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聖夜に捧ぐ

 冷えた空気に輝きを増すイルミネーション。

 緑のツリーを彩る色とりどりのオーナメント。リボン。てっぺんには星――。

 吐く息こそ白いが、夕暮れの見慣れた街並みに雪はない。ただし冷える……特に今夜は。

 ―――淡いブルーのLEDにした理由は何だろう?

 こう寒いと余計に寒く見えない? それともそう感じるのは俺だけなのか……?

 そんなことを考えるとさらに冷えてきた気がする。

 青年は手を擦り合わせ、眼の前のワゴンに並んだ箱を恨めしげに見つめた。

 赤と緑のストライプの箱の中身は、見かけを裏切らぬお約束のクリスマスケーキだ。

 クリスマス当日まであと一週間もある。

 それでも『当日にクリスマスを味わえない人向け』に、店長の発案でこうしてサンタの衣装で毎日ケーキを売る羽目になった。

「はあぁ……」

 ため息も白く煙る。

 マスク代わりの白いヒゲのおかげで、顔の肌の露出が少ないのが救いか。サンタの衣装の下は温感下着に何枚か重ね着していても……やっぱり寒い。

「……陶夜(とうや)さーん、大丈夫? 代わろうか?」

 呼ばれて振り返ると、長い黒髪の主が眼に入った。

 恰好は青年――陶夜と同じ赤地に白のファー付きサンタの衣装だ。

 帽子を被ろうとして、長い黒髪が収まりきれずに「ああもう」と陶夜に苦笑してみせる。

 一見してハッとするほど綺麗な顔立ちなのに、常に柔らかな笑顔を絶やさない娘だ。

 そのまま店のドアを閉め、笑顔の娘はこちらに近づいてくる。

「あ。いや、俺は大丈夫!」

 慌てて言い返し、陶夜は時計を確認した――7時40分。

「咲耶(さくや)さん、もうちょっとでバイト上がりだよね? あと少しなんだし、俺は大丈夫だよ」

「そうだけど。陶夜さん、すっごく寒そうなんだもん」

 言いながら、咲耶が息を両手に吐きかける。

 白く煙った息がいかにも寒そうだ。

「いや、確かに寒いけど」

 陶夜もつい苦笑を返してしまった。

 陶夜がバイトを始めたのは、今月に入ってからだった。

 クリスマスにプレゼントを用意するためなわりには、少し……いや、かなり遅かったかもしれない。

 とはいえ陶夜には嬉しいことがあった。

 それは咲耶に出会えたことだ。

 同じ町内で何かの事務所をやっているらしい久遠(くおん)咲耶は、実はそこで所長もしているのだという。

 ところが一時的に人手が足りなくなり、本来の業務ををこなせなくなったため、知り合いのツテで陶夜の父親が店長を務めるケーキ屋へバイトに通っていたのだ。

 それも、かれこれ半年になるという咲耶のバイトは今夜で終わる予定だった。

 イルミネーションが綺麗な街並み。

 遠くから聞こえるクリスマスソング。

 賑やかな気配。寒いのに、どことなく行き交う人々の顔も笑顔が多い気がする。

「ちょっとお早目のクリスマスケーキいかがですかぁー?」

 そんな声を道行く人にかけつつ、陶夜はチラリと傍らに立つ咲耶を見た。

 あどけなさが残る横顔はやはり綺麗だ。

 さすがにNGだと思って年齢は聞いてないが、父親によれば成人して数年が経つらしい。

それでも今年大学2年の陶夜に比べて、遥かに年下……10代後半に見えるくらい。

 ―――可愛いんだよな、ホント……。

「……咲耶さん、ホントにバイト辞めちゃうの?」

「うん。ケーキを焼くのは楽しいし大好きなんだけど……みんなが戻ってきたから本来のお仕事を頑張ろうと思うの」

 そう――味にうるさい陶夜の父親が、咲耶の焼くケーキだけは手放しに絶賛するほど美味い。

 客足が遠のいていた店がこのところ繁盛しているのも、咲耶が焼くケーキによるところが大きい。

 ―――辞められたらきっと売上げガタ落ち……いやいや。それは俺の悩みとは関係ない。

 そこへ呼びかけに何人かの客が寄ってきた。

 会社帰りのサラリーマン風の壮年男性、買物帰りらしき2人連れの年配の女性、親子連れらしい少女と若いお母さん――。

 あっという間にケーキが6個も売れた。陶夜1人の時とは大違いだ。

 咲耶の笑顔は綺麗なだけでなく、相手の警戒心を失くしてしまう効果もあるらしい。

 咲耶につられて笑顔で接客を終えると、陶夜はヒゲをずり下げながら「それで」と先ほどの話の続きを始めた。

 店の中では、父親が睨みを利かせているから話す機会がない。

 この機会に話さないと、もう次はないかもしれない……そう思いつつ話しかける。

「本来のお仕事って?」

「うん。調査事務所をやってるの」

「ふうん。みんなって……ご家族?」

「うん。大事な家族だよ。一気に増えたから賑やかなんだ……あ。そうだ! 陶夜さん、今度遊びにきて。みんなも喜ぶと思うの」

 こちらを見てニッコリ笑う咲耶の笑顔に、ついつい陶夜も笑顔になってしまう。それにその申し出はとても嬉しかった。

「いいの? 俺が遊びに行っても?」

「うん。あとで住所を教えるね!」

 もう一度笑顔を返そうとしてところで――そこで視線を感じた。

 ―――え?

 通りの向こう、イルミネーションがまたたく街路樹の下に、男が1人立っている。

 さらりとした黒髪、切れ長の眼、通った鼻筋――見とれるほどの整った顔立ちなのに、色男というほどの甘さがない。

 長身を包むのは黒スラックスとコートでどこか他人を寄せつけない感じだが、肩から下げた重そうなトートバッグの花柄がやけに浮いている。

 じっと陶夜を見つめていた視線がそれて、隣の咲耶に据えられた。

 別に睨まれたわけではないが、陶夜は視線が外れてホッとしてしまった。

「あ。千暁(ちあき)……!」

 これまたはじけるような笑顔で、咲耶が男――千暁に手を振る。

 ―――ウソだろ。

 陶夜は呆然と咲耶の手を見つめてしまう。

 咲耶の左手の薬指には、小粒な宝石が光る指環が嵌っていた。

 いつもは仕事中に手袋をしているため気づかなかった。

 それはつまり――。

 交差点の信号の赤に停まったタクシーと車の車列の間を、男は縫うように器用に渡ってきた。

 気がつくと、黒衣の麗容の主がワゴンの前に立っていた。

「早かったね、千暁」

「うん」

 咲耶に頷きかけて、千暁と呼ばれた男がもの問いたげに陶夜を見る。

「あ。こちらは早子友陶夜さん。サネトモさんの息子さん」

『サネトモさん』とは早子友――陶夜の父親のことだ。

 笑顔の咲耶の紹介に、陶夜は戸惑い気味に軽く頭を下げる。

「どうも」

 と、視線を下げて気がついた。男の左手の薬指にも指環があった。

 ―――まさか、この人……。

「陶夜さん、紹介するね。こちらは沢村千暁。私の――」

「咲耶の婚約者の沢村です。いつも咲耶がお世話になってます」

 そう言って、沢村が陶夜に微笑んでみせた。

 笑うと意外なほど雰囲気が柔らかくなるし、悔しいが陶夜が逆立ちしたところでかなわない文句ナシに容姿端麗な美男だ。

「じゃあ、俺は先に行くから」

「うん。じゃあ、9時に待ち合わせの場所で」

 沢村は立ち去りかけて、そこで陶夜に手を差し出す。

 なんだろうと思いつつ手を出すと、沢村は陶夜に温かな缶コーヒーを手渡してくれた。

 寒そうにしていたので、気を利かせてくれたらしい。

「あ。いいなぁ。千暁、私の分は?」

「ない」

 あっさり言いきって背を向ける沢村に、咲耶が「ぶー」と頬を膨らませて顔をしかめる。

 婚約者のわりにはずいぶんと冷淡だが、咲耶は気にした風もなく手を振っている。

 そのまま遠ざかっていく背中を見送り、手の中の缶コーヒーを見て……陶夜は深くため息をついた。

「咲耶さん。あの人と結婚するんだ……?」

「うん。サネトモさんには話してあるの。陶夜さんにも結婚式には来てほしい……って、あ。あれっ……!?」

 咲耶が驚きの声を上げた時には、陶夜は走りだしていた。



 聖夜じゃなかった……それだけでもよかったと思う。

 もし恋人たちが微笑み合い、寄り添う特別な夜にフラれていたなら……今よりもシンドイ思いをしていたに違いない。

 陶夜はサンタ衣装のまま缶コーヒーを握りしめ、ひたすらに先を行く黒衣の背中を追いかけていた。

 文句を言おうというのでも、さらにはケンカをしたいわけでもない。

 ただ――今夜で最後の数分間を、どうして事実を知らせずにいてくれなかったのかと、非常に一方的で勝手な言い分と苛立ちを抱えて追いかけている。

 知りたくなかった。咲耶が婚約していることなど。

 知りたくなかった。その相手が自分よりも咲耶に似合いの美男だということも。

 知りたくなかったんだ。好きな人にすでに決まった人がいるなんて……そんな事実は。

 ―――あれ?

 何組かのカップル、家族連れ、その向こうにチラチラ見えていたはずの黒衣の背中が、不意に陶夜の視界から消えた。

 慌てて足を速めて、黒衣が消えた辺りに進み出る。

 一方は今いる大通りから裏通りへと伸びる狭い路地。

 もう一方は、またしても信号の赤で込み合っている車でごった返す車道。

 路地に入った……のか?

 気をつけなければ誰にも知られないような狭い路地には、通りの喧騒とは無縁の静けさが満ちているようだ。

 少しだけ埃っぽい。それに暗い。ひたすらに暗い。

 その路地に人の気配はないが、陶夜は思いきって路地へと足を踏み入れていた。

 曲がりくねった路地は所々漆黒の闇に塗り潰されていた。

 さらにビルの隙間を蛇のようにうねうねと、奥へ奥へと続いている。

 途中、脇に出る道などはない。

 建物の壁の間をひたすら一方通行で進むのみだ。

 つまり向こうから引き返してこなければ、陶夜もこの道を進んだだろう黒衣の主と同じ場所に出られるはずだ。

 でも、俺……あの人追いかけて、何言おうってんだろ……。

 暗い路地のせいか何やら心細くなってきた。

 それに温かかったコーヒーも冷えてきた。

 休みなく歩き続けているせいで身体の方は暖かいが、やけに心の中が寒々しい。

 冷静になってみるとバカっぽい。それに……咲耶を置いてきてしまった。

 腕時計を確認すると、8時――今頃、親父と閉店準備に忙しくしている頃だ。

 ―――戻ろうか……。

 そう思って角を曲がった時、左右に迫っていたビル壁が消えた。

 路地裏に出たようだ。

 古ぼけた常夜灯の明かりがぼんやりと照らす、思ったよりも広い駐車場スペースだ。

 一方を仕切りのフェンス、もう一方をビル壁に囲まれた空間は静まり返っている。

 かすれた仕切り線。錆が浮いた『月極駐車場』の看板の文字――。

 その駐車場の中ほどに、黒衣の主が立ち止まっていた。

 ―――気づかれた……?

 慌てて陶夜がビルの隙間に身を潜めるのと、乱雑な足音が聞こえてきたのは同時だった。

 黒づくめの男たちが、あっと言う間に沢村を取り囲む。

 黒い目出し帽に黒ジャケット、ダブついたパンツ、編上靴も見事に真っ黒だ。

 見るからに怪しい男たちの人数は6人。

 だが、沢村には取り乱した様子はない。

 ただ左右に展開した男たちをじっと見て、首を傾げただけだ。

 状況が呑み込めないのかもしれない。見ている陶夜がそうなのだから、沢村もそうに違いない。

 ―――いったいどうなっているんだ?

「……俺に何か用?」

「『死神』がお前を呼んでいる」

 そう返した男の日本語は、そうと知れるほどに言葉のイントネーションが微妙に違う。

 外国人? それに『死神』って。なんだって、こんな連中に――。

 コッソリ様子を伺いつつ陶夜がそう思った瞬間、男たちがに2人がかりで沢村に殴りかかっていた。

 沢村は動かない。

 男の1人が放った蹴りが沢村の顎を捉えた――。

 ―――やられる……!

「ぐふっ」

 低い呻き声に陶夜が再び閉じていた眼を開けると、沢村の足元に2人の男が倒れていた。

 沢村はその場を動いてもいないし、花柄バッグを下ろすそぶりすらない。

 どうやって倒したんだ?

 間髪入れず、2人の男が沢村に飛びかかる。

 一方が脇腹目がけて蹴りを放ち、もう一方が手にナイフをきらめかせる――コンビネーション攻撃だ。

 沢村は当たるギリギリで身をひねり、蹴りをかわしながら一歩後退してナイフの刃先を避ける。

 くるりと反転して一歩下がっただけの動きで、男たちの攻撃をかわし――沢村はそこで再び放たれた蹴りとナイフをかわす。

 沢村の動きには無駄がなく、男たちの乱れた息遣いとナイフが風を切る音だけが聞こえた。

 ―――スゲエ……。

 攻撃が少しも当たらない。完全に相手の攻撃とタイミングを見切っているせいだ。

 シロウトの陶夜が感心するのだから、男たちにもそれがわかっているのだろう。

 やがて距離を置いて向き合うと、男たちの1人が黒い物を腰のあたりから引き抜いた。

 ウソだろ――陶夜は思わず呆然と呟いてしまった。

 男の1人が沢村に突きつけたのは拳銃だ。

「動くな。これ以上抵抗するな……お前を『殺せ』とは言われてない」

「そう……それはよかった」

 あっさりとそう返すなり、沢村の身体が沈んだ。

 銃を持っていた男にほんの数歩で近づくと、放たれた回し蹴りが男のこめかみに叩きこまれていた。

 返す足先がもう1人の首筋を捉え、続けざまに2人がその場に転がる。

「……っ……!」

 息を飲んで固まった2人の男は、1人は脇腹に一撃を食らって吹っ飛び、もう1人は手刀を首裏に食らって昏倒した。

 沢村の動きに圧倒されたが、陶夜はあるものに眼を止めて身を乗り出していた。

 先に回し蹴りを食らった男が、倒れたまま銃口を持ち上げている。その先には沢村の背中があった。

「危ないっ……!」

 陶夜は思わず身を乗り出して言い放っていた。

「え?」

 驚いたように沢村が振り向くと同時に、瓶ビールの栓を抜いたに似た軽い音がした。

 肩のあたりを殴られたようによろめいた沢村が、そのままその場に膝をつく。

 ダッシュで駆け寄った陶夜が、倒れかかる身体を途中で受け止める――沢村が深く息をついた。

「大丈夫ですかっ……?」

「……サネトモさん?」

 上体を支えて顔を覗き込むと、沢村はヒドく辛そうに眉をひそめた。

 撃たらたらしい肩には、見たところ銃創もないし血も出ていない。

「そうです。早子友陶夜です」

「どうしてここに……いや、それより……は、早く逃げて――」

 言いながら、沢村は陶夜の腕をつかんだ。

 眼を見ようとしているらしいが、フラフラと視線が定まっていない――様子がおかしい。

「え? 逃げる?」

「早く、逃げてくれ……俺といると……危ない……」

「危ないって……あっ!」

 カクンと沢村の首が仰け反り、この反応に陶夜は焦った。

 沢村は眼を閉じたまま、ピクリとも動かなくなってしまった。

「わわわ。どうしようっ……!?」

「……落ち着け、麻酔弾で気を失っただけだ」

 低い声が背後で響き、ゆらりと空気が揺らめいた気がした。

 ―――いつのまに。

 背後の気配に、陶夜は全身のうぶ毛が逆立つような悪寒に襲われた。

 声をかけられるまで、まるで存在に気づかなかったせいだ。

 そのまま声の主はゆっくりと陶夜の横を通り過ぎ、気がつくと巨漢が陶夜を見下ろしていた。

 わずかな明かりでもわかる上質なスーツにコート。

 宵闇めいた黒髪、灰色の眼――浅黒い肌の顔立ちは精悍そのもので眼つきも鋭い。

 そのせいだろうか……身にまとう気配がどこか異質だ。

 威圧感にも似たそれは、常人離れした異彩を放っていた。

 だが、視線を落として沢村に向けた眼差しは、意外なほど親しみがこもっていて優しげだ。

 呆然と見上げていると、男は身を屈めて陶夜に手を差し出した。

 初めて会った男に手を差し出されるのはこれが二度目だが、男は沢村と違って陶夜に何か渡してくれるわけではないらしい。

 その証拠に――気がついた時には、引き寄せられるまま、沢村が男の腕の中に納まっていた。

「あ。ちょっと! ……沢村さんをどうするんですか……!?」

 陶夜が声を荒らげても、男は眉一筋動かさない。

 それどころか沢村の左手の指環を見て、ヒドく不機嫌そうに眉を寄せて顔をしかめている。

 さらに何を思ったか、男は沢村の指環を引き抜き――陶夜に向けて放り投げた。

「わっ……!?」

 慌てふためきながら、陶夜が指環を受け取る羽目になった。

「何するんですかっ……!?」

 文句を言うつもりで睨みつけると、男は沢村を肩に担ぎ上げて背を向けるところだった。

 足元に転がる黒づくめの男たちには眼もくれない。

 銃とナイフで武装した黒づくめの男たちも、そんな連中に狙われて平然と応戦する沢村も普通ではなさそうだが、新たに現れた巨漢も言動がどこか尋常ではない。

 それに男が沢村の婚約指環を引き抜いたことも気になる。

 その行動から察するに、少なくとも咲耶の味方とは思えなかった。

「ちょっと待て! 沢村さんをどこに連れていくんだ……!?」

 とっさに駆けだして横に並ぶと、男はチラリと陶夜に値踏みするような眼を向けた。

 鋭い目線にいつもならすくみ上がるところだが、今夜は頭に血が上っているせいか――睨み返すことができた。

「……かね?」

「はい?」

「君は沢村の知り合いか、と訊いている」

 威圧的な口調は、いつも命令に慣れてる風だ。

「そ、そうです……沢村さんと婚約者の咲耶さんとも知り合いです!」

「そうか。では、その指環を咲耶に返しておけ……沢村は私が連れていく」

「はあっ!?」

 あまりに淡々と言いきられて、陶夜は頭に血が上った。

 いきなり現れた沢村に失恋させられたと思ったら、今度は別の男が沢村を連れていくという。

 しかも『婚約指環を返せ』と言っている以上、この男は最初に陶夜が思ったとおり、咲耶の味方ではない……むしろ敵だ。

 そこで陶夜への興味は失せたとばかりに、男は足早に沢村を担いだまま歩いていってしまう。

 いっとき呆然となったものの、すぐに陶夜はポケットからスマートフォンを取り出した。

「待て……! 沢村さんをその場に下ろせっ……!!」

 声は聞こえているはずなのに、男は足を止めようとしない。

「通報するぞ、いいのか……!?」

 ありったけの威嚇を声に秘めたつもりだが、情けないことに大声で相手を脅すなど初めてだ――声が震えてしまう。

 だが、眼の前で人が誘拐されそうになっているのを、黙って見ているわけにはいかない。

 ピタリと男の足が止まった。

 肩越しに陶夜を振り返ると、灰色の眼を細めて酷薄そうな笑みを浮かべてみせる。

「好きにしたまえ……沢村が死んでもかまわないなら、な」

「なっ!?」

 カチャリ。

 軽い金属音がしたと思ったら、男が肩に担いだ沢村に銃口を突きつけていた。

 いつの間に抜いたのかすら、わからない早業だった。

「通報したまえ。君が通報したのを見届けて、私も引き金を引こう」

「……い、いや……しない、です。しません」

 陶夜はスマホを決まり悪くポケットに戻す。

 その様子に満足げに頷き、男は「実に賢明だ」と低く笑った。

「一応言っておくが君が警察に通報しても、咲耶に私が沢村を連れ去ったことを話しても……いずれにしろ私は沢村を撃ち殺す」

 笑みすら含んだ低い威圧に満ちた物言いには、微塵の容赦も躊躇も感じさせない。

 それだけに本気なのだと、陶夜に思い知らせるには充分すぎる迫力を備えていた。

「つ、通報しないし、誰にも言わないっ! だから、沢村さんを……」

 ―――殺さないでほしい。

 そう眼で訴えたが、男がそれを受け入れたかどうか、陶夜にはわからなかった。

 すでに男は背を向けて歩きだしていたからだ。

 少しずつ足音が遠ざかっていく。

 その後ろ姿が遠くなり、やがて裏路地の暗がりに消えていった。

 ―――どうしよう。

 そこで陶夜はもう一方の手に、まだ持ったままの缶コーヒーに気づいた。

 コーヒーのお礼すら言ってなかったのに。

『早く、逃げてくれ……俺といると……危ない……』

 会って間もない俺を心配してくれていた……咲耶の大切な人。

 ―――それなのに、俺は……!

 ぎゅっと握りしめた手の中で一方のコーヒーは冷えきっていたが、もう一方の手の中の指環はまだ沢村の温もりを残している気がした。

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