#13 本気で社会を変えるにはーお金によって奪われた話し合う力
2030年までに、46%二酸化炭素の排出量を削減するという目標を政府が置き、様々なところでSDGsのニュースや動きが出てくるようになりました。「良く分かるSDGs」、「生物多様性を大事にしよう」、という啓蒙活動は分かるのですが、ではどういう社会を目指しているのかは曖昧で、なかなかにどこまで賛成して良いのかが分からない状況です。
高い目標を達成するためには、システムを根本的に変えなければなりません。小手先の努力では46%の削減すら到達不可能でしょう。政権が変わり、方針を変えれば済む話でもないのです。住民の意識を置き去りにした議論は理想論に陥りやすく、高い効果を期待できません。非常に地道な作業の積み重ねです。
上からの指示を聞くだけで、誰もがそこそこ豊かになれた時代が終わりを迎えました。欲しいものがあればただ働けば良かった、そして定年になれば全部国が面倒を見てくれると保証してくれている、そんな風に思考を止めていてもなんとかなった環境が長く続き過ぎたため、急な方向転換には相当な摩擦が生じることが想像されます。
お金というものは本当に便利です。多種多様な考えを持つ人が、お金という共通目標に対しては一糸乱れず協力できます。お金があれば大抵のモノを買うことができます。組織として団結し、その収益を分配すれば、各々が欲しいものが違っていても同時に満たすことができたのです。価値観の違いは問題になりませんでした。互いが何を大事にしているかを理解しなくても良いのです。ただ相手が仕事ができること、与えられた職務を全うすることができればいいのです。
ただここにきてお金では解決できない問題が生じました。社会がお金に依存しすぎ、あらゆるものがお金に換算されました。お金に換算されないものは切り捨てられ、いかに効率的にお金を生産するかが重要視されます。制度疲労が起きつつも、それ以外の生き方を知りません。もはや選べなくなったのです。大量の国債の発行、気候危機、生態系の消失など、将来の世代にツケを回すことで目の前の帳尻を合わせ、辛うじて制度を維持することができている状態です。
日本の学校では、民主主義を十分に学べません。社会の仕組みは多少学びますが、異なる意見や価値観を持つ人とどうやって議論を行い、妥協点を見つけるのかを知りません。ディベート(討論)の授業があっても机上に話に終わり、その声が行政に反映されることは極めて稀です。かと言って身近な大人たちが、それを実践し、民意を届けている様を見る機会もまずないでしょう。国会中継を見ても、質の悪い答弁が目立ちます。
こうした逆境の中、私たちは考えねばなりません。どんな将来が良いのか、どんなシステムを作るべきなのか、どうすれば異なる考えを持った人々がお互いを知り、妥協点を見出すかです。非常に手間がかかり、非効率この上ありません。ですが、もうこれ以上さぼるわけにはいかないのです。
楽な道などはなから存在しません。どこに進んでもいばらの道です。ただ選択肢を選ぶ余地がなかったと嘆くのではなく、より良い未来を闘って勝ち取るんだという気概を持っていただきたいのです。
(#14へ続きます)