
数学から逃げ切った自分と、30年ぶりの再会
5年ほど前のある日、当時小学4年生だったウチの娘が「習字をやめて絵を習いたい」と言い出した。
もともと習字は、私自身が子ども時代にやっていた習い事である。今でも「やっててよかったな〜」と満足しているので娘にもやらせていた。しかし娘を見ていると、次第に「向いてへんな〜w」とわかってきたので、私も「ええやんええやん、絵ェ習いぃ!」と乗り換えに賛成。
そして新たに絵画教室を探す中で、私は「あっ」と声を上げた。
S先生やーーー!!
私が通っていた大学で当時教えておられた、S先生が主宰する教室を見つけたのだ。ウチから通える距離だったので、迷わずそこに決めた。
もう卒業してから25年ほど経っていたけれど、大学での日々、そして大学を選んだときのことが一気に思い出された。
+ + + + +
私は大学卒業後コピーライターになり、現在までずーっとその職業でごはんを食べている。そのため出身大学は文学部やマスコミ専攻かと思われがちだが、じつは美術系だった。教育系国立大学>芸術専攻>絵画研究室にいて、畳2枚分ぐらいの抽象画を描いていた。
絵を「描くこと」は好きだったし、高校でも美術部だった。でも、本当に学びたい&仕事にしたいのは、やはり文章を「書くこと」のほうだった。それなのになぜ、美術系大学に進学したのか。
数学が壊滅的にアホだったからだ。
(何つながり? と思うだろうが続けて読んでほしい)
小学生のころからその兆しを見せ、中2で目も当てられない状態に。しかし、両親は私の成績などどうでもよく、塾にも行っていなかったので、アホの坂道を転がり落ちる私を誰も止めやしなかった。
高校入試でも数学が盛大に足を引っ張ったが、文系科目でカバーし、そこそこの高校に入った。家計的に公立を落ちて私立に進むことは許されず、絶対安全圏の公立高校を選んだので、数学がネックでもまだ余裕はあった。ちなみに、だいぶ年下の後輩にゆりやんレトリィバァがいる。
高2になるとき、文系・理系の選択を迫られた。成績からすると文系一択だが、前年に父親が病に倒れて貧乏に拍車がかかったので、大学に行くなら何がなんでも国公立しかない。そのため、5教科のセンター試験を目指し、文系・理系どっちの科目も勉強する「文理クラス」を選んだ。
ただ、私は父親が倒れた直後から進学費用を稼ぐ目的でアルバイトに精を出していた。放課後は、美術部で1時間半ほど活動してからバイト先へ。22時過ぎまで働き、家に帰り着くのは23時ごろ。週6でバイトしていたので常に疲れていた。
まず数学に立ち向かわねば大学に入れないのに、入ってからの学費を稼ぐなんて馬鹿げている。頭ではわかっていたけど、この状況で中1レベルから数学をやり直すことを全細胞が拒否していた。すでに日々の数学の授業さえ「寝る時間」になっていたから。
とうぜんアホは加速する一方で、高2の終わりに実施された実力テストの数学では、とうとう「0点」を取った。おふざけ要素は一切ない。冗談抜きですべてが暗号に見えた。マジメに0点なんて誰もができる経験ではなく、今でもたまに引っ張り出す美味しいネタではあるのだが、当時の私としては完全に詰んでいた。
+ + + + +
そんなとき友人から、ある情報を掴んだ。
O大学の芸術専攻は、センター試験が国英社の3教科でいいらしい
O大学の芸術専攻は、センター試験が国英社の3教科でいいらしい
な
な
なんやてーーーーーーーーー!!
もうこれは疑いようもなく私のための大学だろう。文系科目だけで勝負できるなら、センター試験は絶対なんとかなる。2次試験は実技で絵を描く必要があったが、私は美術部で絵が描ける。しかもO大学は、私の実家から高校よりも近かった(厳密には1年生の時だけ遠方のキャンパスで、2年生から近くなることが決まっていた)。
逃げ切れる…! 数学から… !
さらに「センター試験3教科でいいよ〜ん」と言ってくれている芸術専攻は「教養学科」の中にあり、教養学科は2、3年前に新設されたばかりの、いわゆる「ゼロ免課程」だった。ゼロ免とは、教育系の大学でありながら教員の養成を目的としない学科。同じ大学内に設置されている「教員養成課程」の「小学校美術」や「中学校美術」と違い、教養学科の芸術専攻はゼロ免だから、教員免許を取らなくていいし、教育実習にも行かなくていいのである。
そして何故か、教養学科の中でも「センター試験3教科でいいよ〜ん」なのは芸術専攻だけで、他の専攻は5教科が必要だった。不思議に思ったが、とにかくココしかない!!と心を決めた。(現在も、教養学科は名称を変えて存続している。今でも芸術専攻がセンター試験3教科なのかは知らない)
私は小学生のころからコピーライターになりたくて、高校生のころには「特別な資格がなくてもなれる」「何学科出身でもなれる」ということを知っていた。欲しいのはただ、大卒資格だ。O大学なら、全国区の知名度ではないにしても一応国立なので、就職活動ではまずまず戦えるだろう。4年間、好きな絵を描いて就職活動さえ頑張ればいい。
その日以降、私は数学の時間に堂々と寝た。人間、何の憂いもなければ熟睡できる。ある日には「おまえっ、そんなんで国立行けると思ってんのかーーー!!!」とマンガみたいにチョークが飛んできた。それがねぇ、行けるんですよ。ってか、行くんですよ、へへへ。
+ + + + +
100万ちょっとを貯め、高3の9月末にアルバイトを辞めてから、しばらくボーッと疲れを取り、受験勉強の腰を上げたときには10月半ばを過ぎていたと思う。徐々にエンジンをかけて年末年始は猛然と勉強した。2次の実技対策は、推薦で早くに進路が決まったクラスメイトにモデルを頼み、美術室に来てもらって課題になるであろう人物画を描いた。
年明け、初詣に出かけた清水寺のおみくじで「凶」を引いてビビりまくったが、センター試験の自己採点では8割超えの点数をとり、2次の人物画も無難にこなして合格した。
大学時代のことはまたの機会に書くけれど、正直、絵で食べていく気は微塵もなかったので課題はやっつけだったし、アルバイトばかりしている不届きな学生だったと思う。でも、数学アホなのに入れてもらえて、おまけに以前の記事に書いたように4年間の授業料がタダになったから、当時の私にとってO大学はベストな選択だった。ちなみに、ちょっと年下の後輩にはBonnie Pinkがいる。別の専攻だけど。
+ + + + +
娘を連れて絵画教室の申し込みに行った日、30年ぶりに会ったS先生は、ちっともお変わりなく若々しかった。S先生は長年、子どもの美術教育について研究しておられるエキスパートだ。教職課程の教授でいらっしゃったが、教養学科の基礎科目も担当されていて、1年生のときに1科目だけ教わった。
「私、O大学の教養学科だったんです。芸術専攻の絵画研究室で…」と切り出すと、先生は目を見開いて「そうか〜!」とおっしゃった。「絵画研究室やったら、H先生とA先生?」「そうです、そうです」。そこからしばらく、昔話に花が咲いた。
「私、センター試験が3教科だったから入学できたんですよぅ〜」
そう言うと、S先生はカラカラと笑って、こうおっしゃった。
「あれなぁ、俺が言うたんや。3教科でええや〜ん、って」
! ! ! !
「ほんだら、そのまま決まってん。そうしてみよか〜、って」
まってwww
恩人、おった。こんなところに。
先生は「ええや〜ん」と軽く言ったかもしれないが、私にとっては人生を左右する一言だった。
教養学科は確か、私が入学した年にやっと1年生から4年生まで揃ったという新しい学科だった。ゼロ免課程の設置自体が実験的だったし、入試形態もまだ揺れ動いていたと思う。教授会でのS先生の提案がそのまま採用され、芸術専攻だけがセンター試験3教科になったらしい。
30年越しの思いがけない伏線回収(?)でアワアワなって「あっあっありがとうございますっ」としか言えず、すぐに保護者の出入りが激しくなったのでそれ以上のことも聞けなかった。でも、30年越しのお礼が言えたよ。娘のおかげで。
娘はそのあと、他の習い事との兼ね合いで続けられなくなるまで絵画教室を楽しんだ。今でも、この教室のことを思い出して話したりもする。まだまだ教室は続いているようだ。S先生、いつまでもお元気でいてください!!恩人だから!!!
+ + + + +
実家が貧乏だけど、勉強ができて大学進学したい若者たちへ。
・かしこい子には必ず優遇措置があるはず。今は何でも調べられるいい時代だから、調べまくってとにかく情報収集を。あきらめないで。
・リアルで話せる、ちゃんとした大人(高校の先生など)の中には、有益なアドバイスをしてくれる人がきっといる。相談してみて。
・親と合わない場合、わかりあおうとするのは時間の無駄。自力で家を出られるその日まで、うまくやり過ごすこと。健闘を祈ります。