
お金をもらうこと と 家族 と 通り一遍
何かでお金をもらう。
そこには才能が関係しているのでは?と考える。
才能とはやはり、元々あったんではないの?
だから諦めたほうがいい場合もあるのでは?
そんなことを考えていたとき、とある芸人さんのNYの日記のnoteを読む。
もちろんいわいる才能だらけなのだろうけれども、日々の過ごし方が、「元々あったもの」と片付けるには易すぎると思わせられる。
よく、まずは真似ると良い、と聞く。真似てそれとはならずとも、間違いなく何かは得られるだろうと思わせられる。
芸人さんで脱線。
別の芸人さんのこと。
昔とある芸人さんと、その人の番組のファンの人たちと友人、が公式のオフ会に行ったことがあったのを思い出す。
友人は本当にその人はいい人だったと印象を語っていた。友人は、通り一遍の「いい」を使わない人だ。
数年後に、その芸人さんは、家族の事情なんかのプライベートのなにやらで、雑誌におもしろおかしく書かれていた。
それが事実かはわからないけれども、その芸人さんが誰かに何か悪いことをしてやろう、としての話とは思わなかった。
特に家族などに関してはそうだと思う方だ。ソトからみれば良いようにみえる家族のメンバーでも、メンバー内では違った表情をみせる、なんてことはザラにある。
なんとなく「家族」とは円満であるのが「いい」という理想の眼鏡でみるなら、それこそ通り一遍の「いい」だと思う。
家族に限らず、ヒトの集まりとはそのような一面があると思う。
大人には仲が「いい」風にみえる子どもの集団でも、内では普通どころか、ひどくイジメが在るなんてこともあるだろう。
一致団結している国、、もいよいよ顔が歪んでくる―。
一つが固まって丸くあろうなんて、何でできているかはわからないけれどもイビツに感じる。
わたしがイビツなせいかもしれないが。
そのせいか、最終的には、自分で見聞き等したものを信じるようになっている。見聞きや、匂い、実際に話す、信用のおける人の話を聴いての感覚、など。
その後、その芸人さんは多数のオファーに対応できず一部を断るほどに活躍されているようなのを観る。まったくの他人事だけれどもシンプルに良かったなと思う。
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