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黒衣のリピカ

[1] ティータイム


  世の中には、経験でしか学べないことがある。

 僕が最初にそれを知ったのは、忘れもしない『午後のお茶会』でのことだった。

「人魚の肉は不老長寿のお薬と申しますでしょう?」

 マクギリス女史がそんな話を持ちだした。気取った仕種でティーカップを持つ。

 シミひとつない白いクロスがかけられたテーブルには、マクギリス女史と僕の父と、そして僕の傍らの――若き執事の雪宗(ユキムネ)が向かい合っている。

 お屋敷の中庭に面した広いバルコニー、英国風庭園で英国風のお茶会を楽しむ――この時代には少々過ぎた贅沢なのかもしれない。

 とはいえ、そのことに気づいたのもずいぶん後になってからだけれど。

 話を戻して――その時の話題は『人魚』についてだった。

「人魚の肉ならば、どんな病にも効くのでしょうな」

 僕の父がいかにも訳知り顔で、ティーカップを口に運ぶ。

「お坊ちゃまのご病気にも、きっと効くに違いありませんわ」

 マクギリス女史が、鼻にかかるキンキン声で僕に眼を向けた。『お坊ちゃま』と呼ばれるのも、『ご病気』のことに触れられるのも嫌だけれど、僕は知らぬ顔で紅茶をすする。

 濃いめのハイランズ・ティー。清々しい香りのこのお茶にしたのには何か理由があるのだろうか? いつもはマクギリス女史のために、わざわざモーリシャス・バニラのティーを用意するのに。

 僕は浮かない顔で温室を振り返った――そういえば、母はどうしたのだろう?

 しばらくは父とマクギリス女子の話を、半ばぼんやりと聞き流していた。退屈だったが、それを顔に出すのはご法度。東條家の子息らしく振舞えと、それはもう父がうるさかったから。

 どれぐらい時間が過ぎただろう?

 そろそろ限界だと思っていると、雪宗が心配そうに僕を見ていることに気がついた。

 僕と眼が合うと、雪宗はこっそりと唇だけを動かす。

 『――沙都(サト)さま、大丈夫でございますか?』

 僕も『へいき』と唇だけ動かした。雪宗が「もう少しの辛抱です」と返す。

 雪宗の『もう少し』はそれからかなり経ってから――新しいお客さまが女中の案内で現れ、テーブルの15もの座席がすべて埋まってしまった。

 雪宗は僕のすぐ横に移動してきて、それだけはちょっぴり嬉しかった。

 けれど――何か変だった。

 今まではこれほどお茶会にお客が来たことなんてないのに。

 僕の先月の15歳の誕生日にだって、これほど大勢は来なかったはず。

 それとも父が外洋で捕らえた西洋の珍しい魚――さっきから話題になっている『人魚』って、そんなに珍しいものなのかな?

 居並ぶ人はいずれ身なりも上等、麗容上品な紳士淑女たち。

 彼らは僕や雪宗にありきたりの挨拶を済ませると、マクギリス女史が淹れる紅茶を美味しそうに飲み始めた。

「それにしても実に愛らしい……東條氏にはこんなご子息がおられて羨ましいですな」

 西洋葉巻をプカプカふかす立派なヒゲの紳士が、僕を眺めてそんな褒め言葉を口にする。

 父は上機嫌でニコニコ応じている――親バカなんだから、まったく。

 僕としては、『愛らしい』より『凛々しい』と言われたい。

 眼と同じ漆黒のビロードのテールコート、『鴉の濡れ羽』と雪宗が言う髪は、少し伸びてきたので気に入らない。

 それでも母に似た顔立ちと体型、すらりとしているのに筋肉質なのは少し自慢だ……まあ、体力はないんだけど。

 とはいえ、父はいまだに僕のことを『小さなお坊っちゃん』と思いたいらしい。

 言葉の端々に『まだ子供』というニュアンスを盛り込むことを忘れない――今もそうだ。

「いやいや、ウチの沙都はまだまだ子供です。病気のこともありますし何かと心配ですから、来春から私が理事を勤めている寄宿学校に編入させようと思いまして――」

 話題は僕の寄宿舎制学校の編入話と父の新しい事業の話、それから再び人魚の話題に戻っていた。

 どういうわけか、人魚の話題にはみんな興味津々だった。

 しばらく待たされて、ようやく母が女中の数人と一緒に自慢のミートパイを運んできた。

 ひとつ、またひとつとテーブルにミートパイが並ぶと、それはそれは香ばしい香りが辺りいっぱいに漂った――なんて幸せな香りなんだろう。

 父は雪宗にも食べるよう命じ、僕の横の空席に雪宗が静かに着いた。

 僕はあまりのいい香りに、父の「それではともに楽しみましょう」の食事の合図もロクに聞いていなかったと思う。

 雪宗が「いつものパイではないようでございますね」と耳打ちしたことも。

 ミートパイはとても美味しかった。

 パイはサクサクと香ばしく、お肉の味つけも絶妙でジューシー。

 僕はお腹が空いていたこともあって、無心にフォークを動かし頬張った。

「このミートパイ、とっても美味しいね……!」

 僕は隣の雪宗にそう話しかけたが、雪宗からの返事はない。

 すぐさま僕は雪宗も美味しくて話す時間が惜しいのかな、と思い直した。

 こんなに美味しいミートパイなら、毎日だって食べたいくらい。

 僕は最後のひと口まで、満足しきりでフォークとナイフを置いた。ミートパイには大満足だった。

 気がつくと――辺りはしんと静まり返っていた。

「……っ……!」

 顔を上げた僕は、息を飲んですくみあがった。

 クロスを染める真っ赤な鮮血、青冷めた人々の断末魔の顔、二度と動くことのない静止した――僕以外の死者たちの群れ。

「――派手にやったな……まあ、俺には好都合か……」

 動かない静止図の中に、突如として黒衣の男が立ち上がった。

 美貌と唇に浮いた笑みに、とっさに頭に浮かんだのは『死神』だ。

 死神は僕を見下ろして言った――雪宗の顔で。

「――マイ・ロード・死神(デス)、お前の望みはなんだ?」

 おっと意外。

 死神だと思った男に、逆に死神呼ばわりされるとは。

 僕は頭の中は冷静だったけれど、本当はかなり混乱していたから――男を見つめたまま、震える声で答えた。

「ぼ、僕の……僕の望みは……」

 聞き終えて満足げにうなずいた男は、すぐに顔をしかめて「結願」とつぶやいた。

 風にサラサラとなびく男の黒髪の向こう、薄曇りの空を青白い稲妻が駆け抜けていく。

 遠く近く響く雷鳴が、お茶会に招かれたのは『忌むべきものどもだけ』とでも囁くようだ。

 パイの中身はなんだったのか――僕はすぐにはわからなかった。けれど、この『午後のお茶会』で、僕の運命の歯車は確実に狂い始めたのだと思う。

 それから、ずっと……。

 世の中には経験でしか学べないことがある――これがすべてのはじまり。

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