みなとみらいのモノリス #小説
あらすじ
コロナ禍が明け、オフィスへの出社要請と、オフィスが突然東京から横浜に移転したことで、毎週金曜日だけ東京からみなとみらいに出勤しているIT企業のエンジニア職の高橋奏斗は、出勤日、毎週みなとみらいの長いエスカレーターの途中ですれ違う女性、未央のことが気になっていた。ある土曜日、忘れ物を取りにオフィスに向かうと、休日姿の未央を見かけ、毎週土曜日、みなとみらい駅内のカフェに来ていることを知る。奏斗は未央のことをもっと知りたいと思っているうちに、指輪やハンカチ、小さな行動一つからも彼女の交友関係を憶測してしまう。その他断片的な情報から色々推測しているうちに恋焦がれる想いが爆発してしまった奏斗は、すれ違った未央を追いかけて連絡先を聞く。
登場人物
高橋奏斗:29歳/ IT企業エンジニア/ 母がジュエリーデザイナー
佐々木未央:推定20代後半-30代/みなとみらい在住 /東京で働いてる
溝口杏奈:29歳/広報/帰国子女/自分磨きが好き
芦田匠:29歳/営業部のエース/勢い系/人懐こい
東急東横線とみなとみらい線
毎週金曜日、オフィスへの出社日。
朝の7:21中目黒駅発の東急東横線特急。目的地のみなとみらい駅には7:58着。
自宅からは正直渋谷駅の方が近いけれど、渋谷駅は東急東横線のホームが地下深すぎる。
よって少し離れた中目黒駅まで、基本は徒歩で、時々気分で時間貸しの電動スクーターを使ってみたり、雨が降ればバスに乗ってみたりして、いつも向かっている。
向かいの渋谷行列車が入電してくるホームは、こぼれ落ちそうなくらいに人がたくさんいるのに比べたら、横浜・みなとみらい方面は空いていると言ってもいいだろう。
向こうの人には、この時間に中目黒から横浜方面に乗る僕のことが不思議なんじゃないだろうか。あんな人混みの中から向かいのこんなホームを見たら、きっと僕なら不思議に、そして恨めしく思うだろう。
車両はいつも最後尾から数えて2つ目の車両。空いてもいるし、何より電車が衝突した時に一番安全そうだ、という、個人的主観。
まあ座れたらラッキーとは思うけれど、基本的にはドア横手すりが僕の定位置。
市街地を抜け、少し住宅が増えてきて、日吉あたりで今度また人が増えてくる。そもそも横浜で働く人は、きっとこのあたりに住むのが最適解なはずだ。
そんな生活における「都心部」が切り替わる境界線を超えたら、列車は地下に潜る。
東急東横線を走ってきた列車は横浜駅からみなとみらい線に直通で乗り入れ、地下深くを走り抜ける。
みなとみらい駅まで、中目黒駅からだと30分と少し。
通勤時間が30分を超えるとQOLが下がると何かで見たことがあるけれど、まあ、満員電車なわけでもないので、ライフワークバランス観点から見れば合格点なのではないだろうか。
到着のベルを聞きながらみなとみらい駅のプラットホームに降り立ち、大きく深呼吸をする。
見上げればグレーの天井に、1mくらいの幅がある青く太い線が縦に数本、まっすぐ走っていて、構内の奥行きを強調している。
地下4階に相当するこのホームから、上へ上へと浮き上がっていって、僕の「オフィスワーカー」としての一日がはじまる。
構内に響く構内放送や雑踏の長い余韻は、みなとみらい駅特有のもの。
ホームがほとんど外に晒されている中目黒駅とは違い、かと言って同じ地下ホームだけれど多すぎる人が全てを吸収する渋谷駅とも違うそれは、多くの人を惹きつける要因になってるのも頷ける。
深い青色に塗りあげられた配管があちこちから伸びていて、乗ったことはないけれど、巨大な船の底はこんな感じなんだろうな、と思う。
ここからエスカレーターをいくつか乗り継いで、地上に上がる。
1つ目のエスカレーター付近にはスピーカーが隠されていて、カモメの鳴き声がする。
まだ舟底なのに間近にカモメの声がするのには少し僕のお堅い脳みそはついていかないのだけれど、どうやら目が不自由な人に階段の位置を案内する音声案内らしく、だとしたら確かに馴染みすぎても良くないはずだ。
上れば左手にセブンイレブン、遠くにドトールと崎陽軒。歩み進めて、改札パネルにスマートウォッチをかざして改札をくぐる。まだ地下3階なのに、天井から柔らかな朝の光が射し込んでくる。もっと濃度の高い光と空気を求めるように、ここから長いエスカレーターを乗り継いで、さらに上へ上へと向かっていく。
改札を出て左折、次はクイーンズスクエア側の長いエスカレーターへ。
みなとみらい駅の象徴とも言っていいであろう、この長いエスカレーターの乗車時間は約1分。
何度乗っても、吹き抜けになっているアトリウムを見上げては見下ろしを繰り返して、今どの辺りまで来てるのかを確認してしまう。そうしている間に、自然と目に入る、巨大な黒壁の文字列。
かの有名な第九の原詞を作ったフォン・シラーが、友人であるデンマーク王子アウグステンブルグに送った手紙からの引用らしいこの詩は、かなり抽象的で、さすがに長いエスカレーターといえども、この難解な言葉の並びを理解しようとしている間にいつも見えなくなってしまう。
こうやって、僕みたいに、朝みなとみらい駅をのぼって、夜また沈んでいく人間もいれば、朝に深く潜っていく人も居る。絶えず循環していて、管理のゆき届いた水槽のようだ。
ーー今日はまだ、すれ違わない。
高橋奏斗、今年29歳のIT企業でエンジニアとして働いている会社員だ。
もともとは渋谷区のオフィスに通勤していて、そもそもそのオフィスの立地が理由で就職した、なんてところもある。
でも、地球規模で猛威を振るったコロナウイルスの影響で、オフィス出社以外の可能性を考えたことすらなかった日本企業の多くも、リモートワークに移行せざるを得なかった。
直後は「生産性が下がるどころか、満員電車のストレスが減ってとてもハッピー!」みたいな投稿がSNSで散見されたが、いくら勤勉とされる日本人でも、やはり人間なので、どんどん生産性が下がっているのが、経営者だったり、生産性を下げない工夫をした側の人間は気づいていただろう。
流行り出した頃には、その夏までコロナ禍が続くなんてほとんどの人が信じていなかったのに、数年後「次は何波?」くらいの扱いになった頃には、各企業の生産性の低下が目にみえるようになった。否、マスコミの報道で、そんな印象が世の中に蔓延った。
その結果、やはり物理の出勤が大切だという風潮も広まって、僕の勤務先もまた、オフィスへの出勤要請とともに、オフィスが渋谷から横浜のコワーキングスペース内に移転すると周知されたのだった。
会社が出したオフィス移転についてのプレスリリースには「発展が目覚ましい横浜で、もっと人々と密につながっていきたい」と、みなとみらいのビル内に新設された外資系のコワーキングスペースを、今風に撮った写真や動画が並べられていたが、そんなのは建前で、ただただ都内のオフィスの賃料が勿体無いのだろうことは、社内の人間だからこそわかる。
僕はもともと朝があまり得意ではない、否、朝に無駄な労力を使いたくないので、渋谷のオフィスの近くのマンションを借りていたのだが、マンションの更新を早めにしたのが仇となった。
突然のオフィス移転に文句のひとつやふたつでも言ってやろうかとも思ったが、発令が出た時点から、リモートワークに慣れ切った従業員から非難轟々だったようで、オフィスへの出勤は毎日ではなく、各部署で相談の上、僕が所属する開発部は週に1日の出勤となった。
コロナ禍に入ってから、ワーケーションという言葉が持て囃され、皆が田舎暮らしを求めて地方に飛んでそこから発信をしているのを眺めながら、自分は改めて都会での暮らしが好きだと擬似的に再確認もしたところだったので、部屋の契約満了までは都内から横浜に通うことにしたのだった。
オフィスが移転してこの駅を週1回使うようになって、ひとつ、自分の中で、「あまり生産性があるとは言えないルーティーン」がある。
いつもこの時間、僕とは逆にみなとみらい駅の長いエスカレーターを降りていくある女性を視界に入れることだ。
この駅から乗って、どこにいくのか。そんなことを僕が知る由もないけれど、とにかく毎週、決まった時間の電車に乗って、この長いエスカレーターを上っている間にすれ違う。
これはすなわち、どういうことかというと、わりかし決まった時間にこの地点に到達している僕と同じく、わりかし決まった時間に、彼女もまた、この地点に到達しているのだ。
最初にビビッと来たわけではない。エスカレーターを上っているときに、黒い石板に刻まれている難解すぎる詩を「何が言いたいんだろう」眺めているうちに、いつも周りは皆スマホを触るなりして下を向いているのに、彼女はいつもまっすぐ前を向いていることに気が付いたのだ。
今週はどうだろう、と確認しているうちに、目で追うようになってしまった。
あまり見ていると不審がられるかもしれないから、最近は、三列あるエスカレーターの一番左列、降りてくるエスカレーターとは一番距離のある位置についている。
今日もまた、何を言ってるのかよくわからない詩をまたイチから読み進めていると、視界に彼女が入ってきた。
いつも薄めのパステルカラーのファッションでまとめていて、それが肌や髪の色素が薄い感じと合わさって、水彩画みたいだと思う。
今日は水色のシンプルな丸襟のブラウスに、白色のロングスカートだった。シンプルなつくりなのに、ひと目見てユニクロじゃないとわかるのは、彼女の着こなしなのか、衣服の素材の違いなのか。
耳には小ぶりながらにきらりと光る目視0.5カラットくらいのシンプルなブリリアントカットのダイヤモンドのピアス、首にも同じダイヤモンドがあしらわれたセットのホワイトゴールドかプラチナのネックレスをしていて、その落ち着いた全体的な様子から、20代後半から30代くらいなんじゃないかな、と推測する。
腕にはシルバーのシンプルな腕時計。そして指輪は、していない。
今日もまっすぐ前を見ている。最初は目が合ってるんじゃないか、なんて思っていたけれど、眺める角度が少し変われば、彼女の左側の目下の、列車のホームを見下ろしているようにも見えた。
すれ違った後、僕もホームを見下ろすようなそぶりをして、横目でちょっとだけ後ろ姿を追う。
エスカレーターから見下ろす列車のホームは、この高さから落ちたら9割は死んでしまうだろう、と思える高さで、別に自分の足で上がってきたわけでもないくせに、数分でこの高さを登ってきたことに達成感を感じる。
出勤
ジュエリーデザイナーの母親に育てられた僕は、昔からある程度のファッションとか身なりに対する知識を教えられてきた。おかげで、ある程度自分に似合うファッションとか小物がどんなものなのかが、感覚でわかる。
母は小さい頃に父とは離婚していたが、母自身すでにある程度名の知れたデザイナーをやっていたので、生活に困ることはなかった。父の顔は、見たことがない。
自分の中に培われた美的センスだとか、 レディファースト的な行動を照れることなくスマートにできるようにしてくれた点は、今になって、母に感謝している。昔こそ、女好きだとか言われて苦労したが、おかげさまで、ある程度女性関係には寂しい思いはしてこなかった気もする。
母譲りなのか、細かい作業が好きで得意で気づいたらなっていたエンジニアという職業は、思っているよりも高給取りで将来安泰に見えるのかも知れない。
最近では、初対面にも関わらず、お相手はいるんですかとか、結婚願望はあるんですか、みたいなことを聞かれることが増えた。
SNSのダイレクトメッセージで見知らぬ人からお見合いの申し込みが来ることもある。
そういう出来事があるたびに母に教えられた「女はどこまでも面倒くさいわよ、私がそうだったようにね」という言葉を、頭の中で反芻する。
拒否はせず、決して受け入れない。
CTRを高めて、CVRは上げない。
僕の人間関係(主に女性周り)でのテーマだ。
こんな話を、大学の同級生で、会社の同期の匠に酒を飲みながらしたら「『来るもの拒まず去るもの追わず』みたいな話をかっこよくするんじゃねえよ」と一蹴された。確かにそうかもしれない。
その一方で、ジュエリーデザイナーという一見ロマンティックな仕事をしている割に結構現実的な母親にはない、ロマンチストな部分も持ち合わせいていることを僕は自覚している。
僕にアプローチしてくれる人の中に、どこかに本物の愛があるんじゃないか、なんてことを、時々考えてしまう。
「毎朝のルーティーン」は、この感性に支配されている気がする。
顔も見たこともない父の遺伝子を、自分の意思とは関係なく組み込まれたこの心の動き方に感じる。
敏腕広報
「高橋くん、おはよ」
カードリーダーに社員証をスキャンしていると、真っ先に声をかけて来たのは広報課の溝口杏奈だった。
何社かの大手企業の秘書業や営業を経たのち、この会社に入社して2年目の同い年。頭も良く、仕事もでき、それでいてお高く留まりすぎない。
そして、僕のことを、悪くは思っていないと思う。
僕は自分の親のことを社内では話していないが、緊急連絡先として母の連絡先を提出しているので、人事課の人たちは知っていると思う。
広報課は人事課や秘書課と同じく管理部に所属しているし、杏奈はかなりの情報通のようなので、知っているのかもしれない。
その一方で、杏奈が別に、僕の母親が知名度があるから、僕に気がある訳ではないことも理解していた。
彼女はそんな、他人の褌で相撲を取るような人じゃない。僕自身がその点に気をつけてるからこそわかる。
オフィスへの出勤を「コミュニケーションの円滑化」という名目で復活させた割には、移転先のコワーキングスペースのオフィスには全社員が出社すると座席が足りなくなる。
上層部は、全日全社員出社を復活させることは当面考えていないのだろう。
その一方で管理部が「リモートワークによるコミュニケーション不良の解消」をオフィス出社の第一理由として事務的に社内アナウンスを展開したものだから、当時の社内の炎上は自然な気がした。
リアルと切り離されてSNSに依存し切った社員が「※このアカウントの発信は所属企業や団体とは関係ありません」のひとことを注意書きしながら、それっぽい不満を発信したりするのも散見され、各部門長による、現状と今後に向けてのヒアリングという名の火消し活動が行われた。
僕が所属する開発部のエンジニアチームは、基本的にオフィスに出勤していてもチャットツールを使って会話することが多い。
そんな文化だから、リモートワークといった働き方が相性がいいこともあり、そこまで摩擦がないので、週1出勤に落ち着いたものの、僕のチームはやはりモニターを2面以上、自分好みの配置で使う人が多いし、毎朝の定例はzoomで行うが、近くにいると音が混ざるので、個室ブースを借りたりして、リモート環境に最適化された僕たちにとっては、逆に非効率な感じは正直した。
何度かやってみて出社日は作業を進めるのではなく、コミュニケーションを取って、来週以降の仕事を円滑に、支障なく進めるための日だ、という共通認識を部署内で共有し合うようになった。
そう切り替えないと、出社の本来の意味を発揮できないと思ったからだ。
割と柔軟な僕らの部署ですらこの調子だったのだから、他の部署は調整が相当大変だったようだった。
あまりに社員の統率が取れずヘイトを生み出してしまった管理部を見かねて、採用広報も任されていた杏奈が「まずは新しいオフィスが完成したら社員達が実際に見に来る機会を設けて欲しい」と、交通費全額支給、軽食付きの新オフィスお披露目会を企画し、上層部に提案した。
「新オフィスを実際に見にこれば、出勤したくなるようにすればいいと思います」
同時にコワーキングスペースの担当者の窓口も巻き取って上手く連携し、社内にグリーンを増やしたり、畳や掘り炬燵のエリアを増設したり、カラフルなビーズクッションを置いてみたりして、イケてる感の演出にも力を入れた。
更に杏奈が入社してから会社のメディア露出も増えていたこともあって「コワーキングスペース全体のプロモーションも兼ねる」という触れ込みで、予算をコワーキングスペース側から上手に引っ張った。
結果、コワーキングスペース側も肝入りとなった新オフィスは開発が進むみなとみらいらしい洗練された今風の空間に仕上がり、窓からはみなとみらいの海も一望できて、SNSに苦言を露呈していた社員達はそんなこと忘れたと言わんばかりにお披露目会でその風景をオシャレに撮影して、SNSに自慢げに上げていたのだった。
杏奈が自分が自分らしくいるために、日々努力を欠かさない女性であろうことが、日頃の立ち振る舞いからわかる。
休みの日はネイルやピラティスに通い、毎晩の運動も欠かさないらしいとこの前部署内で話題に上がっていた。
時々男性社員が「尻軽そう」みたいなことを言っているけど、決してそうではないことも、真っ直ぐなアプローチを受けている僕にはわかっているし、聡明で知性のある彼女は、自分が一部の人間からそのような扱いをされることも、そして僕がなかなか靡かないことにも気づいているようだった。
悪口の一つや二つ言えばいいのに、いつも笑顔でやり過ごす。
「また後で会議でね〜」と笑顔を残して、先にガラス張りのミーティングルームに向かう後ろ姿を眺めながら、やっぱり僕には勿体無いと思った。
15時からは広報部との打ち合わせ兼写真撮影だった。
新規事業にかかるエンジニアの採用の拡大に向けて、インタビュー記事と動画を作るとかで、僕に白羽の矢が立ったのだった。
まあ、あるものは使えばいいと思うし、こういう時に見栄えするために「着飾る」という行為があるのも、一理あると思うので、快く受け入れた。
何より、社の広報という点でプロの仕事をする杏奈から直々に指名を受けるのは、悪い気はしなかった。
撮影に同行したエンジニアチームのリーダーが満足げに横で様子を見ているところに、杏奈が「高橋さん、こういったご提案にも積極的に協力してくださって頼もしいです。やはりなかなか本来の業務が忙しいからと断られることも多いので」と話していて、こういうところが抜かりなくて、上手いよな、と思う。
リーダーもまんざらでもない顔をしていて、次広報課から何か無理難題を提案されても、リソースが足りないだのなんだの言わず、きっとどうにかして応じるだろう。
そんな人の良さが、僕のチームのリーダーの弱点でもあり、いいところだとも思う。そして杏奈は、やっぱりすごい。
忘れ物
ある金曜日の夜。
今日は午後1時頃、匠から急遽合コンの穴埋め依頼の連絡が来た。
「誘っていたやつが急に来れなくなって!職業と年収で絞るとお前にしか声をかけられねえ!お前があまり合コンには行かないのは知っているが、今日は頼まれたと思って来て欲しい!」
気心知れた間柄だからこそ、社内連絡ツールでこんなもの送ってくるな、と言ってやろうかと思ったが、匠の過去の恋愛への熱量を考えれば、今夜の合コンが仕事よりも重要なプロジェクトなのは一目瞭然だった。
仕事のスケジュールを組み直して間に合うようにしたが、最後少し急ぎ足でオフィスを出ることになってしまった。
部署の他の人はあまり干渉してこないが、通り抜ける管理部の机で「あら、高橋くんご予定?」と黄色みを帯びた声がかかる。
冷やかすというよりは、明日からの話のネタを見つけた、といった感じなので、一瞬足を止めて「営業部の芦田が主催の合コンに欠員が出ちゃったみたいで、代打頼まれて、行ってきます。遅れたら、恋に燃えてる幹事の芦田の予後が悪い気がして」と笑顔で答えて、出来るだけ変な噂が立たないよう、全てを匠に押し付けて、火消ししておく。
端の席から、杏奈がじっとこちらを見ているのが伺えた。
合コン自体は、卒なく、ちゃんと代打を務められたのではないだろうか。
代打と言われれば、そんなに相手を探しているふりをしなくてもいいのもいい。
匠もその辺は了承してくれているので「超レアキャラだよ!」と僕のことを紹介して回っていた。
斜め前の女の子が母のブランドのネックレスをしているのを見て「素敵なネックレスだね」と声をかけた。
はにかみながら「ずっと欲しいと思っていて、この前のボーナスで買っちゃったんです」と教えてくれた。
2件目のカラオケにまで付き合い、終電に乗る。
同じ方向です、と一緒に乗り合わせた女性に、帰りの方向を聞かれて都内だと答えると「え、そうなんですね」と驚かれる。
勤務地が横浜なのに都内に住んでいる、と言う事実だけを見てみると、少し得体の知れない人物に見える気がして「元々オフィスが都内にあって、横浜に移転したんだよね。匠も元々は近所だったんだよ」と、退社時に泥を塗ってしまった匠の意外性みたいなものを提示して全体のバランスを取り、横浜で下車する女の子を見送った。
1人になった電車の中でカバンを探って、AirPodsを忘れたことに気がつく。やってしまった。
次の出勤日は金曜日。アルコールで多少鈍い頭を稼働させる。
土日は越せそうだが、月曜から木曜の自宅やカフェ、都内のコワーキングスペースでの仕事、そして金曜日の朝の通勤まで、遮音ができるAirPodsがないのはちょっと苦しいかも、と思った。
酒のせいで気が大きくなっていて、もう一つ買ってもいいか、なんて思ったけれど、早々に思い直す。
せっかくだし休日の朝活として明日オフィスに行ってみるか……と決めて、中目黒駅で下車し、朝までコースの連中が群がる中目黒をかいくぐって、徒歩で帰路についた。
土曜のみなとみらいは静かだった。いつもよりも地下から見上げる天井が高く、青く見える。
休みなんだから別にもっと遅い時間に来てもよかったのに「オフィスに行かなきゃいけない」と思って寝たら、いつもの出社日と同じ時間に目が覚めた。
休日ダイヤといっても、大幅に本数が減るわけでもなかったので、ほとんど同じ時間にみなとみらい駅に到着した。
いつもとは違う様子のエスカレーターを、いつも通り登って、改札を通り、クイーンズスクエア側のエスカレーターにたどりついた。
人の気配がまばらなアトリウムは光を遮ったり吸収するものがなくて、いつもより明るく見える。
いつも刻まれた詩の内容ばかり見ていた石板も、今日は素材の黒御影石が光を受けてキラキラと漆黒に輝き、それでいて一枚ずつ違う黒の濃淡をしていることに気付いて、一体これだけの量の黒御影石を集めるとなると、どこ産の、どのクオリティのものを集めたんだろう、なんてことが気になった。
天井からの光を受けながら、まるで、昔母の仕事の付き添いで連れて行かれたヨーロッパの教会みたいだな、と思いながらエスカレーターを登っていると、視界の端にいつもの配色トーンの女性が入ってきてわかりやすく驚いてしまう。
白いVネックのTシャツに青いジーンズ。手入れが行き届ているように見える白いスタンスミスのスニーカー。時計はいつもと違って赤い革ベルトのものをしていた。
髪をポニーテールにしていて、耳にはパールの揺れるピアス。
そして、右手の薬指に指輪をしているように見えて、ドキッとする。
すれ違ったのち、今日は人も少ないからだろうか、大胆に振り返ってしまう。
いつもの癖で、下りエスカレーターと一番距離のある上りエスカレーターに乗ってしまっていて、この距離では手元がハッキリとは見えない。
後ろ姿をじっと見つめて、いつも綺麗な服を着ているのだと思った。
平日は逆光気味だからかと思っていたが、改めてみても、全体的に色素が薄い気がする。髪の毛も黒色なのだが、どこか柔らかそうな感じがある。
そして、意外と休みの日も、朝から活動的だなと思った。
脳裏に焼きついた指輪らしきものを思い出しながら、もしかしたらデートかも知れない、と考えを巡らせる。
前から見た節目がちだった姿を思い出そうと目を瞑ってみたけれど、彼女の姿は思い出せず、代わりに昔教会で見た、ステンドグラスの女神が浮かんできた。
いつもとは人の質が違う通りを抜けてオフィスが入るビルにたどり着いた。
エントランスもエレベーターホールに入るスターバックスもいつも以上に人がまばらで、休日だと再確認する。
エレベーターでオフィス階に上がる。休日も稼働しているものの、やはり人はいつもの半分以下で、これはこれでいいなと思った。
いつもあまり注目していなかったれけど、窓からは海が空と繋がるところまで見えることに気が付いた。無機質に空中を横断するロープウェイが、意思を持たないクラゲのように見える。
自分のデスクからAirPodsを回収すると、少し心が落ち着いた。世の中の雑音を遮音してくれる AirPodsが、自分の心の拠り所になっているのを感じる。
下の階にあるスターバックスでコーヒーでも飲んで帰ろうかと思ったけど、なかなか気を落ち着かせられなくて、早々にみなとみらい駅に戻って来てしまった。
いつもは夜降るエスカレーターを、朝の間に降る。
光の入り方が違うだけでこんなにも見せる世界が違うのかと、わかっていたはずなのに驚く。
左手下に、駅のホームが見えて、中華街行の列車が入電してきたのが見える。
その上階には吹き抜けに迫り出したカフェテラス。座席に彼女がいないか、少し目を凝らしてしまう自分に気が付き「期待するな、自分」と戒めた。
改札階に辿り着き、このまま赤レンガだとか山下公園とかを目指してやってくるカップル達に巻き込まれる前に東京へ帰ろうかと思ったが、出来心で改札を素通りし、みなとみらい駅と直結しているマークイズみなとみらい側に足を運んだ。
姿を見かけた驚きと、指輪をしていたかも知れない、という事実をまだ飲み込めていなくて、このまま帰っても悶々とするだけな気がして、未開の新しい場所に足を踏み入れてそれらを紛らわそうとしている。
幸いマークイズみなとみらいはかなり大規模な商業施設で、オフィス移転とともにみなとみらいに引っ越してきた杏奈や匠が「なんでも揃う」と盛り上がっていたので、情報量で気を紛らわすには十分なんじゃないかと思った。
近づくにつれて黒色のレンガ調の柱や壁が、みなとみらい駅とはまた違った洗練の様子を見せる。
入口近くに本屋とチェーン店のカフェがドッキングした施設があり、最近電子書籍しか見ていないし、まずは本屋にでも入ってみようかと思い立つ。
僕自身、モノが増えるのが嫌で本は基本的に電子書籍だけれど、本屋に入って、並べられている本の表紙をザッピングするのは、新しい発見があって面白い。
斜陽産業だと言われて久しい印刷・出版業界の、一番顧客に近い場である本屋もやはりどんどん閉業を迫られる世の中だが、それでも本屋に固執する「変わり者」が一定数いる。
本屋にプラスの要素を付加して、様々な工夫を凝らしている本屋の変わり者が、限られた資金で入荷する本と、それを限られた空間に並べる並べ方に込める想いを感じ取り、それを読み解くのもまた好きだ。
そんなことを考えながら本屋に足を進めていると、併設カフェの奥のテーブル席に先ほど見かけた、白いシャツにポニーテールの彼女の姿があるのを見つけた。
ーー流石に、運命じゃないか?
今日2度目の脈拍が上がる瞬間。
音が出ると恥ずかしいと思って、咄嗟にアップルウォッチの音を消音にした。
ちょうど視界を遮るように、手前のテーブル席の仕切りが立っていて、向かいに誰かが座っているのかが見えなかった。
いや、見えなくてよかったかも知れない。
一旦レンガに囲まれたエントランスに戻り、大きく深呼吸をする。
ーー入るか否か、入って僕は落ち込まないか。
僕は心を硬い鋼でぐるりと取り囲んでいると、何かの拍子でひとたび心をぐにゃりと変形させてしまうと、そう簡単に元の形には戻せない人間であることを知っている。
だからこそ毎日をできるだけいつも通りに、繰り返しながら過ごしてきた。
ーーまだ、引き返せる。
彼女にパートナーがいる現実を知るよりは、知らないまま「いるのかも知れない」くらいに思って、忘れるのもいいんじゃないかとも思った。
最近突然結婚を報告してくる知人達が皆が口にするようになった「何気ない幸せ」って、そういうことなんじゃないだろうか。
そもそも、毎週金曜日の電車だって、あの時間に乗って出勤しなきゃいけないわけじゃない。
出社時間に余裕を見て乗車しているので、何本か後ろにずらせば、もう彼女には会わなくて済むのだ。
頭ではそう思っているのに、どうしてもその場から立ち去ることができない自分に嫌気がさす。
そして一方で「そもそも、このまま帰っても悶々とするだけだと思ってここに来てるんだから、はっきりさせて帰った方がいいのでは?」という、理性と合理性の仮面を被った自分が僕の背中をぐいぐいと店内に押していく。
結局人間というのは、自分の都合に合わせてしか物事を判断することができないと思う。
これは、僕に課せられた「任務」なんだ。
そう思って、再び店内へと足を進めた。
ファッション誌とか、経済誌とかそういうものの棚をみようかと思ったのに、どういうわけか人文学の棚に向かってしまった。
成人向けの棚にいるように見られないようにだけしたいと意識をしすぎた結果、別に全く読む気もなかった小説を手に取った。
書店側に回ると、彼女が座っている席がよく見えた。二人がけで、前の席には今朝彼女がもっていたハンドバッグが置いてあった。
デートではなかったようだ。少なくとも、この駅では。
安心した途端、自分がまるでストーカーのようなことをしている気がしてきて、自己嫌悪にと陥る。
そもそも、こんな無計画な行動に出ていること自体が、理性を欠いているのではないだろうか。
そう思いながらも、僕はもう一つ確認しなければいけないことがあった。
右手の指輪だ。
書店からの距離ではやはり見えず、本を購入して、カフェに入店した。
彼女は本を読んでいた。
文庫本サイズの書籍にはブックカバーがされていて、何の本を読んでいるのかはわからなかった。
僕もアイスコーヒーを注文して、長机のテーブル席についた。
この距離なら、確認できそうだ。
彼女は左側をカウンター席に向けているので、右手を見るには、何かしらの動きがないと見えない状況だった。
そもそも姿を見つけて店に入ったのでも自分の許容範囲を超えているのに、相手をじっと観察するなんてなかなかできない。
まずは買ってきた本でも読んでみようと、別に買う予定もなかったミステリー小説を開いた。
字を読みはじめると止まらない癖がある。物語の中で人が1人殺されたところで我に帰り、時計を見ると心拍数の上昇の感知から30分経っていていることに気づく。
彼女はまだいるのか?さっきまで自己嫌悪に陥っていたのに、咄嗟に立ち上がってしまって、周りの人にチラッと横目で見られる。
彼女も文字を読み出すと、周りと世界が切り離されるタイプだろうか。こちらの方はチラリとも目もくれず、右手で机のコーヒーを探している。
指輪が見えた。
反動でじっと見つめてしまう。
遠目から見るとシンプルにも見えたが、近くで見ると、イエローゴールドに小さな淡水パールがランダムに5つほどセッティングされているファッションリング。
ファッションにルールはないので可能性は否定仕切れないけれど、おそらく誰かとの関係性に責任を持つようなリングではなさそうな気がする。
「心拍数が上がっています」
座席に座る冷静さを取り戻す前に、アップルウォッチに通知が来て、自分が取り乱していることを数値で突きつけられ、更にパニックになる。
いてもたってもいられなくなって、そのまま飲みかけのアイスコーヒーを片付けて逃げるように店を後にした。
落とし物
日曜日は家で内省し、その翌週はあまり仕事に集中できなかった気がする。
金曜日、いつもの電車に乗って、いつものように彼女とすれ違う。
下手に休日の姿を垣間見てしまってたせいで、色々なことが気になり始めた。どこから来てて、何の仕事をしていて、何が好きなんだろう。
そんなことを考えていたら、次の週もその次の週も、土曜日にみなとみらいにきてしまった。
僕は物事を習慣化するのが得意だと思う。否、融通が効きづらい一面があるとも言える。
それは彼女も同じのようで、やはり土曜日はいつもこのカフェに来るのが習慣になっているようだった。
ほとんど同じ時間にエスカレーターに乗ってくるので、僕がエスカレーターに乗らずに地下のブックカフェに向かえば、僕が先に入店することになった。
最初こそ自己嫌悪していたけれど、少しずつ慣れてきた自分が恐ろしくもあった。ストーカーと言われる人達は、こうやって倫理観を少しずつ自分の都合に合わせてずらして行くのかも知れない。
彼女の様子を見たい、という気持ちもあったが、目の前に本を持ってくると、どうしても読んでしまう。
読むスピードも遅くないので、すでに1冊目のミステリーは犯人も自害して物語の結末を迎え、二冊目でも何人か殺されたところまで来ている。
久々に物理の本を読む習慣ができて、これはこれで、土曜の朝活としては健全なんじゃないか、なんて言い訳を自分にする。
彼女もいつも、朝からコーヒーを飲んでいていた。
11時になると店を出て、改札側、すなわちいつもすれ違うエレベーター側に向かっていく。
そのまま電車に乗っているのか、エスカレーターを登って別の場所に帰っているのかも知れない。
こうやって、僕の中で彼女に関する憶測だけが、どんどん増えていく。
今日も、11時前にテーブルの上のグラスと皿をトレイに乗せ、紙ナプキンでテーブルを拭きあげ始めた。小説の世界から引き戻される。
土曜日は髪の毛を後ろでポニーテールにするのもお決まりのようだった。
揺れるポニーテールを眺めながら、僕ももう少し小説を読み進めてから店を出ようと視線を下にやると、彼女がいた席の下に、ハンカチが落ちているのに気づいた。
あたりを見まわし、誰も気づいていなさそうなので、座席まで歩みを進めて拾おうとして、手が止まる。
ネイビーとブラックの太い格子模様。ラベルにはTAKEO KIKUCHIの文字。
一般的には男物と言われるアイテムで、好みで使ったってなんら問題はないが、普段の彼女のファッションやメイク、アクセサリーのラインナップからは想像がつかないセレクトだった。
ーー本当にあの人が落としたハンカチか?
でも、あの席に座っていたのは彼女しかいなくて、来た時には落ちてなかったと思う。
頭で考えながらも、落とし物を拾って相手に届けるという、小さい頃から刷り込まれた道徳観と倫理観が、僕にハンカチを拾わせた。
出勤日でもないので荷物は最小限、貴重品や情報漏洩の危険性につながるようなものも座席に置き忘れていないことも反射的に確認しながら、店を出た彼女を追いかける。
左手に握った読みかけの小説は、読んでいるページに親指を挟んだまま持ち出した。
店を出てすぐに気づいたこともあり、彼女はまだそんなに遠くに行っていなくて、店のすぐそばに彼女の背中が見えた。
「あの、ハンカチ音してませんか」
そういえば名前を知らないな、とこの時思った。
揺れるポニーテールが遠心力に揺られながら、目を大きく見開いた彼女がこちらに振り向いた。
「あ……!」
驚いたままの顔でハンドバッグの中を探り、確かに自分が落としたものだと確信したようで、「わあ、すみません、ありがとうございます」と彼女が答えながら近づいてきて、心拍数がまた上がる。
初めて、声を聞いた。
ハンカチを受け取る白い手を、もう一度しっかり確認する。
指輪はやっぱりしていない。
先日ファッションとして指輪をしていたのを見ると、指輪が嫌いなわけではなさそうだ。
大人になったらペアリングなんてものはしないかも知れない。
じゃあこの、きっと彼女の趣味ではなさそうなハンカチはなんだ?拾ったのか?
コミュニケーションが今の会話だけ故に、彼女という存在を模る「点の数」と「線の数」のバランスが悪すぎる。
もしかして……女装が趣味の、男性?
増えすぎた点を都合よく無理矢理線で繋剛とした結果、昨今ボーダレスの時代も相まって、思考がどこまでも飛躍する。
かといって、名前も知らないのに、今日初めて声を聞いたのに、自分の中に明確な線を増やしたいからと、急に「恋愛対象は男性ですか」なんて聞くのも失礼極まりないと思うので、何も聞けずにそのままハンカチを手渡した。
特にそこから会話が発展するわけでもなく、彼女の「ありがとうございます」を聞いて後ろ姿を見送る。
カフェに戻ってくると、座席に置いてあった空のグラスが片付けられていて、別の客が座っていた。
左手に読みかけの本を持ったまま出てしまったせいで、座席に座っている証拠が何もなく、別の人に取られてしまったようだった。
店員がちらりとこちらを一瞥した。
街の純喫茶でもあるまい、回転率が重要なこの立地で、僕の席が僕の席であり続ける訳もない。
注文し直して別の席に座ろうかとも思ったが、今日はもういいかと思い、左手の小説を閉じて店を後にした。
誤解
7月になると僕の土曜日のみなとみらい通いは完全に習慣となっていた。
6月は祝日がなかったけれど、7月は祝日がある。
土曜日以外の曜日はどうなんだろうと、月曜日の海の日にもみなとみらいに来てしまった。
差し詰め海の日とみなとみらい駅はとても相性がいいんじゃないだろうか、なんて思う。
いつも通り改札を出て、オフィスとは反対側に曲がり、カフェでアイスコーヒーを注文し座席につくと、想定外の聞き慣れた声がした。
「あれ、高橋くんじゃない。なんでこんなとこいるの?」
奥の本屋から、ルルレモンのセットアップを着た、運動着のようでいて、でも街に溶け込むような姿をした杏奈が声をかけてきて、杏奈よりも驚いた。
考えてみればそりゃそうである。オフィス移転と共にみなとみらいに引っ越してきた社内の人間たちにしたらここがホームタウンにもなっているのであり、休日にでてこれば遭遇することはそんなに珍しいことでもない。逆に今まで気づかなかった自分に驚いた。
「オフィスに忘れ物しちゃって。取りに来たついでに本屋に寄ってみたんだ」と、数週間前の自分を思い出して苦し紛れの嘘をついた。
「忘れ物なんて珍しいね」と言いつつ「お邪魔じゃなかったら、横座ってもいいかな?」との丁寧なお伺いに、僕の苦し紛れの言い訳をそんなに信じていなさそうなことは理解した。
杏奈はウォーキング帰りで、この後開店時間を迎えるマークイズの地下の食料品売り場で買い物をして帰ろうと思っていたらしい。
杏奈の仕事に対する真面目さ、負けん気、機敏さ、そして情熱からすると、空いた時間で、本屋ならではの情報も定期的に仕入れに来ているのだろう。
彼女は今の会社に勤め続ければ、きっと社内初の女性役員になると思う。
「ここの食品売り場、結構いい食材が揃ってて。あ、知ってる?この上、庭園になってて野菜育ててるんだよ。そこのサラダなんかも時々売ってるんだよねえ」と教えてくれた。
彼女のはつらつとした様子に釣られて、自然と笑顔になる。
杏奈が一生懸命みなとみらいの魅力を教えてくれるのをうんうん聞いている視界の端で、いつもの彼女のポニーテールが揺れた気がした。
ギュッと気を引き締める。
杏奈は聡いところがある。彼女のことを目で追ったりすると、一発で勘付かれる可能性があった。杏奈に知られるとまずいわけではないけれど、少なくとも僕に好意を持ってくれていることはおそらく間違いはなくて、そして目の前で今僕に話しかけてくれている。
このタイミングで別の女性に目を向けるのは、僕の正義に反する気がして、今日は一切彼女の方には目線をやらないでおこうと決めた。
1時間くらい、オフィスやチャットではできない会社の話で盛り上がった。
こういう時間を持つと、コロナ禍において勢いよく仕事の場のオンライン化を進めた結果、オフラインへの揺り戻されている理由がわかる気がする。
同じ「そうだよね」にも、間の取り方、声色のトーン、小さな表情の差。伝わる情報量が圧倒的だった。
杏奈の広報としての技術力もあるのだろう。僕自身、自分がこんなことを考えていたのか、という気付きまであって、シンプルに話していて楽しかった。
そして、杏奈が改めて、僕のことをもっと知りたいと思ってくれていることもよく伝わった。
「あ、もうすぐオープンだ」と杏奈が時計を見ながら言った。
野菜専門店に宮崎県産のマンゴーが数量限定で特価で入荷するらしく、それを手に入れたいらしかった。
「ごめんね、1人の時間にお邪魔しちゃって」
どうやら誰かと待ち合わせではなさそうだと思って貰えたようだった。否、待ち合わせどころか、名前も知らない女性の様子を見に毎週来ているだなんて、口が裂けても杏奈には言えない。
テーブルの上を片付けながら、杏奈がじっと僕の顔を見つめる。
「なんか、休みの日に会えるなんてラッキー。ちょっと嬉しい」
最後に杏奈はこう付け加えた。
愛嬌とかそういうのを抜きにして、相手に素直に好意を伝えられるのは、日頃から相応の、自信を持てる生活を培ってきているからだ。
僕にももっと先を思い描ける力があれば、杏奈の好意を受け入れていたのかも知れない。
杏奈を見送って、時計を見ると、まだ10:30だった。
店内を見回すと、来店したはずの彼女がいなくなっていた。
心がざらつく。
さっき見た気がしたポニーテールは、気のせいだったのだろうか。
今日こそ誰かと予定があったんだろうか。
この前声をかけてしまって、気持ち悪がられただろうか。
また僕の中で、彼女に関する点が無数に増えて、心が塗りつぶされていくのを感じた。
その週の金曜日。
この前カフェで杏奈と遭遇して、「彼女」を見かけなかったのは祝日の月曜日だったので、みなとみらいに行く間隔はいつもより2日も短いはずなのに、今回はとても長く感じた。
みなとみらい駅に着いた時、外が曇っていたせいか、いつもより天井が低く感じた。
余計なことを考えないようにしながら、いつもの長いエスカレーターに乗る。
石板がいつも輝いて見えるのは、空の光を受け止めてるからだと気付く。いつもよりも黒々としていて、得体の知れない不気味さを感じる。
今朝彼女は少し早めにエスカレーターに乗ったようだった。
かなり下の方で、いつも通りのファッションとアクセサリー、そして平日仕様の下ろした髪。
全部がいつも通りだから、初めて顔を下に向け、スマートフォンを見ているという、いつもと違う点に、すぐに気がついた。
すれ違ったのち、後ろ姿を凝視する。
スマートフォンから顔を上げない彼女を見て、点で塗りつぶされた心に、更に点を重ね、穴が空いた間隔があった。
もう、限界だ。
流石にエスカレーターを逆走することはできず、右側を駆け上って、頂点に到達し、すぐさま折り返す。
僕がエスカレーターを上りきる間にエスカレーターから降りていた彼女は、すでにアトリウム周辺に姿はなく、改札の方に向かっていたようだった。
エスカレーターをできるだけ早足で降りながら、どこに行けば彼女に会えるのか、思考を巡らせる。
勝手に電車に乗ってどこかに通勤していると思っていたけれど、実は主婦で、いつものカフェにいる可能性もある。そもそも、通り抜けていて電車に乗っていない可能性だってある。
一つずつ可能性を比較しようかと思ったが、そんな時間も余裕もない。
勘だけを頼りに、さっき潜ったばかりの改札を潜り抜ける。
みなとみらいのホームは1つなので、方面は気にしなくていい。ただ、ホームのどのあたりにいるのかは検討をつけなきゃいけない。
改札を抜けたところで5秒ほど立ち止まり、右折した。
きっと。
きっと、ホームからみなとみらい駅の吹き抜けを見渡せる側のホームなんじゃないだろうか。
ただの予測なのに、なんとなく確信があった。
改札階のエスカレーターを降り切ってあたりを見渡すと、渋谷方面の電車の列に彼女が並んでいるのを見つけた。
もうスマートフォンはカバンにしまっているようで、手に持っていなかった。
「あの!」
結構人がいて、色んな人が振り向くが、僕の視線が彼女にだけ向けられていることは誰が見ても一目瞭然だった。
彼女もこちらを振り向き、ハンカチを渡した時よりも更に驚いた顔をしていて、僕はこんな状況の中、そんな顔も絵画みたいだと思った。
朝、みなとみらいについた時には耳に入らなかったカモメの鳴き声が耳に入ってくる。
ーー聞かなければいけないことが、多すぎる。
名前はなんと言うのか、みなとみらいに住んでいるのか、ここから毎朝どこに行くのか。休みの日は何をして過ごしているのか、この前おとしたハンカチは誰のものなのか、今パートナーはいるのか、いない場合、恋愛対象は男性なのか。どうしてこの前はいつもの11時までカフェにいなくて、今日はいつもとは違って、スマートフォンを見て下を向いていたのか。
断片的にしか知らない膨大な情報の破片のせいで、立てた仮説が多すぎる。
具体的な質問は何を聞いても相手に不信感しか与えないと思って、咄嗟に自分のポケットからスマートフォンを取り出しながら、「今度から走って追いかけなくても良いように、連絡先教えてもらえませんか」と、結局突拍子もない提案をしてしまった。
入電のアナウンスにかき消されないよう更に大きな声で話しかけたものだから、前に並んでいたサラリーマンらしき中年男性にチラリとこちらを見られる。
彼女が、というか普通の人がこんな突拍子もないことを聞かれて、すぐさまLINEの画面を出せるとは思わなかったので、話しながら、自分のLINEのQRコードを出した。
「これ、写真撮ってください。写真さえあればどうにかできると思うんで」
そういったのちに、別に彼女が全く僕に関心がない可能性を考えていなかったと思って
「あ、もし良かったら、って感じで大丈夫です」
と付け加えた。
彼女はまた驚いた顔のまま、僕のLINEのQRコードの写真を撮ってくれた。
近くにいると、ウッディな香りがした。多分、ロエベのコバルトだな、と思った。
彼女が乗り込んだ渋谷行の電車を見送り、ドッと疲れが出て、フレックスの出勤時間を8:30から10:00に変更した。
平日には行ったことがないマークイズ側のカフェに行くと、テイクアウトの列はあったものの、店内で飲食している人はそんなにいなかった。ここもやはり、平日と休日で全部が違う街なんだと思った。
短時間の間に一気に頭を使った気がして、いつもはアイスコーヒー単品だけど、ホワイトカフェモカとチョコレートケーキを注文した。
注文した後で、モーニングセットとかにしてもよかったのに、と早々に後悔する。やはり頭が疲弊しているらしい。
食べすすめながら「やっぱり甘すぎた」と後悔していると、スマホが震えた。
「mio」と表示された名前にドキッとする。
「未央です」
すみませんでしたとも、嬉しいです、ともない、自己紹介だけの文面で、彼女が何を考えているのかは推し測れないが、どちらにせよ、連絡はしていいと思ってくれたのかな、と思う。
いや、もしかしたら追いかけられた恐怖から連絡しないともっと大変な状況になると思われたのかもしれない。
でも、下の名前で送ってきたということは、関係値のラベルとしては、オフィシャルというよりは、プライベートなラベリングをしてくれているのではないか、と思いながら「連絡ありがとうございます、今日は急に声かけてしまってごめんなさい。奏斗と言います」と返事を打った。
アイコンが写真で、思わずタップする。
明らかにカメラマンが撮影した質感の、誰かの横で笑っているのを自分の顔だけくり抜いているような感じに、少し晴れた気がした視界に、またもやがかかる。
チョコレートケーキを食べている間に自分の感情が行ったりきたりしているのを感じて、疲れを回復しながらまた疲れている自分に苦笑する。
探り合い
10時近くになると雲間から晴れ間が見えていた。海辺の天気は変わりやすい。
普段あまり糖質を摂取しないようにしているせいか、純粋な糖分を一気に摂取した眠気のようなものを感じながらオフィスに出勤したら、ロビーに杏奈がいた。
「おはよう、10時出勤珍しいね」
僕はあまり日頃のルーティーンを崩したくないので、匠みたいに前日の予定で出勤時間を変えるなんてことはするタイプではない。
「昨日夜遅くて」と言った後、勘繰られるかもと思い「仕事で」と付け加えた。
「お疲れ様、大変だね」と杏奈があまり感情のこもっていない声色で返事したのち、じっとこちらを見てくる。
別に何か約束していたわけでもないから罪悪感を感じる必要はないのだけれど、なんだか悪いことをした気になって「どうかした?」と答えると、急に杏奈の手が顔に伸びてきて、流石にたじろぐ。
少し微笑みながら、ピンク色のシンプルなネイルを施した指で口元を拭ったかと思うと、「口の横に、チョコレートついてるよ」と教えてくれた。
ハッとして、スマホの画面で自分の顔を確認する。
「甘いものそんなに好きじゃないと思ってたんだけど、珍しいね」
と、言って、返事を待たないまま杏奈は管理部の島に戻っていった。
最近理性的な行動ができていない自分にも、そしてそれを杏奈に見透かされてそうな気がするのも、全部が今まで通りじゃない気がする。
オフィスの大きな窓から、だいぶ晴れ間が広がったいつもと同じはずのみなとみらいの街を眺めて、大きくため息をついた。
「お前のそういうところが嫌いなんだよ!ばーーか!」
その日の夜、匠からLINEで送られてきた。
通知を長押しして一旦既読をつけないままに内容を確認しながら、社内チャットツールとプライベートの連絡ツールを使い分けるということはできるんだな、と思った。
さしあたり、杏奈と飲んでるんだろう。普段こそそんな話はしないけれど、最近の僕の様子から、彼女でもできたのかと思って、匠に探りを入れたのではないだろうか。
匠も匠で、ひとたび合コンの幹事となれば、やれキャビンアテンダントだの、アナウンサーだのと職業レッテルで女性を判断しているのかと思えば、なんだかんだ、相手のことをちゃんと見ていると思う。
その上で杏奈に好意があるのは、やっぱり見る目もあると思う。
杏奈が入社してきてすぐに興味があって周り構わず食事に誘っていたけど、一線を越えさせない杏奈に上手く丸めくるめられて、今はだいぶ落ち着いて、じっくり腰を据えて杏奈に好意を寄せている気がする。
だからこそ杏奈が僕に興味があることにも、早々に気づいていて「お前溝口さんのこと気になったりしないのか」なんて、わかりやすすぎる確認を入れてきたりするし、なかなか特定の相手を見つけようとしない僕を合コンに誘って、相手ができるように仕向けたりもする。
そんなことをしているくせに、いざ杏奈から「高橋くんって、彼女できた?」なんて聞かれたら、杏奈に感情移入してしまって、僕に苦言の一言でも言わないと気が済まない。
本人達に直接確認した訳じゃないけれど、きっとそうだと思う。そしてそんなまっすぐなところが、匠のいいところだと思う。
少し考えてLINEを開いて「なんのことだよ笑」と返信しておき、明日朝起きた時に匠が罪悪感に苛まれないようにしておく。
送ってすぐに通知音が鳴り「匠のやつ、まだ酔い潰れてなかったのか」と言いながらスマホの画面をタップすると、未央さんからの「はい、明日もカフェ行きます」という返事で、思わず姿勢を正す。
今朝は予定外の出来事続きで出勤時間を10時に変更したのち、杏奈にあっさり何かあったことを見抜かれたことにも動揺して、仕事の段取りが狂い、日中は連絡ができなかった。
帰宅時間になってスマホを確認すると、やたら写実的なアライグマみたいなキャラクターの「よろしくお願いします」というスタンプが返ってきていた。
スタンプの突っ込んで距離を詰めるべきなのかもわからず、一旦スタンプのことはさておいて「明日もみなとみらいのカフェ行く予定ですか?」と返事してみたのだった。
来ても来なくても、僕は行くつもりだった。
パートナーがいるなら状況を聞いて、相手の為にならないのなら諦める。もし女性じゃなかったら、一応恋愛対象を聞いてみる。そんな核心まで行けるかわからないが、明日は行かなきゃいけない気がしていて、いつも仕事のために使っている金曜日の夜だが、早く帰ってきたのだ。
明日も、彼女が、未央さん来る。
初めての、お互いがお互いを認識した上での土曜日のカフェ。
僕が彼女、改め、未央さんにただならぬ関心があることは、未央さんにも伝わってるだろう。その上で、明日は何から話そうかと思案しながら、アラームをセットした。
あとがき
文字数:
21372文字!多分!
ひとこと:
noteに書いたエッセイをtiktokにスクショしてアップしてたら結構多くの方から「小説書いてみてほしい」と言われて、この機会に、初めて見よう見まねで挑戦してみました。が、2万文字ってすごいですね、なめてました
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