第7回 【ワカモノ/youthとは何だろうか】ガチに気候変動に取り組むための”オトナ”の作戦会議
今回の作戦会議は、前回の振り返りから始まりました。
ひとつは、「ユース」という言葉について。
前回、20代前半の方がこんなことを言いました。「ここには年齢がユースじゃない人いるのに、なぜユースの会議なのか」。その一方で、30代の方が「参加する前は“オトナ”だったけれど、参加するうちにどうやら自分は“ユース”になったようだ」と言う場面があったのです。
それゆえに、「ユースってなんだっけ」という混乱を生んだのが前回でした。
ユースってなんなのでしょうか。
今回はそれについての、私たちのお話の記録を残しておきます。
…
思えば、今回に限らず、こんな場面に出くわした方は多いのではないでしょうか。
「若者こそが未来の種だ。だから、大人は若者を守り支援するべきだ」
たしかに、若者は構造的に弱者の立場に置かれやすく、機会の不公平を是正するためにも、その考え方は大切です。
しかし、この、いわば「若者支援すべきパターン」があまりに多く語られると、その裏で、ある思い込みをうむことが多いのではないかと思うことがあります。
たとえば、70代のおばあちゃんは未来の種にはならない」、つまり、「年齢が若い人がアクターであり、それ以外はサポーター」ということです。これらは、なんだか知らないうちに、集団の中に蔓延してパターンとして定着していきます。「30代になったら、自分はユースじゃないから、若者の支援に回るべきだ」と思う方がもしいれば、その思い込みが裏で、本来なら発揮されてよいはずの可能性を制限しているかもしれません。
この「若者支援すべきパターン」が、様々な取組で分断をつくっているように感じることがあります。 その分断は、社会的な取組の主体と責任を曖昧にさせ、実行力を削いでしまうのかもしれません。
たとえば、大人からすれば、「私は若者をサポートしてあげている。自分が矢面に立って、責任を取ってアクションをする必要はない。」。もしあなたがこう思うのであれば、未来をよりよいものにする責任を若者たちに任せていませんか。もっと自分の力を活かして、第一線で輝ける可能性があるのではないですか。
一方で、若者からすると、「大人が守ってくれる限りでチャレンジしよう。大人が責任をとってくれるし、手綱を引いてくれる。」。もしあなたがこう思うのであれば、未来をよりよいものにする責任を大人たちに任せていませんか。もっと自分の力を活かして、自分たちの覚悟で輝ける可能性があるのではないですか。
もしかしたら、大人と若者という言葉は、そのレッテルを貼られたもの同士が、お互いに人任せになりやすい構図を引き起こすことがあるのかもしれません。「もうオトナだから」と「まだワカモノだから」が繰り返されていきます。
そして、取り組みは進まず、解決されるべき課題は、永遠に「未来の若者」へと引き継がれていくのかもしれません。
そこで、今回は「ユース」という言葉を、次の意味で捉え直してみることが呼びかけられました。
・「自分が若いと思っていて、その価値をわかっている人」
・「young enough to do/be something(何かをするのに十分な若さがあるということ)」
この定義で考えると、年齢が若いかどうかは関係がありません。10代でもオジサンになりうるし、70代でもユースになりえます。
個人的には、そもそも「ユース」「若者」という分断を起こしやすい言葉で、人にレッテルを貼るのは、もうやめたらどうだろうか、と考えました。
あなたは、どうお考えですか。
……
可能性を制限する思い込み(「リミティング・ビリーフ」)は、私たちがよかれと思ってやることによって、かえって自分の首を絞めてしまうような結果を繰り返し引き起こします。
また、これらは、単一ではなく、いつくかが連鎖して起きているように見えることがあります。
特に、「若者」というトピックはそれらを発動させやすいように思いました。
たとえば、これはこのワークショップで起きたことではありませんが、大人が自分の自尊心を癒したり、承認欲求を満たすために“若者支援”をしてしまっているのではないか、聞きたくなるようことがパターンとして見られることがあります。
それと同時に、若者は、自分で行動の結果責任を引き受けるのを避けるために大人の承認を得てからではないと動かないようにしているのではないか、と見えるパターンがあります。
このようなパターンが組み合わさる時、オトナとワカモノが互いに承認を求めることで負のシナジー効果を引き起こしていることがあります。
私たちは本当はもっと自分で力でできる力を持っているのに、自分発で動かなくていいという言い訳をつい繰り返しやすくなってしまいます。