部屋の中に響かせていた。

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