第6-2回 【他責と自責は、けっきょく同じこと?】ガチに気候変動に取り組むための”ユース”の作戦会議
こちらは、気持ちのいい朝の北海道大学です。
この日は、オフィシャルにはゼミ・ワークショップの日ではありません。しかし、自発的に手を挙げたチームで集まりました。
目的は、前回のワークショップで出てきた成果物に一手間をかけて、このコミュニティにとって役立つものにすることです。
私たちは、インパクトのある気候変動の取組を進めていくために、単発・個人のアクションだけでなく、みんなで継続してアクションしやすい関係、「アクトローカリーな関係」をつくることを狙っています。そのお誘いをする時に、私たちの手や心に携えて、役立つ何かをつくれないか、ということが今回の議題でした。
チームで2時間ほど頭をひねりました。途中で、「まとめるのは大変ではないか」「役所への要望文をつくった方がいいかも」「もう自分たちでやるからさあ、という宣言文を出した方が、やりやすいのではないか」などの声がありました。
しかし、最終的に、私たちは、チャレンジをしてみることにしました。それは、みんなで自責と他責を超えていくような「お呼びかけ文」をつくるということです。
そもそも、自責というのは、自分のせいにするということです。「私がやる」という内容で、多くは、宣言文などと呼ばれてきました。
一方で、他責というのは、誰かのせいにするということです。「誰かやって」ということで、要望文などと呼ばれています。
私たちの経験によると、組織や社会を変えていく活動においては、「他責よりも、自責」という語り方がオススメされることが多くあります。
何かを自分のせいにするということは、それを自分の影響力で変えていけるということを信じる姿勢だからです。その語られ方は、人を勇気づけて力強くさせてくれます。その視点で言えば、もしかしたら、「私たちがなんとかします!」と宣言したらかっこいいでしょう。
しかし、「私たちが気候変動をなんとかします!」は、本当に現実的でしょうか。
私たちはそうは思いません。気候変動は、みんなの参加で地域ぐるみ、国ぐるみ、世界ぐるみで活動していかなくてはならない課題だからです。
この日の話し合いで私たちが気づいたのは、「もしかしたら、自責と他責は、けっきょく同じことなのかもしれない」ということでした。
なぜなら、それはやる人とやらない人を分断してしまいがちだからです。
宣言文や要望文は星の数ほどこの世界につくられてきました。しかし、それによって社会の課題が解決できていたら、今の世界はとっくに自由で平和なはずではないでしょうか。
また、私たちの中には、これまで「まじめで、やさしくて、責任感がある人、つまり、なんでも自分のせいにする人ばかりに責任が集中して、取組が途中で息絶えてしまった」という経験をした人もいました。
「言葉が世界をつくる」とすれば、自責と他責の両方が同じ社会的な現実をつくってしまうということかもしれません。
もしかしたら、この世界には、「ねえねえ!私とあなたで一緒にやっていかない?」という、共同責任を歩んでいく道へと、みんながつい進んでしまいたくなるように、ついつんつんしたり、くすぐったりするお呼びかけの言葉やふるまいがもっと必要ではないでしょうか。
これは、「私の自責、あなたの他責から、みんなの共責へ」すすむ道へとお誘いをするということ。もしかしたら、それはより勇気や技がいる道かもしれません。なぜなら、その道を行くならば、私たちはさまざまな分断を乗り越えて、自分とは異なる他者との困難なコミュニケーションを立ち上げるという必要に迫られるからです。
それが私たちがやってみたいことです。思えば、チームにいる私たちは、「Shall we dance?」とお誘いするのが下手だったりして・・。それでも、その言葉が、様々な分断を超えて共に歩んでいくための力になることを願って、言葉を紡いていくこととしました。
ちなみに、このお呼びかけ文は、第7回に詩という形で少し披露されました。その後、「この詩を一緒につくっていきませんか」というお呼びかけがあり、チームの人数も増えました。
今後、どのような形で、どこでどのように読まれるのかはまだ決まっていませんが、乞うご期待です。