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【魔女の宅急便】原作はジブリの続きではない。別作品として分けて考えるべき理由。
スタジオジブリ版「魔女の宅急便」の”その後”について紹介している記事はたくさんあります。しかし、私は違った考察をする。そして、なぜジブリには続編(○○2)がないのかについても考察し、”原作の続きがジブリ版の”その後”であるという考えを否定”させていただきたいと思います。
「私が言いたいこと」の部分だけでも読んでくれると嬉しいです。
※今回だけはかなり攻撃的な表現が含まれるかもしれない。悪しからず。
原作から映画版の”その後”を考察するべきではない
以下の記事「【魔女の宅急便】考察にあたって」では、「ジブリ版の魔女宅は原作からは考察しない」「あくまで原作を持つ別作品としてみる」的なことを私は宣言しています。
ジブリ版にはシナリオに大きな変更や、宮崎氏のメッセージも追加されているからです。
宮崎氏にとって、原作とは自分の物語を作る骨組みであるから、大きな変更が加えられる。それが原作者との軋轢を生んだりするわけですが・・・
”魔女の宅急便のその後”について検索すると、多くの記事で原作版が紹介されています。「だからジブリ版も・・・」と考察している人がいます。なんなら考察と言っておきながら、妄想のようなものをあたかもそうなったかのように書いている人もいるが。いいすぎた。
また、「映画版のその後が気になる方は~」と書いてある記事も散見されます。しかし、それは間違っている(断言)。
私が言いたいこと(最重要)
原作者は自分の「魔女の宅急便」の続編を書いたわけであって、ジブリ版の「魔女の宅急便」の続編を書いたわけではない。
原作から改変された作品の続きを、”原作”に回帰することは、原作者に失礼だ。
それを元に作られたジブリ作品の”その後”はジブリに説明されることで決定される。
他のジブリ作品では、「ハウルの動く城」も、原作はダイアナ・ウィン・ジョーンズ氏によるものです。ジブリ版は相変わらず原作に着色されています(「魔女宅」とちがって、原作者からは好評!)。
そして、原作にはその後のストーリーがあります。
しかし、「”原作のその後”は原作のためのものであり、それを元に作られた作品のものではない」ということです。
また原作の角野氏も、キキを”単一のキキ”ではなく、原作、アニメ、ミュージカル、実写・・・と、いろんなキキがいてよいと言っています。それぞれの世界に、それぞれのキャラと時間があるということ。
ジブリが続編を作らないのは?考察
「魔女宅」に限らず、ジブリ作品たちのその後が気になるかもしれないが、なぜスタジオジブリは続編を作らないのでしょうか?
以下考察。
※映画版が公開された後でも続いた原作版「風の谷のナウシカ」については”原作≠アニメ理論”より、考慮しない。宮崎氏は、「ナウシカ」の続編は作らないと宣言している。
多くの理由があるはずだが、多くのジブリ作品が”含みを持たせて終わらせている”からであると考えます。この”含み”というのは、作品の本質を表現していることもある。
あえて曖昧に終わり、物語の伸びしろにしている。よって、続編を作ったり、その後について語るというのは、この伸びしろを埋めてしまうということです。前作品の”キャラこれから~”を続編によって確定づけられてしまう。
私が言いたいこと その2
一部ジブリ作品は、”キャラのこれから・・・”を意図して終わる。つまり、”続編が作られること”はそもそも意図されていない。”キャラ達のこれから・・・”が確定してしまうからだ。
本質的に異なる作品を、”原作がこうだったから・・・”という理由で解釈することは、”ジブリ作品におけるキャラのこれから・・・”そして、”原作のキャラ達のいままで・・・”を否定するものだ。
よって、原作の続きは、原作の中だけであるべき。
インタビューなどで宮崎氏は、作品のその後については”不確定的・未来形的”に答えているという印象があります。気になるその後については、宮崎氏も「こうなった」とも、「こうなる」とも言っていない様。
今回の記事は、一部の人に対して完全に喧嘩を売るものとなっているが、私のこの考えは共有させていただきたかった。
#魔女の宅急便#魔女宅#スタジオジブリ#ジブリ#宮崎駿#アニメ#考察