妻が死にかけて思ったこと
常位胎盤早期剥離のため、緊急帝王切開を受けた妻がICUで集中治療を受けていた2日半
「本当にもう会えないかもしれない」と本気で考えました
時系列で少し振り返ってみます
初日の午前3時半ごろ、お腹の張りと痛みがあるということで妻に起こされました
少量の出血もあったので、かかりつけの久松マタニティクリニックを受診しました それが4時過ぎ
赤ちゃんの状態をモニターしながら、6時過ぎまで妻と一緒に病院にいました
子供を残して来たので、僕は家に帰り、自分と子供の身支度をして、子供達を送り、今日の予定をすべてキャンセルしました
その合間に妻は三次救急施設であるりんくう総合医療センターへ搬送されました
急ぎでやるべきことが全て終わり、ソファに横になった瞬間、寝落ちしてしまいました
眠りに落ちた15分後、緊急の帝王切開になると決まり、病院にいる妻から電話があったんですが、僕は眠ったまま電話に出られず、さらに15分ほど経って、ようやく目覚めて電話に出ました
慌てて病院に駆けつけた時には、手術が始まっていて、まもなく赤ちゃんが取り出されました
現在、赤ちゃんの蘇生をしているということ
妻の子宮からの出血量が多く、血液凝固にも問題があり、大量の輸液を行いながら、お腹を閉じているという状況
などの説明を受けました
僕は獣医師なので、血液凝固に問題があることの重大さが分かります
妻の命の危険があるかもしれないという、予想していなかった状況を頭では理解出来ましたが、受け入れることはできませんでした
そんな中、なぜか「すぐに電話に出られなかったことを謝りたい」って無性に思ったんです
たぶん、「死」を直視することから逃避しかたったのだと後から思いました
術後、気管チューブが入ったままで、少し鎮静がかかっている妻と面会しました
辛そうでしたが、満ち溢れる生命エネルギー?のようなものを感じ、「彼女はこんなことで死ぬような人ではない」というメッセージを受け取ったように思いました
でも、それを信用していいかどうかもわからず、不安な時間が流れます
電話を枕元に置き、眠れない最初の夜が明けました
翌朝、1週間先までのスケジュール調整がひと段落し、仕事も手につかないので、前から観たかった映画「ソウルフルワールド」を観ることにしました
完全にミスチョイスでした
悲しくて仕方なくなり、一人で泣きながら観ていました
映画を観ながら妻との思い出が頭を巡りました
でも、頭を巡るのは、楽しかったディズニーやグアム旅行などの大きなイベントではなく、犬の散歩、公園で遊んだこと、家族で囲んだ食卓や何気ない会話などでした
そんな日常のシーンばかりが頭を巡りました
幸せっていうのは、日常のほんの些細な出来事の中にあるんだと気づきました
目標を立て、逆算してスケジュールを立て、未来のことで頭がいっぱいになり、すぐイライラしてしまう
この10年は、そんな「今」を大切にしない生き方をしてきたと思いました
仕事だけではなく、プライベートでも似たようなものでした
ディズニーランドに行ったら、効率的にアトラクションにたくさん乗るにはどうすればいいか?ということを考えて、うまくいかないとイライラしたり、、、という感じです
でも、未来志向や成長志向によって手に入れたものもたくさんあり、そのおかげで今があるとも思います
でも、そういう生き方を続ければ、僕が生きたい人生を生きれないと思いました
「一瞬一瞬を一大切に生きる その積み重ねが人生なのだ」
映画のメッセージと今自分に起こっていることが重なり、そう痛感しました
「内にあるものを表現し、そこから体験をし、その体験を通してまた何かを感じとる」
人生とはその繰り返し
すごくシンプルなものなのだ
僕のメンターが話していたことが、しっかりと腹落ちしました
思考は自覚的に選んで使うもの
思考に振り回されてはいけない
と言い換えることができると思います
妻が入院中のある時、こんなイメージが降りてきました
真っ黒い影のような、ゲゲゲの鬼太郎に出てくる子泣き爺のようなものが僕の後頭部にしがみついているんです
そいつがブツブツ何か言っているんです
自分から人に関わって、相手に拒絶されることが怖いから、勇気を出して行動しないことの言い訳したり、過去の失敗の正当化とかをずっとブツブツ喋っているんです
これ、自我意識または生存本能の象徴のようなものだと思いました
僕は今までこいつに乗っ取られていたと思いました
でも、その存在に気づき、見えるようになった気がします
見えてしまえば、ハンドリングはそんなに難しくなさそうです
そんなことを思いながら、自分って何なのだろう?
という問いが立ち上がりました
たぶん、未来志向が強かったこの10年は、子泣き爺のことを自分だと無自覚に認識していたように思います
僕の中にそういう一面があり、それも僕の一部なのですが、それは本体ではないと思います
そういう気づきがあり、こんなことも思いました
・たくさん求めない
・今のままで十分だ
・むしろ、今のままが最高なんだ
また、これまでの学びから、下にあげたような思想を僕は採用しており、そう在りたいと思っています
・何があっても大丈夫
・起こること、起こるタイミングはすべて最善である
・自分は生かされている
・自然の流れに身を任せればいい
でも、そういう生き方は、今の僕にはまだ無理でした
妻や子供への執着はどうしても手放せません
現実になるかもしれない「妻の死」を、自然な流れの出来事、このタイミングで起こる最善のことだと受け入れることはできませんでした
でも、それが今の自分であり、そんな自分を受け入れることはできました
聖人になったり、悟りを開く必要なんてない
それを目指すというのもなんか違いそうだ
自分らしく、今を大切に生けることができればそれでいいや
と思いました
もし、妻が生還できたら、未来のことで頭をいっぱいにせず、もっと成長しようと躍起にならず、妻と子供達と一緒に、丁寧に今を生きようと思いました
それと、相手の反応は気にせず、自分の内にあることを表現しようと思います
いつ自分の人生が終わっても良いように、授かった命を生ききりたいと思いました
未来志向、成長志向が強すぎるのは、生存本能からくる恐れの回避にすぎません
そのせいで、今を楽しめない
そんな中身のない「今」を積み重ねた人生なんて選びたくない
そう思いました
結果に固執せず、プロセスを楽しむ人生にしたいです
思考に振り回されず、自覚的に選択して、便利なツールとして「思考」を使う
今を精一杯生きる
それを積み重ね、後ろを振り返ると道が出来ている
そんな人生が理想であり、そう在りたいです
多く人に支えられて、昨日妻が退院しました
赤ちゃんはまだNICUにいますが、今のところ順調の育っています
生かしてもらった妻と、妻を失わなかった僕
今の僕たちにはこれが最善だったようです
今を生き、たくさん表現して、たくさん体験し、成長しながら人生を歩んでいきます
今回の大きな体験は、この2年ほどの学びを実体験として振り返るいい機会となりました