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【レストランアラスカ@大阪中之島】10年以上心に残っている味

インスタやiPhoneの写真を整理していると、10年前にお母さんと訪れた、大阪のホテルのレストランの投稿が出てきた。当時、私はメンタルをやってしまって、ずっと微熱が続いて、歯が痛くて、呼吸が普通にできなくて、1日20時間寝ていた。とりあえず大学を休学して、地元に帰って、生きる屍と化していた。目を瞑ると目眩がして、それが、まるで私が地面から少し浮いていて、地球が私を置いていって、勝手に廻っているみたいだった。

私は、心が終わってしまう前に身体の症状が出るタイプで助かったと思っている。当時、下宿先で正体不明の症状に悩んでいろんな病院に通って、最終的に下宿先の近くの町医者の受付で、看護師さんに「もしかしてだけど、何か辛いこととかない?」と聞かれて大泣きしてしまったところで初めて気がついた。それまで、まったく辛さに気づかなかったのだ。

私は小さい頃から母に面倒を見てもらうことを極端に嫌がった。幼稚園の入園式も、母の手を振り払って一人で歩いていったらしい。心配かけたくないとか、自立したいとかそういう前向きな気持ちではなかったと思う。親に頼るということが、どこか恥ずかしいことだと思っていた。大学受験もどこを受けるか母はあまり知らなかったし、下宿先がどこなのかも実は知らせてなかった。

そんな私から、急に「死ぬかも」なんて連絡がきたから、母は大変びっくりしただろう。次の日には父と仕事を休んで、車で大阪の下宿先に来てくれた。下宿先の契約も私ひとりでやっていたので、色々な手続きで手間取らせた。実家に帰ってからは「何もしなくて良い」「いてくれたらそれだけでいい」と何度も言っていた。今私が生きているのは、死んだら母が悲しんでしまう、というところも大きいと思う。

睡眠時間が少しずつ普通に戻って、少しなら外をで歩けるようになった時、母が連れて行ってくれたのが中島のレストランアラスカだった。当時、急に意識が朦朧とすることも多かったし、記憶がない場面も多いけど、このレストランのことはよく覚えている。自立できるのかどうが全然わからなかったけど、もし自分でお金を稼げるようになったら、こういう場所にたくさんきてみたいなあ、と思った。

10年経って、私は今東京でお金を稼いで、猫と暮らしていて、今が一番幸せだと思って生きているけど、あの時のお店はまだやっているかなあ、と思って検索してみた。何度かリブランディングを重ねて、今はコロナ禍を影響も受けてか、移動販売などもしているようだった。ちょっとホッとした。関西に帰ったら、今度は母を連れて行ってあげたいと思う。


夜景も素敵だった。 肥後橋や阿波座に足を運ぶ度に、大企業のOLなりたくなるよ。笑(2012/05/ 04)
けてあった油絵ー。金田一少年の事件簿で、髪が伸びる油絵の話あったよな。笑
テーブルセッティングも凝ってる。薄緑のカーネーション。ひとつ咲いていなかったのは残念。でも、母の日仕様?(推理)
ワインのやつ。ボトル50万円とかで笑った。
アフォガードって言ってた。
燃えとる。
84年の伝統がある、炎のバニラアイス。気品あるお姉さんが目の前でフランベしてくれました。
わたしのは、牛頬肉の。と、とろける。。。
メインディッシュお肉。お母さんのは…なんだっけ。笑
お口直しソルベ かぼすだったと思う


さわらの春野菜なんとか。笑
アラスカ特製ポタージュ
オードブル。


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