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GetKey7

[1] 最悪の日曜日


 遠くで、さざ波のようなベルの音が響いている。
 ぬるい水底に沈んだ意識が少しずつ浮上を開始する。

 ―――まだ眠いんだ。

 そう呟いて、浮かび上がろうとする意識をなんとか引き戻そうと試みる。
 そんな努力を嘲笑うかのように、ベルの音は次第にはっきりと耳に届いてきた。

 ため息をついて眼を開けた。
 ぼんやりとした視界に、薄汚れた木の天井が揺れている。

「……チッ」

 軽い舌打ちとともにノロノロと上体を起こした。
 ズキズキと痛む頭に呻きつつ、ゆっくりと首をめぐらせて室内を見回した。
 それまで自分が眠っていたベッド。
 右側には、ベッドサイドテーブル脇にフロアランプ。
うっすらと埃が積もったフローリングの床。
 ベッドの正面に作り付けのクローゼット、脇にレトロなデザインの腰高サイドボード。
 その向こうに、くすんだ青空を覗かせる木枠と窓ガラス――。

 ふとガラスに映った男――自分の顔に気づいた。

『どこか中性的な整った顔立ち』と友人が評価する顔に、乱れた長めの前髪がかかる垂れ気味の眼。
 普段は浪人の如く結っている長い黒髪は、もつれ具合と乱れっぷりが今の状態に合っている。
 今の状態――二日酔いの上に不機嫌だ。

『――そんな顔すんなよ。男前が台無しだぜ、烏丸(からすま)?』

 などと、先の容姿を評価した友人が言いそうな面構えだろう。

 身に着けているのは、昨夜飲み過ぎて記憶が飛ぶ前と同じく、白いシャツにベージュのチノパンだ。

 ―――いや、そいつはどうでもいい。

 室内に見当たらない上着も気にはなったが、それよりも――。

 先刻から、鳴り続けている電話の姿はどこにもない。

 ため息をついて烏丸はベッドから降りた。
 ひんやりとした床の感触に、思わず足を引っ込める。
 ベッドの下を覗き込み、そこに置かれたスニーカーを引っ張り出した。
 スニーカーの靴紐を結びつつ、音源をたどってドアへと眼を向ける。
 左手にぽっかりと開いた空間がある。
 ドアは全開になっていた。

 ―――不用心だな。

 とは思ったものの、開け放したのが果たして自分だったか、それとも別の誰かだったか記憶になかった。
 どちらにでも同じことか――現にドアが開いている。
 大切なのはこの場合原因ではなく、結果だ。
 烏丸は立ち上がり、開け放たれたドアの空間をくぐった。
 殺風景な廊下が伸びる先に階段がある。
 ベルの音は、どうやら階下から響いているらしい。
 フラつきながらも、どうにか階段を降りた。


 曇天――灰色の空の下、ビルの前には市警察のパトカーと鑑識課のバンがひしめいていた。
 それら車の最後尾に、バンボデイトラックが乗り付けられた。
 車体にはなんのロゴも表記もないが、濃いグレーの車体は作戦指令車輌のそれだった。
 停車するのもそこそこ荷台部分の扉が開き、中から1人の男が降り立った。
 金髪茶眼の年かさの男で、堂々たる体格と蓄えた口髭に見合う威厳を備えている。  

「――通訳はまだ到着しないのか!」

 男は降りるなり、近くに立っていた青年に向けて怒鳴った。
 対する青年の年齢は20代そこそこ、赤毛にそばかすの散った鼻が若く見える。
 それでいて身につけている黒ジャケットには、オレンジ色の『FBI』の文字があった。

「一般人の通訳は事件の性質上どうかと思いまして――」
 怒鳴られた青年捜査官は困った顔で言った。
「そんなことはわかっている! 日本からの研修生がいただろう……!!」
「はあ。今、デイビスが電話しています」
「デイビスは」
「あそこです」
 青年が指差したほうに眼を向けると、デイビスの大きな背中が見えた。
 自動車電話の受話器を片手に、イライラと足を踏み鳴らしている。
 見た限り相手は出ないらしい。
 ふと、デイビスの足の動きが止まった。


「――カラスマ……!」

 受話器を持ち上げた瞬間、烏丸は眉をひそめた。
 獣の咆哮のような大音声がそこから聞こえてきたからだった。
 可能な限り耳元から離しながら烏丸は電話に出た。

「……はい」

「烏丸! 何やってたんだ、なんでさっさと出ないんだ……!!」
 言われて、烏丸は眉をひそめた。
 ついでに、すうっと息を吸った。

「寝てたに決まってるだろうが。昨夜いらねぇっつーのに、この俺に大量のマルガリータ飲ませやがったのはどこのどいつだ。ものの見事に二日酔いだっつーんだよ、こん畜生めっ……!!」

 一気に怒鳴った次の瞬間、烏丸は猛烈な頭痛に眼が眩んだ。
 ガンガンと自分の声が脳内にこだまする。

「お~、すまねぇ。烏丸、頼みがあるんだよ~」
 途端に、相手はしおらしくなった。
 猫撫で声で言葉を続ける。
「今から、ポール・ストリートに来てくれないか」
「はん」
 烏丸は鼻から息を吐き出した。
「またバーか、クラブか。迎え酒ならたくさんだぜ」
「違う違う! 事件なんだ。通訳がいるんだ、頼むよ」
 慌てたデイビスの言葉に烏丸は眼を細めた。

 ―――この二日酔いに事件だ? その上、通訳だと?

「ふざけてろよ、ジョーディ」
「冗談を言ってるんじゃないんだ。頼む」
 どうやら、ジョーディことジョージ・デイビスは本当に困っているらしい。
 それでも烏丸は言い返した。

「FBIにも通訳くらいいるだろう」

「FBIの方には人手がないんだ。ちょうど別件で出てる者と休暇で国内にいない者とで……とにかくいつもいるはずの人材がないんだよ。頼むよ」
「俺は研修に来ているだけの民間人なんだぜ」
 不意に電話の向こうの気配が遠ざかった。

「カラスマかね?」
 電話の相手が代わったらしい。
 壮年の男性といった落ち着いた声だ。
「誰だ?」
「私は現場の指揮を任されているロイド捜査官だ。君に協力を要請したい。正式な文書は後ほど用意させる。カラスマ、君に害が及ぶこともない」
 烏丸はため息をついた。
「お偉いさんが直々にとはご丁寧にどうも。害がどうとかは別にいいが、俺に何をさせたいんだ?」
「通訳だよ」
 それは先ほどジョーディの口から訊いた。
「どんな事件で、なんのための通訳だ?」
 烏丸は口調を変えなかった。
 まだ耳鳴りのように頭痛がガンガンと頭の中で鐘を鳴らしている。
 体調は良いとは言えず、ついでとばかりに寝起きに面倒なことを聞かされたお蔭で不機嫌でもあった。
 FBIの正式依頼だの、通訳だのは正直に言ってわずらわしい。
 事件が起こっていようといまいと、それは烏丸の日常や生活には無関係なことだ。
『面倒ごとは余所でやってくれ』という思いの方が強かった。

「人質を取って立て篭った犯人の説得だよ」

「は?」
「犯人は日本人でこちらには通訳がいない。その上、相手は『日本人と話したい』と言って譲らない。条件には君がピッタリだ。今すぐこちらに来て、我々に協力してもらいたい」
 烏丸は相手の言葉に耳を傾けながら、片手でポケットを探った。
 タバコを取り出して口に1本咥える。
 火をつけようとして、ライターがないことに気がついた。
「……聞いているかね?」
 ロイドの声に苛立ちが混じり始めている。

「ちゃんと聞いているさ。けど、俺はFBIに研修に来てはいるが、民間人と同じ扱いのはずだ。いや、問題はそんなこっちゃないな。俺は微細証拠物鑑定官(マイクロ・スコーピスト)で人質を取った犯人の交渉人(ネゴシェイタ―)なんざ無理だ。他を当たってくれ」

 言うだけ言って烏丸は電話を切った。
 切った瞬間には、ジョーディのこともロイドのことも忘れていた。
「……ライターどこだ」
 言いながら、烏丸は廊下を引き返し始めた。
 リビングに入って室内を見回す。
 ソファーの前のテーブルの上に、昨夜ジョーディとともに食い散らかしたピザの箱がそのまま置かれていた。
 灰皿の脇に目当てのライターを見つけ、烏丸はソファーに腰を下ろしてライターを手に取った。
 タバコに火をつけて、ライターをテーブルに放り投げる。
 カラカラと乾いた音を立てて、ライターはテーブルを滑った。

「……そういえば」
 言って、烏丸は眉をひそめた。
 何かを思い出しそうになった。
 しかし、次の瞬間には鳴り始めた電話のベルに、像を結びかけた脳内の記憶は一気に霧散してしまった。
 電話のベルに烏丸は先刻の会話を思い出した。

 人質を取って立て篭った犯人の通訳をFBIが探していて、条件にピッタリだったのが、偶々FBIに研修に来ていた烏丸だったらしい。

 紫煙を吐き出しつつ、廊下の電話のある方角を睨んだ。
 頭痛は幾分マシになったものの、電話のベルは頭に響く。
 ため息とともに立ち上がり、烏丸は廊下に出た。
 やかましく鳴り響く電話の前で足を止め、再び受話器に手を伸ばす。

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