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ちゃんと病

大人になるにかけて、いつからか「ちゃんとしなければ」という呪縛に取り憑かれていた。それは自分以外を除く大多数の人間がそうだろう。
子供の頃に感覚的に行動していた時期があって、やがて概念や道徳や社会の常識というものを刷り込まれ教え込まれてできるだけレールを踏み外さないような行動を強いられる。
社会という場所へ放り出され、その自分ひとりでは制御不能で一見ただただ順応するしかないように見える世界で自分らしく生き抜こうとするのはとても難しい。大型の撹拌機みたいなもの飲み込まれ同じ色に染められる中、その大きな波から逃れようと壁をよじ登るにも体力がいる。
しかしわざわざ脱却する必要もなく、自分なりに波をうまく利用してぷかぷか浮かんでいられる自分なりの孤島をつくって生きてくくらいがちょうどいい。

ビートたけしがある本で書いていた「ガキの感性」というものが一番大事な気がする。長いものに巻かれ、「こうあらねばならぬ」だとか、「ちゃんとしなければ」なんてもので自分を苦しめる必要なんかなくて、自分の生きたいように生きればいい。ただその「生きたいように」というものを明確にするには常に感覚をビンビンに張ってないといけない。
やれ書物を読むなり映画を観るなり気になるスポットを歩いてみるなり。


もしかしたら自分が求めてるものはまだこの
世で言語化されてないものかもしれない。その言語化されてなさを追いかけてってなんかおもしろいものを見つけることが出来たら最高だ。それは他人がつけた100点でなく自分が見つけた100点だ。

ちゃんとなんかせんでいい。人に言われた生き方しなくていい。やりたいようにやればいい。



YouTubeのニートtokyoのぼく脳のインタビュー動画の中で、病床に伏せているおじいちゃんに自分がなにをしてるか知ってもらいたくて自分で描いてる漫画を見せたら、「これは綿棒かなにかで書いてるのか?」と言い残して死んでいったという話がめちゃくちゃおもしろかった。ぼく脳って貫いてるなあ。貫いてる人ってかっけえなあ、なんてことを思った。

「月曜から夜ふかし」なんかに出てくるさまざまな人たちもそれぞれの感性で、それぞれの世界に生きている。その独自性というか。「そんな風にしか生きられなかった人たち」と「そういう風に生きる道を選んだ人たち」の2パターンいると思っていて、それぞれの覚悟というか、クレヨンで描いたようなザラつき感がとても素晴らしいし、開き直る事は自分へ開いていく作業でもあるんだなあなどと。自分の声に耳を傾けて、世の中の刷り込みで骨の髄まで染み込んでしまった「ちゃんと」から抜け出すのはなかなか大変だ。
ただ「一度立ち止まってみる勇気」みたいなものが要所要所で必要で、ぼーっと空を見たり風を聞いたり、あらゆる大きな流れとは別の自然のスピードに合わせてあげる事で気づきを得られる。

自分の声に耳を傾けるといってもそれさえできないというか、もはや自分の声すら聞こえない状態になってる場合もあるし、そうなるとなかなか末期なので、まずは逃げろ逃げろ逃げろ、です。今いちばん何をしたくないか。それに気づいたらまずはそれを辞めること。即座に辞める。ただ次のステップへ体重移動する為の準備は必要。少なくとも自分は逃げてきた結果がとてもいい現状というか、完全ではないけど少しずつ良くなってるしその判断が間違いではなかったと心から思えるので、あとは時間の経過を待って改めて引いた視野を持つ余裕が出来た時に振り返ってみること。「ああこれでよかった」って思えるから。

風のように舞って星のように笑え。
風のように舞って星のように笑え。
風のように舞って星のように笑え。

自由になあれ。

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