能動的に、前進をさせる。 調査し、分析し、アイディアを出す。 想いを表現をしていく。 最近こころが落ち着かない。 何かの想いをこころで醸成中だからかな。 仕事のこと、生活のこと、やりたいこと、とっちらかって、まとまらない。 そもそもまとめなくていいんだよね。 ポジティブに自分の想いを表現していきたい。
子供が夏休みに入った 自分が子供の頃に、夏休みになった時の気分や空気感を少し思い出した とても懐かしい感じ とても自由だった感じ 一緒に夏休みにしてしまいたくなる 仕事か
仕事で嫌な事があった いろんなひとの思惑が錯綜する 目的がそれぞれある 自己の利益を最大限広げる為 どこまで自由にやりたいことをやれるか 相手がどう思おうが、他人にしわ寄せがいこうが、想像力なき、自己都合の思惑 そんな他人とのことにこころ囚われているときは、自分自身が調子にのっている 解決できると思い込んでいるし、責任があると勝手に抱え込んでいる 忘れちゃいけない大事な事を それは、「早く帰る」ということ 時間内で終わらせ、終わらなくても定時で帰る そこ
書こうと思っても、今日は何を書いたら良いのかまとまらない。 雑草抜きをして気持ちよくなった。 もう少しお花を植えたいね。 朝は空気が澄んでいて、涼やかで心地いい。 ねむい。 これ書きながら寝れる。
2回目のシン・エヴァンゲリオンを見に行けた。 1回目はついていくのに精一杯だったけど、少し余裕を持って見れた。 最早あのシーンがどうとか、コレは何とかいう次元じゃなくて、「そうゆうものです」といった圧倒的なもので、すごい芸術作品をみたような、言葉では表せられないけど、頭で理解感動するのではなく、魂が震えるような感じ。 神と人間。魂と体。希望と絶望。欠如と満足。光と影。創造と現実。幸福と不幸。対比しているものは全て、裏表で背中合わせとなり、お互いがあるから存在がしていられ
最近言ってもらったこと「自分基準の優しさであって、相手がそれを優しいと思うかは別で、相手が感じる優しいことをしないと、優しいことをした、とはならない。」 昔からずっとひとから優しいと言われたり、そう思われることが多かった。 自分自身でもひとに優しくしていると思っていたし。 手伝ってあげたり、気にして声かけてあげたり、雰囲気をよくしようとしたり、相手を尊重したり、う~ん。 あげたり、ってのが気になるな。 こうやったら優しい。と思ってやっている。 私は弱い。 ひとに
エヴァンゲリオンの最後の映画をみた。 宇多田ヒカルと庵野監督のインスタライブの動画を家族から勧められて見て、映画がいつ上映されるのか調べたら、もう映画館で上映されてて、しかも今月で終了するとのことだった。 昔ほどの思い入れはないけれど、映画館でみないと行けないと思い、今日朝いち行ってきた。 全てを見終わって、何か不思議な感情だった。 面白かった。 心にひっかかる言葉も沢山あった。 映像的にワクワクする場面もいっぱいあった。 でもそれとは違う何かの感情があった。 ず
母親からの干渉が本当にきつかった。 当時からイヤだと感じてはいたが、実家を出て、母からの干渉、もはや監視がきつかったことに気が付いた。 俺の部屋は居間につながっていたので、ドアの隙間から様子を見ている感じや、部屋の気配を読む感じ。 意味もなく、理由を付けてドアを開けて入ってくる感じ。 家にいない時に、勝手に部屋に入っている感じ。 あと本当にイヤだったことは、思春期まっただ中の時に、俺がお風呂に入っていると洗面所を使いだし、全然どかないで、お風呂から出られないこと。
新月前。からだがしんどい。 そんな時は、意識が外にいきがちになる。 しんどいと、食べ物を多く食べたり、遅くまで起きたり、無駄にスマホいじったり、いつものリズムが崩れたりしちゃう。 不摂生気味になりそうになる。 でもそんな時は、外に向いている意識を、内側にむける。 瞑想したり、日記を書いたり、歩いたり、禅歩行したり、太極拳したり、自分の内側や自分の今の動きに意識をむける。 そうすると、からだが調整されていく。
兄とはずっと喧嘩してた。 兄や兄の友達と遊びたかったけど、仲間にいれてもらえなかった気がする。 お店屋さんごっこをしたのが、すごく楽しかったのを覚えている。 あと覚えているのはなんだろうか。 子供のころ俺は口が悪かったので、当時ぽっちゃりしていた兄に、もう力では勝てないので、とんでもない悪口を言って、口で倒せないかをずっとやっていた。 結局は力で、泣かされるのだけど。 でもその時に、いかにシャープに短い言葉で相手を口で攻撃出来るか。を積み重ねた。 元々持っていた
子供のころ、自然豊かな公園で、自転車を漕いでいて、坂を下っていた。 目の前は友達が走っていて、坂の下ったところには大きな水たまりが出来ていた。 結構なスピードで水たまりにさしかかった時に、思いっきりころんだ。 でもその転び方が不思議で、いまもたまにあれはなんだったんだろうと思い出す。 前輪を下にして、後輪が持ち上がり、自転車ごと前転をした。 ぐるっと回って、途中空が見えた。 派手にころんで、でも大きな怪我もせず、そのまま自転車を起こしてまた友達と走りだした。 な
ひょんな時に、よく思い出すのが、子供の頃親父が、兄貴か誰かのスケボーに調子に乗って乗って、すぐころんで思いっきりお尻を強打して、そのままお尻の骨にヒビが入ったこと。 運動神経がほぼ0に近いと思っていた親父がなぜ調子にのってスケボーに乗ったのか。 そしていっぱつでヒビが入った悲哀。 なぜだか思い出す。 でも思う。 自分も父親になって、子供と遊んで調子にのる気持ちが。 そして、あっぶねー!と紙一重であの時の親父の悲哀モードになるところだったと、ひやひやすることがある。
胃が少しもたれている。昨日夜、お菓子食べたからだね。 カラダが重たいというか、滞っているというか。多分土日が雨で、家にいてエネルギーがたまっていて、発散出来ず、もやもやしている感じ。 インプットだけだと、カラダの中でエネルギーが滞って、ぐるぐる、風船がパンパンな感じ、やかんが沸騰しそうな感じ、イライラする感じ、何かそわそわする感じ、不安な感じ、具合が悪いのかと思う感じ、になる。 アウトプットをする。エネルギーは入ってきたら、出してあげる。循環が絶対的に必要。運動でも、会話でも
じぶんがどんな想いを持っているか出すには、ココロを静かにして、出てくるのを待つのよ。でもどれが本当の想いか分からない時は、ただ頭に浮かんだことをどんどん書いていく。 あぁ来週あそこに訪問するの嫌だな。なんで嫌なんだろう。ひとと会うのがそもそも嫌だな。何が起きるか不安だし、相手にどう思われるか不安。気に入ってもらいたいし、楽しくその時間を過ごしてもらいたいし、嫌な気持ちを持ってもらいたくない。なんでこんなに不安になるのだろう。いままで傷ついたココロを癒やしていなかったからだなぁ
カラダが痛い時、痛いところに手を当てたり、薬を飲んだり、病院にいったり、なんとかその痛みをとめるため必死にどうにかしようとするでしょ。ココロも同じなんだよ。不安だったり、苦しかったり、辛かったり、嫉妬したり、悲しかったりってのは、ココロが痛いって言っていることなんだよ。ココロが痛いよ、苦しいよって。でもどうにも出来なくてどうやったら痛みがなくなるのか分からないっしょ。カラダのどっかが痛ければ、痛み止めの薬飲めば痛みは治まるし、病院行けばいいし。でもココロの痛みはどうしたら痛み
想いがつくりだす 自分が思わない限り、現実にはうまれない 誰かが思った想いが、形となっていま目の前に存在している