見出し画像

娘のサッカー歴(僕の思い)

小学生時代

僕自身、娘にサッカーをやらせる考えは微塵もありませんでした。もちろん、娘自身もサッカーをしたいということも言いませんでした。
娘には5歳年上の兄がいます。
僕も、兄にはプロサッカー選手になってほしいと、よく練習に付き合ってはいましたが、素人が適当な考えで教えていたので、思ったほど上手くなりませんでした。
そんな中、兄が小学生チームを卒部した段階で、兄が所属していた小学生チームからコーチをしてもらえないかというオファーを受け、小学生のコーチを始めましたが、何を教えていいのかわからかったですね。
そんな中、このままでは、選手に申し訳ないと思い、ある指導者養成プロジェクトに参加し、サッカーのことを学びました。
少し、話が逸れてしまいましたが、その頃、娘は小学2年生だったと思います。
たぶん、女子でも早い子達は幼稚園ぐらいから、サッカーを始めていたはずですが、その頃も僕は、娘にサッカーをさせる気持ちはなかったと思います。
娘の夏休みが終わろうとしたころ、僕は娘と一緒にいたのですが、娘が動きまわっているのを見て、この子はスポーツが得意なんじゃないかなと思うようになり、娘に「サッカーやるか」と聞いたら「うん」と返事があったと記憶をしています。
そして、すぐに近くの小学校のグラウンドでサッカーを始めたのが、最初だと思います。
しかし、地元には女子のサッカーチームはなく、僕がコーチをしているチームは、少し遠いこともあり、娘はとりあえず、地元にあったフットサルスクールに通うことになりました。
兄は、幼稚園の頃からプロの下部組織や小学生年代ではそれなりに強豪チームにも入り、サッカーをしていましたが、思ったほど上手くならなかったので、そのころ僕は、サッカーの上手い人と下手な人の違いは何かと考えるようになり、そしてJリーグの下部とか強豪チームとか、わざわざ遠いところのチームに入ってもあまり変わらないという思いが強かったと思います。
そして、娘も、半年ほど普通にスクールに通っていたのですが、僕が参加する指導者養成プロジェクトの仲間を通じて、僕の中で運命的な出来事、出会いがあり、娘のサッカーに大きな影響を与えていくことになります。

僕も、そのころは貪欲に、指導者養成プロジェクトに参加する傍ら、同じくプロジェクトに参加する指導者のチームの練習や試合を見に行くようになっていました。
そして、一人の指導者からある指導者の存在を聞く事になります。
練習見学から帰宅して、すぐにインターネットで、その指導者について、調べたところ、その方は他とは全く違う指導をされていました。
その時は、まだ何かの確信があったわけではありません。
そして、1箇月後、チャンピオンズリーグ決勝、レアルマドリード対アトレチコマドリードの試合を見て完全に目から鱗が落ちました。
そこで、その指導者の指導とサッカーがピタリと繋がりました。
今まで、僕の指導は出鱈目だったと気が付かされます。
兄が上手くならなかった理由もはっきりとわかりました。
そして、その頃から、娘にはARUことを徹底させました。
すると、それまで手応えがなかったのですが、娘が飛躍的に上達していきました。

そして、娘が4年生になったころに、男子を含めた同年代の小学生の中でも、あきらかに違いを見せていました。
そして、昔はトレセンと言えば小学6年生からが対象だっと記憶していますが、そのころから5年生もトレセン選出がされるようになったのをきっかけに、どこかサッカーチームに所属することも考えるようになりました。
そして、ある女子チームの練習体験に参加させたもらっていました。
しかし、すぐにはチーム入部はせず、4年生が終わるタイミングで、その女子チームに入部することになりました。
僕が教えていたチームの女子チームという選択肢もあったのですが、そのチームではARUことが徹底できないとの思いがあったため違うチームを選択しました。
あと、ユニフォームのカッコよさですね。(笑)

その女子チームに入部するとき、担当コーチとお話をさせていただいて、ARUことを続けさせてほしいと約束をしました。
娘はついに本格的にサッカーを始めることになりました。
そして、5年生になってすぐにトレセンの選考会があったと思います。
トレセンの選考会では、そんなに動きは良くなかったのですが、無事に選考されてました。
そして、今思えば自分でも凄いことをお願いしたと思うのですが、トレセンに入るときの書類に、ARUことを実践しているので、他の指導はしないでほしいと要望をしました。
娘が所属するチームのジュニアユースの監督がトレセンコーチをされていたので、要望しやすかった半面、前代未聞の要望だったと思います。
そして、娘とはトレセンに合格すれば、ARUことを指導されている指導者の個人指導を受けに行く約束をしていたので、遠征して指導を受けました。
本当に大切なことをいくつも教えていただきました。
そのコーチには、今でもお世話になっています。

娘が所属していたチームはジュニアユースのチームもありましたが、ジュニアチームは、各学年2~4名しかいないチームで、試合をするときも各学年合わせて出ていました。
成績としては、大きな大会で勝つことはなかったのですが、ARUことを続けていた結果、ジュニアユースのチームに参加させてもらったり、トレセンでも中学生のチームに入れてもらったりしていたと思います。

そして、娘が6年生になる直前に娘が所属していたチームで担当していたコーチが退任されるということになり、その担当コーチの意向もあったので、仕方がないことですが、少しチームを不信に思うことになりました。

娘が6年生になり、次の進路を考える必要も出てきた中で、中学、高校年代で日本の女子の最高峰と言えば、アカデミー福島となるので、チャレンジする意味を含めて受験を考えることになりました。
トレセンでも6年時には、女子トレセンではなく、男子を含むトレセンに方に選考してもらっていました。
そんな中、まず、アカデミーの説明会に参加して、その後1次選考から最終選考までを受験しました。
しかし、最終選考で落選し、さらに合格すると思っていた、アカデミー堺も最終選考で落選してしまいます。

落胆の中、所属するチームのジュニアユースで継続する方法もありましたが、ARUことの継続の必要性、そして何より、娘の社交性の向上を一番に考え、寮のあるチームに所属することを考え始めて、近隣の中学校や高校に問い合わせをして、寮の有無を確認していったのですが、寮を持つチームは少なく、県外ばかりということがわかりました。
そして、その中の一つの中学校に連絡を取ったところ、監督が直接、家まで来ていただいて、チームの説明を受けました。
そして、練習にも参加させてもらって、高校の監督とも話をさせていただきました。
アカデミーの施設を見学した後だったので、グラウンドとか寮は見劣りはしましたが、選択しは多くなかったです。
そして、その中学校を受験して、その後の6年間の所属チームが決定しました。
アカデミーは落選しましたが、その時の面談も経験となっていました。
女子サッカー部に入部するにあたり、いつものことながら、ARUことを継続することは、監督ともお話をさせていただきました。

中学生時代

中学に入学し、女子サッカー部に所属するわけですが、そこでもサプライズがありました。
なんと、チームの人数が総勢で10名ということを監督からお聞きしました。
少し驚きましたが、それは大きな問題ではありませんでした。
その頃には、すでにサッカーの個の部分の重要性を理解をしていたからです。
チームは10名なので、当たり前ですが1年生からレギュラーです。
そんな中で、全国大会への出場はなかったのですが、惜しいところまで行ったと思います。
トレセン活動も行っていて、2回ほどエリートプログラムにも参加をさせてもらったと思います。

チームでの練習については、少し問題も発生しました。
監督とは、入学前にARUこと話をしているのですが、先輩からARUこと以外のこともするように言われていたのだと思います。
悪意はないですが、ARUことがブレると上手くならないことがわかっていたので、監督と連絡を取りなんとかARUことの継続を再度お願いしたことを覚えています。

2年になり、多くの後輩が入部してきて、人数の問題は解決しましたが、チーム自体の成績は上がりませんでした。
どちらかというと田舎の方のチームなので、強豪チーム特になでしこ下部などに選手は集まりやすい状況も影響していたと思います。
娘には勝ちたい気持ちを要求していましたが、僕は、そこまで成績に拘っていませんでした。
大事なのは、個が上手くなることだとわかっていからです。
そして、3年となり、娘はキャプテンも任されることになりました。
そんな中で、全国大会の予選を控えたある日、監督から鎖骨を骨折したとの連絡があり、中学最後の大会は、出場することなく終了しました。
チームとしても後輩たちが奮闘してくれましたが、敗戦となりました。
その後は、怪我も治り高校もそのまま内部進学をすると単純に思っていたのですが、娘から別のチームも考えたいとの相談を受けました。
しかし、高校の監督と話をしていた内容から、娘はかなり信頼されていることが分かったので、そのまま進学を勧めました。

高校生時代

高校のチームは、中学とは違い、毎年、選手権に出場していました。
調子がいいときは、インターハイにも出ていました。
要因として高校年代からは、どの高校もそうですが全国から選手が集まることが要因だと思われます。
高校生時代で一番のできごとは、新型コロナウイルスによって、活動が翻弄されたことですね。
入学もたしか6月ぐらいにずれ込んだと思います。
国体の選手にも選ばれたのですが、国体事態の中止や、チーム内で感染により、1度も試合をすることなく終わったと思います。

そして、さらなる強化を目指して高校になったぐらいからは、1箇月に1回程度は現地に足を運び、娘と一緒に練習をする時間を作るようにしました。
1年生時は、一つ上の先輩らの層が厚かったので、レギュラーに定着ということはなかったのですが、サブで後半から出場することが多くありました。

2年生になり、レギュラーに定着して試合には出ていましたが、インターハイ予選の決勝では、屈辱的な負け方をしてしまいました。
その後、国体が中止になったこともあり時間ができたので、監督に進路について相談し大学等の練習参加をすることにしました。
しかし、ここでもコロナの影響で、2年生の参加は中止しているチームや練習参加を見合わせているチームもあり、なかなかうまくいきませんでした。
結果、選手権予選前に1校だけ参加させてもらいました。
なでしこリーグのチームにも連絡をしましたが、練習参加には至りませんでした。
その後の選手権の予選の決勝では、インターハイの予選と
同じ対戦相手となりましたが、なんと、娘のドリブルシュートが決まり、1位で選手権出場を決めたのは今でもよく覚えています。
選手権は、1回戦負けでした。

3年生になり、サプライズが2回ありました。
1回目は、インターハイ予選の決勝で、敗戦濃厚の状態から追いついて、PK戦で出場を決めたことです。
インターハイは1回戦負けでした。
2回目は、出場濃厚と思われていた選手権出場の出場を逃したことです。

そして、進路については、2年の秋から3年生の6月ぐらいまでの間に大学10校ぐらいの練習に参加させてもらいました。
チームメイトの家族に連れて行ってもらった1校以外はすべて連れて行きましたが、なかなかどのチームも決め手がありません。
少し詳しく書きますと、娘自体の感覚が合わない、寮がない、学費免除がない、練習がいまいち、行きたい学部がない等、総合的な判断が必要だと考えるようになりました。
僕が気に入ったチームも娘には合わなかったりしていました。
そんな中で、親として資格も取れたほうがいいとかという考えも、少し頭を過りましたが、娘の最終的な目標は、プロのサッカー選手になることなので、プロになれるチームということだけを念頭に娘と相談を続けました。
そんな中で、わざわざ娘のところを訪問して説明してくれる等、熱烈にお誘いいただいた1チームがありました。
実は、その時点でなでしこリーグの1チームの練習参加が決まっていたので、即答はしませんでしたが、後に電話でその大学の監督とお話させていただいたところ、僕自身も大変好感を持ったので、娘とも相談を繰り返し、なでしこリーグの練習参加もキャンセルして、その大学に決めることになりました。

大学生時代

始まったばかりです。
Boys be ambitious!
つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?