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Fallow, in the Shallow(日本語版)

 半夜。カーテンを開け放っても二階の自室に月明かりは届かないが、電柱から伸びた街灯がベランダの先からこちらをほのかに照らす。部屋はお世辞にも片付いているとはいえないが、五月とは思えない蒸し暑さが僕に動くなと無言の圧をかける。時たまそういう抑圧は跳ね返してやろうと思う。しかし今日は僕が折れよう。キャスター付きの椅子に深く腰掛け、右脚を上にして足を組む。煩雑に積まれた本の一番上に陣取っているやつを手に取り、栞代わりの葉書が挟まった頁を開いてざっと目を通す。最後にこれを読んだのは数日前だったか、文脈がよく思い出せずに数頁戻ってまたざっと目を通す。机の上には大きめのマグカップに淹れたての紅茶。ティーバッグは入れっぱなしといういい加減さに文句をつける者などいない。薄暗い部屋にぼんやりと浮かぶ白い頁に目を転がし、ようやく読書といったところか。最近読んでいるのはChristy Lefteriの"The Beekeeper of Aleppo"である。古本市だか大学の洋書フェアだかで不意に手に取った一冊だが、難民を題材に取った比較的新しい作品で考えさせられることも多い。といってもまだ読み終えていないし、厚い洋書を読むのには根気がいる。それは外国語が好きだとか本の内容が興味深いとか単にそういう理由で何とかなる種類の苦労ではない。さらに言えば僕は本をゆっくりと、一語一語に注意をはらって読むのが好きな性質なので、束の間の休息に読んでいると果たしてこの本を読み終える日が来るのだろうかと思うこともしばしばある。紅茶の入ったカップの横にはCollins COBUILD Learner's DictionaryがMのあたりで開かれてぐったりと横たわっている。これも古本として手に入れたものだが、やたら状態が良くて気に入っている。やっと数頁進んだところで深い呼吸をし、紅茶を少し口に含む。壁の一点を見つめ、ここまでのストーリーを頭の中で辿る。それが済んだかどうか微妙なタイミングでもう一度深い呼吸をして、次の一文に目を転がす。さもないと日々の庶務や明日の予定やといった雑念が僕の上にかつ結びかつ消えて、読書どころではなくなってしまうのだ(本の内容がつまらないとは微塵も思っていない)。また、僕の集中力は甚だ低く、ちょっと目にしたものやちょっと耳にしたものにすぐ気を取られてその方面のことばかり考え始める。かと思えばまた別のことに、、、、。薄暗い部屋で読書をするのが好きなのはそのためであるが、それでも、ほの暗い部屋に浮かぶもう一つの白を無視せずにいられなかった。それは一本の蝋燭であった。友人と花火をやるために買って余った蝋燭の一本を僕は無造作に机の端に置いていた。偶々、僕の部屋にはアロマキャンドルを立てるための小さなガラス細工があった。アンティークショップでなんとなく手にして買ってしまったやつだが、これにアロマキャンドルを置いて火を点けたことは一度たりともない。こうなると、僕の童心は蝋燭に火を点けずにはいられない。蝋燭立てとマッチ箱を持ってきて机の真ん中に置き、冷めた紅茶を一口飲む。初めより少し苦い。マッチを一本擦って蝋燭に火を点けガラス細工の上に立てる。マッチの方はふっと吹き、足元にポツンと立っている空のワインボトルに落とす。ゆらゆらと揺れる小さな火は足元のLearner's Dictionaryに語りかける。僕は満足してもう一度本を手に取り、今度は左脚を上にして足を組み、また深く腰掛ける。窓の外からこちらを覗く街灯の薄い白は、橙色の小さな灯火に吸い取られる。ほの暗い部屋に浮かぶ白が、少し暖かい色に染まっている間、僕の意識はそこに注がれるのだろう。


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