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#6 本気で社会を変えるにはー多様性を尊重するとは?

かつては、自ら考えなくても周囲の人や親の世代を見習って同じように行動すれば、そこそこの成果を得ることができました。学校における教育とは、一方的に講義を聞かされるような受動的なものであり、基本的には上からの指示を正確に読み取り、間違わずに実行できるための基礎力の獲得の場所であったと感じられます。けれど時代は動き、それが成り立っていた前提条件が崩れ始めました。企業寿命は年々短くなり、大企業といえどもあなたが退職するまで安定して存在する保証はありません。常識を疑い、多様な視点からあるべき姿を追いかけ、正しく課題を設計する能力が求められる中、受け身で教育を受けてきた人にとってはなかなかに生きづらい社会になっているかもしれません。

営利的な側面、企業が業績を伸ばすため、あるいは個人として社会に必要とされるためという視点から、多様性の必要性を紹介してきました。けれど、だから「多様性は大事だ!」「多様性を尊重すべき!」、と説明を終わらせたくないのです。もう少し踏み込んでみましょう。

そもそも「尊重」とは何でしょうか?検索すると、『尊いものとして重んずること。』と出てきます。ついでに「尊い」を調べると、『貴重である、たいへん価値が高い、ありがたい、得がたい素晴らしさがある』(Weblio辞書)と表現されます。調べれば調べるほど、本質が分からなくなります。自分とは主義主張の異なる人や考えを鵜呑みで尊重することが大事なのでしょうか?それは強制されるものなのでしょうか?それは思考を停止しているようで、むしろ相手の考えにしっかりと向かい合おうとせず、むしろ軽んじているような気すら感じます。このことに触れずに、自分にとって嫌な相手でもまずは良いところを見つけてみませんかと言われても、強い違和感を感じます。相手が非協力的な態度であればなおさらでしょう。

似た言葉として「尊敬」がありますが、社会心理学・精神分析・哲学の研究者であったエーリッヒ・フロムは次のように定義しています。尊敬とは、『人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである』と。少し目指すべき姿勢が具体的に見えてきました。まずすべきことは、相手に偏見を持たず、感情に振り回されることもなく、ありのままの相手を知ること、相手の考えではなく"存在"を肯定すること、でしょうか。

人は良くも悪くも一人では生きていきません。人類は分業を始めることで、生産性は飛躍的に向上しました。人は社会を形成し、それぞれの職務に集中できる環境が整うことで熟練者となり、その長所を活かしあうことができました。まず最初に互いの存在を認めること、互いの欠点を補い合える社会というのが理想的な在り方と感じられます。

これを考慮した時、尊重できない相手というものが浮かび上がってきます。それは、相手が自分以外の存在を下に見て、自分勝手に振舞って協調関係を壊す場合です。

ドラえもんに出てくるジャイアンのように、「むしゃくしゃしたから殴らせろ」とか、「君を殴ることで私の幸福度が上がるんだ。これは立派な社会貢献だ」と訴えてきても、まず納得できないでしょう。互いの存在を尊重する、そして助け合うという理想から、相手が大きく逸脱しているからです。パワハラ・セクハラをする、詐欺にかける、人を貶めるなど、が同様のケースに当たります。

重要なことは、上記のような例外を除いた時、相手と共にwin-winの関係を築くことを目指して、互いに相手を唯一無二の存在として認めて自分と同等に扱うこと、職務上の上下関係があったとしても、同じ人という立場では対等であろうと能動的に意識することです。互いに尊重し合える関係を築こうとするならば、相手から見て自分が尊敬に足る人物でなければなりません。そうであれば、自分に厳しく、自己の振る舞いを絶えず反省し続けなければならないことが分かります。この実践はとても困難なことです。

「多様な価値観を尊重する」というのは、自分勝手などんな考え方も多様な価値観の一つとして肯定されるべき、というわがままを許すものではないのです。むしろその対極に考えはあります。

(#7へ続きます)


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