私たちはエッセンシャルワーカー。ここでしか得られない最高の瞬間、教えます。
こんにちは、基弘会編集部デスクの山本です。
この頃は2023卒の学生さんの就職活動が本格化し、基弘会にも学生さんが会社説明会に来て下さって、熱心にお話しを聞いていかれます。
私も十数年前に就職活動をするときはこんな気持だったなぁとか、こんなポイントを決め手にして業界や会社を決めていったなというようなことを思い出しながら、学生さんに出来る限りのアドバイスをしようと心がけているところです。
もちろん転職のときなども、色々悩みながら検討されたご経験があるかたもおられるのではないでしょうか。
今は色んな働き方がありますが、このコロナ禍において広まった「エッセンシャルワーカー」という言葉をご存じでしょうか。
「エッセンシャルワーカー」の定義は、特定の仕事内容を指し示す言葉ではなく、日々の生活を維持するために必要な職業の総称です。
例えば「医療従事者」や運送・配送に携わる「ドライバー」、介護・福祉等の分野で働く方々、スーパー等の食料品店で働く店員の方、保育士や学校教員、電気・ガス・水道整備やゴミ収集に携わる方々など、つまりは社会インフラに関係するような職業・仕事が含まれます。
私たちの会社は「社会福祉法人」、いわゆる高齢者福祉や医療など、社会保障に関わる仕事をさせて頂いていますので、我々も「エッセンシャルワーカー」に属するお仕事です。
私たちのお仕事はその特性上、日常でみなさんが様子を目にすることは多くないかもしれません。
でも、直接人の命に触れるお仕事だけに、感動的な瞬間がたくさんあるんです。今日はそんな介護の現場で働いているスタッフから、この仕事に携わっていて良かった!と思えるエピソードを集めてみました。
母の心を支え、祖母の死に向き合えた(山本デスクのエピソード)
私が介護の仕事を志したのは高校生のころ。
「若い時からそんな苦労する仕事をしなくても」という母の反対を押しきる形で介護の専門学校を卒業し、特別養護老人ホームという施設で介護職に就きました。
高齢者の方に関わる楽しさ、人の人生に寄り添うやりがい、個別のニーズに応えていくことの難しさ…。色んな経験を経て気づけば20年、大好きなこの仕事を今も続けられています。
私が年齢を重ねるごとに、祖母も同じく年を取り、だんだんと認知症が進み、ついには介護サービスが必要な状態になりました。
そんな祖母を介護する母は、認知症が進んできた祖母に対してイライラしてしまって、優しく接する事ができず、とても悩んでいました。
介護保険制度が浸透し、様々な介護サービスも充実してきた頃だったのですが、母の負担を減らす介護サービスを導入するのにも、一番のハードルは「母の心の持ち方」でした。
自分の母親の介護を人にお願いすることの後ろめたさという感情。これが母を一番苦しめていたようです。
他の仕事をしている普通の娘だったら、もしかしたら気の利いたことは言ってあげられなかったかもしれませんが、介護の仕事をしている私だからこそ、母にかけられた言葉がありました。
それは
「介護サービスを使うことは、祖母の介護を放棄することじゃない。プロの力を借りて、きちんと祖母を介護する事なんだ」と。
そうして介護サービスを導入して心のゆとりが持てるようになった母は、祖母にも優しくなれたようでした。
祖母は認知症の進行とともに、少しずつ食事も摂ることができなくなって、91歳で逝去しました。
もちろん悲しくはありましたが、母も私も「最期までやれるだけの事ができた」という達成感のほうが強く、祖母の死に向き合えたように思います。
母と一緒に祖母の介護に向き合えた。それは、まぎれもなくこの仕事につくことでできた親孝行だと思っています。
家族の絆をつなぎ直せたのは介護の仕事をしていたから(大野さんのエピソード)
私が介護の仕事をはじめるきっかけは大学在学時に介護の人材不足ニュースが多く聞かれ、外国人に介護の仕事をしてもらおうという流れに強い違和感を覚えたのがきっかけです。
その違和感から、そんなに魅力的な仕事ではないのかな??と言う疑問が生まれ、ヘルパー2級の資格を取得しに行きました。
当時、福祉とは関係のない大学に通っており、福祉の勉強をしたことはありませんでした。しかし資格講座内の現場実習を通して高齢者の方と関わる楽しさを感じて、大学在学時よりグループホームでのアルバイトを開始し、そのまま13年間介護業界で働いています。
私が介護の仕事を続けてきて思うことは、「これだけ人の人生や価値観に寄り添う仕事はない」ということです。
13年間の経験の中で、たくさんの利用者さまやそのご家族に関わらせていただく機会を得ましたが、ご入居からご退去までおそらくこれだけ深く人生史に触れ、価値観に触れる仕事は他にないと思っています。
また、日々たくさんの方の人生に触れる中で多くのことを学ばせていただいていると思っています。
その中で特に感謝しているのは「家族の絆の大切さ」を学ばせていただいたことです。その学びは私の価値観に大きな影響を与えてくれました。
私は父を小学校6年生時という幼い頃に亡くしたので、父方の親戚とはその後疎遠になっていました。
しかし、家族の絆の大切さを学ばせてもらったことをきっかけに連絡を取るようになり、今年20年ぶりに宮崎に住んでいる叔母夫婦に会いました。
叔母からは私の知らない父の話や小さい頃の私の話を聞き、また私の子供も紹介し、20年前に戻ったような気持ちになり、歴史が紡がれたようなあたたかい時間を過ごすことができました。
今ではLINEで家族の様子を連絡するなどし、次いつ会うかと話もしています。また、その行動を見て今年妹や弟達も疎遠になっている高知の親戚に会いに行ってくれ、今まで途切れていた絆が紡がれていっていることに喜びを感じています。
建築業から介護職へ。心のなかに雷鳴が響いたある経験(成田さんのエピソード)
私は学校を卒業して建設業界に身を置き、建設現場でヘルメット姿・作業着姿で汗を流して働いていました。
転職のタイミングは、勤めていた会社の業績が傾き、職員の給与も滞納するような状態となり、好きだった建設業界から転職を考えざるを得なくなった時です。
仕事は好きで、どんな大変な仕事でもやる自信はもっており、転職先には「みんなが嫌がる3Kの仕事についてみよう」と思い、肉体労働から、精神的にも大変な介護業界に転職しました。
今思えば安直な形で仕事に就いたなぁと思います。
その時には長くはやらないだろうと考えていたと思います。
介護の学校に半年間通い、「介護職員基礎研修」という資格を取得して、社会福祉法人 基弘会で働くようになりました。
働き出した頃は、高齢者の方に触れることも怖く、おむつ交換で肌に触れることさえ、どのように接すれば良いかわかりませんでした。握ったら折れてしまいそうな足首、やせ細ってしまったふともも、今までの自分の経験からは考えられない世界でした。
知識も未熟な新人職員が自信をもって出来ることは皆様とお話することで、認知症をお持ちの利用者様に付き添ってうろうろ歩くことが大好きでした。
かよわい手で、私の手を握られフロアを歩き回って昔話をされ、ただひたすら傾聴する。
そんな仕事が新人時代の私の気持ちを安心させて下さいました。
そんな私も年数を重ね、ある程度仕事を認めてもらえた頃。
とある高齢者とのエピソードが心に残っています。
その方は旦那様に先立たれ、子供たちを育てるために、お好み焼き屋さんを営まれていました。
その方は認知症の症状もあり、夕方になると私がお好み焼き屋の店員に見えていたようで、「はよ、鉄板に火を点けや!」「油はこうやってひくねん」とまるで目の前のテーブルが鉄板であるかのように身振り手振りで示してくださいました。
私も店主に見習って、真似をして一生懸命働かせていただきました。
ですが肺炎を患って入退院を繰り返すようになり、食事も摂りにくくなってだんだんと弱られていきました。
ご家族様が「最期まで口から食べてほしい」とスタッフに懇願され、我々の介護施設でご家族様も一緒にお部屋に泊まり込んだりして、一緒に介護をしてくださいました。ですがどんどんと衰え、呼びかけにも時折しか応じられなくなったとき、ご家族様がぽつりと「お店にもう1回、帰らせたかったなぁ」と呟かれました。
その一言が雷鳴のように私の心に響き、突き動かされました。
主治医やケアマネジャー、施設のスタッフに相談をもちかけ、最期に少しでもご自宅で過ごす時間を作って差し上げたいと考えたのです。
負担の無い移動手段の手配、看護師さんとの連携、スタッフの協力…。万全を期すためみんなでシミュレーションし、当日を迎えました。
施設を出発するときご本人は目を閉じたまま。「○○さん、おうちにかえりましょう」と声をかけても返事も無く、車は出発しました。
お店に到着し、ストレッチャー(キャスター付き担架)でのれんをくぐると、ご家族様やお店の方々が、お好み焼きや焼きそばを焼いてくれていて、ソースの香りと香ばしい煙がしっかり感じられました。
すると、それまで目を閉じたままだったその方が目を開けて、お店を確認するように目線を動かされていました。
わずか数秒間、その反応を見せて頂けたことが、私にとって一生の宝物のような気持ちになりました。
最期はご自宅で、ご家族の皆様に見守られながら、天国に旅立たれました。
そんな経験をさせてくれたこの仕事に出会えて幸せです。
今でもお店でのれんをくぐると、その方に会えるような気がします。
目標はかけがえのない存在になること(Nyankoさんのエピソード)
リズムタウン仙台のNyankoです。
猫11匹と夫ひとりと暮らしています。
「ひと」が好きで、どうしても「人」に関わる仕事がしたくて、コロナ禍真っ盛りに転職して1年。
エッセンシャルワーカー、英語表記は「Essential worker」。人々の生活にとって必要不可欠な労働者という意味です。
ふれあいとリスク回避の狭間で、大切な利用者様の「かけがえの無い時間」に私は充分務められてきたでしょうか。
まだまだです。
「心を尽くして、生きる喜びを持って頂く」この仕事に、私はまだ何も足りてはいません。むしろ、4月に私自身が思いもがけず大手術をし、復帰した時に、入居者さまに親のような優しい温かい言葉を掛けて頂きました。
尊敬する人生の大先輩がたから頂いた愛に、生きる勇気を頂きました。
「人は偶然出会うのではない。その人生に必要として巡り合うのだ」としたら、仕事に感謝、尊敬する上司、同僚に感謝、病にも感謝です。
もっと知りたい、もっと尽くしたい…もっと学びたい。
職場や利用者様にとってかけがえのない、必要不可欠な存在になれますように。
これが、私の大きな目標です。
ママの仕事は「おじいちゃんおばあちゃんのお手伝い」。この仕事は私の誇り(山口さんのエピソード)
リズムタウン仙台の山口です。
私は結婚・出産を経験してから介護の仕事を始めました。
今では子どもたちは「ママの仕事はリズムタウンでおじいちゃんおばあちゃんのお手伝い」と覚えてくれています。
担任の先生からは「介護のお仕事大変ですね」と声をかけられることもあります。
確かに大変です。
日々色々なことが起きます!
決してきれいでかっこいい仕事ではないかもしれません。
ただ言えるのは「この業務はこの人の人生に不可欠のものだ」と思える仕事の繰り返しであることです。
基本である食事・排泄・入浴に始まり、地味な仕事ではありますが、その一つひとつが日常を支えているのです。
介護の仕事を始めたのは長男が2歳半、次男が10カ月の時でした。
難しいと思っていた仕事も諸先輩方のおかげですぐに慣れました。
また、私の場合は子育て中だったことも大きかったです。
施設ではお年寄りに食事・排泄・入浴介助をしますが、帰宅後もほぼ同じ!子どもに同じ世話をします。
他にも、会話をし、口腔ケアをし、体調に変化がないか気にかける…。
介護とは特別なことではなく日常だ、と強く感じました。
すべての人が家族の一員として生まれ、生涯を全うし閉じていくという当たり前のことを、改めて感じさせてもらっている日々です。
人と接するからこそ得られる経験と喜びがある
いかがでしたか?我々はエッセンシャルワーカーであり、人と触れ合うことでしかできない仕事をしています。
だからこそ味わえる得がたい経験がいくつもあります。
これこそがこの仕事の醍醐味であり、魅力なのです。
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