【過去】活動レポート「201711文禄堤」
※本レポートは2017年10月実施の活動レポートとなります。情報も2017年時点でのものとなります。
■守口という街
京阪電車で京橋から出町柳方面へ急行電車に乗り、一番最初に停車する駅が守口市駅だ。守口市は大阪市に隣接するベッドタウンで、かつては三洋電機本社があり、隣接する門真市にはパナソニック本社もあることから、それらの企業の下請け部品工場も多いという産業都市でもある。ちなみに、三洋電機本社ビル(三洋電機守口第一ビル)は現在、守口市役所の庁舎となっている。
守口の歴史は古く、江戸幕府の公称した東海道は江戸から大坂までの57次とされていたが、その57番目の宿場町とされたのが守口宿である。守口という地名の由来は所説あるが、この辺りが生駒山地の原生林の入り口だったため「森口」と呼ばれていたのが、後に「守口」に転じたという説が有力である。江戸時代には野菜の栽培が盛んで、「守口大根」を粕漬けにした「守口漬」が守口宿の名物となっていた。
■文禄堤について
東海道の宿場町として栄えた守口であるが、京都大阪間の区間の東海道は文禄堤という堤防の上を通っている。
文禄堤とは文禄2年(1598年)に豊臣秀吉が毛利輝元、小早川隆景、吉川広家の三家に命じて作らせた淀川の堤防である。この堤防の役割は2つあり、ひとつは淀川の氾濫を防ぐこと。そして、もうひとつが京都と大坂を結ぶ大動脈としての陸路という役割だ。その長さは、枚方から大坂の長柄までの約27kmとされ、淀川沿岸の町を水害から防ぎ、堤の上に通された道は、安全な交通路として重宝された。
その後、この文禄堤の上を通る京街道は東海道の一部になり、前述の通り、守口は57番目の宿場町として整備された。また、守口宿は奈良方面へ通じる奈良街道の分岐点だったこともあり、交通の要衝でもあった。そのため、多くの旅籠や茶屋が立ち並び栄えた。
■文禄堤のいま
文禄堤は度重なる淀川改修や周辺の市街地化によって次々と姿を消し、今やその痕跡が残るのは守口市駅駅前のほんの一部分だけとなってしまっている。
一方で、かつてここが文禄堤だったことを示す碑や説明書きは多く残されており、中でも、宿場町に設けられた高札場をモチーフにした守口市の説明書きは立派なもので、守口市が文禄堤を文化的、歴史的遺構として積極的に保護していこうと考えていることが伝わる。
ちなみに、本物の守口宿の高札場は京阪国道の八島交差点付近にあったとされている。また、道沿いには文禄堤にちなんだ名前を掲げる喫茶店やマンションも建っており、いくつかの商店の軒先には、ここが東海道五十七次の守口宿であったことを示すのぼりが所々に置かれている。
現在は周辺住民の生活道路なっているこの道が、文禄堤、京街道として淀川沿岸部の人々を水害から守り、また、京都と大坂間の重要な交通路として利用された。東海道の宿場町として栄えた守口は文禄堤があったからこそ栄えたとも言える。
文禄堤の遺構そのものはほとんど残っていないかもしれないが、守口市や周辺住民によって、ここが文禄堤であること(京街道であること)ということを後世に伝えていこうという取り組みがなされている限り、文禄堤そのものが人々に忘れられてしまうことはなさそうだ。
近畿交通民俗学研究会
活動日 2017年11月12日
執筆日 2017年11月12日