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【書評】血と水の家族の物語、残酷なフィクションにみる普遍的なリアリティの力

早朝。残虐な殺人の被害者となった娼婦レイラは、イスタンブルの街角のごみ箱の中に放り込まれた姿で、その完全な死が訪れるのを待っていた。彼女の心臓がその働きを止めてからもなお、その脳が機能していた10分38秒の間に、社会的の周縁で生きた彼女の人生と、その過酷な生活の中でともに支え合ったかけがえのない友人たち(トランスジェンダー、娼婦、移民、障がい者、DV被害者、革命家)を回顧してゆく物語。

こうあらすじを書いてしまうと、センセーショナルな側面ばかりが際立つけれども、これは社会の辺縁に置き去りにされた人々の「語られない声」を聞き、「見えない姿」を見つめる人生の物語。イスタンブールに実在するという無縁仏の墓地には、遺棄された嬰児と身元不明の自殺者と水死した難民と身寄りのない娼婦の遺体が、隣り合って眠るという。単に番号だけが記された彼らの墓標に、再び名前を与え、その人生を(たとえ最期は無縁者の墓地に行きつくとしても)温かな目線でいきいきと鮮やかに描き出すことこそが、物語の意義なのだと著者エリフ・シャファクは語る。彼女が描くのは「語られない物語」、過酷で残酷な現実の、うつくしくも耽美的な反照としての。

冷徹で完全なる身体の死を目前にして、寸時。過去を回想するレイラが、その感覚にありありと浮かべるのは、その残り香と後味だった。檸檬、蜂蜜、夏の家で食べた西瓜のつめたい爽やかさ、台所で湯気を立てる山羊の煮込み…そしてその味と香りの記憶が、彼女の脳裏に蘇らせたのは、もう手放したはずの、その実ずっと心から離れない、いくつものいくつもの場面。精神を病んだ母が、台所で刻んでいる青葉と蚯蚓、叔父の性的虐待を告白する術もなく、沈黙して見つめていた絨毯の鹿の模様、ダウン症に生まれた弟が幼くして亡くなり、その朝に開け放たれた家じゅうの窓…。まだ伝統や文化的かつ宗教的呪縛が色濃く残る時代の地方都市の閉塞感と、厳格な家長制度の抑圧、父の挫折、実母と育ての母の不幸、そしてレイラ自身の深い孤独が、やがて彼女に血縁の家族との決別を決意させる。

自由を求めて辿り着いた彼女のイスタンブルは、希望の街ではなかった。ときに時系列に、ときに思い出の濃淡に合わせて前後するレイラの物語は、しかしながら、過酷な現実に翻弄されたみじめな悲劇として描かれてはいない。彼女の築いた「水縁の」家族たちの、生命力に満ちた豊かな人間描写は、物語に生き生きとしたリアリティをもたらすともに、どこかおとぎ話のような印象を与えている。彼女が愛し、共に生きた5人のかけがえのない友人たちは、みな社会の辺縁でマイノリティとして生きる「部外者」であるものの、各々の傷の物語をつぶさに紐解くと、それはいつ誰が陥ってもおかしくないその普遍的な姿が浮き上がってきて、読んでいる私たちは深く、深く共鳴するのだ。

エリフ・シャファクの描くフィクションの力の真髄が、そこにあるのだと、私は思う。違う時代の、遠い国で起こったエキゾチックな物語として読んでいる私たちの心に、ふと強く、鷲掴むかのように迫るのは、そのうつくしくメランコリックに描写された残酷な現実の、そのリアリティの圧倒的な普遍性なのだ。私たちの中にも存在する、テキーラ・レイラが、サボタージュ・シナンが、ノスタルジア・ノーランが、ジャミーラが、ゼーナブ122が、ハリウッド・フーメリアが、ジ・アリーが、この残酷で冷酷なストーリーとシンクロして、心の深いところで私たちを揺さぶり共振させて、これが物語の持つ「共感する仮想現実」の力なのだということを実感させる。

この本を書いたエリフ・シャファクは、トルコ人の父母のもとストラスブールに生まれた。まだ幼い頃、両親の別離を機に母親とふたりでトルコに帰国する。封建的な価値観や迷信の色濃く残る田舎で、保守的な祖母に育てられた少女時代と、外交官として世界中を赴任する母とともに国際的な環境で過ごした経験を振り返って彼女は、ふたつの相対する価値観と世界観の間で育ったと回想する。その中で獲得した彼女の物語は、トルコ人としてのアイデンティティと深く結びついているものの、その創造の世界は、既存の知識や経験を超え、どこまでも自由に拡張する。彼女の語る架空の物語は、偏見や差別の壁に遮られない、超現実世界での共感の追体験だ。彼女は言う。「政治化されたアイデンティティは人びとを隔絶し、境界を作りますが、物語は、その心に訴えることで、人々を共感で繋ぐ流体です。パレスチナとイスラエルの政治家は互いに対話しませんが、パレスチナの人びとがユダヤの文学を読むことは稀でなく、その逆もまた真実です。」その意味では、エリフ・シャファクの物語は、1960年代から90年代のトルコという国の、残酷な現実と社会の抱えていた問題を描いたストーリーであると同時に、現代の、どのコンテクストにおける、どんな人生にも通用する妥当性を映し出す鏡なのだと私は思う。



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