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祖父を看取るまで〜グリーフケアの旅

コロナによる肺炎が治らず、2ヶ月にわたり重篤な状態で入院中だった祖父が、危篤になったとの連絡が入った。
普段私は祖父の入院している病院まで片道2時間以上かかる場所に住んでいるが、連絡が入ったこの日は
・仕事の制限なく動ける土曜日で
・たまたま午前中からペットの本契約のため外出しており、契約を結んだその足で交通の便が良い駅にお昼を食べに来て一息ついたタイミングでの連絡 だった。
上記の幸運が重なり、お陰ですんなり看取りに駆けつけることが奇跡的に叶った。
まるで、ペットと入れ違いかのようなタイミングで、あまりに示唆的な出来事だった。
私を支えてくれる存在が増えることがわかったタイミングで、祖父は"これで安心して旅立てる"と思って安心したのかな…。

病院の最寄駅に着いた途端に、不思議なことに左胸の肺の辺りが急にズキズキと痛んだ。肋間神経痛だろうか?肺炎で苦しんでいる祖父に感化されたのかもしれない。

曜日も時間も良く、親戚が病院に大集合して、孫たちに至ってはなんと全員が集合して、祖父は大勢の身内に温かく見守られての最期だった。
機械に表示される心拍数が緩やかに徐々に低下していき、0を刻んだ瞬間、機械の通知音が病室に鳴り響いた。その時ばかりは流石に、堰を切ったように涙が堪えきれず溢れた。

生前祖父は自宅で死にたいと言っていた。
その夢は叶わなかったけど、子と孫達に囲まれて、大勢にありがとうと言われながら看取られて、これはこれで素敵な最期だったのではないかと思う。温かな空間だった。
私の両親は一度も身内の死に目に間に合ったことがないそうで、こんなに死に目にたくさんの人が駆けつけて間に合うこともそうそうないよ、と言っていた。祖父の人徳がそうさせたのかもしれない。

臨終の確認をした医師が、日時を告げた後に深いお辞儀をした。そのお辞儀の長さに、死者への敬意と尊厳が表されている気がした。あとは助けられなかった罪悪感も。

その日の夜はベッドに入ってからもなかなか涙が止まらず、AI美空ひばりの「あれから」を聴きながら泣いて眠った。大切な人を亡くした経験のある人には凄く沁みる名曲でおすすめ。祖父がコロナに感染したと最初聞いたときから、いずれ訪れるであろう祖父の死を覚悟して、覚悟の気持ちを固めるために聴いていた曲だった。

翌朝、こんな夢を見た。
家の窓から、上から見下ろせる場所に透き通った綺麗な水色の水の湾岸があり、そこが次第に満ち満ちて、溢れて家の方向に流れ込んでくる夢を見た。海が満潮に近づくときのような、激しさのない穏やかな増水。
このままだと家の1階が浸水する、やばい、と思い少し慌てながらも、綺麗な水とその底の丸い石たちに見惚れてぼうっと眺めている夢だった。
私にとって祖父の死はそのような出来事なのかもしれない。自らの生活に僅かに影響があり動揺する出来事だけれど、綺麗な存在として、無意識のうちにそんな風に感じていたのかもしれない。それとも祖父が渡った三途の川の入江を覗き見できたのか。


祖父が入院してからは、最期の看取りの日を除くと計2回面会に行った。
入院してから祖父は食事も日に日に取れなくなり、全身の筋肉が衰えて痩せこけ、入院1ヶ月後くらいからまともに喋ることもできなくなり、二酸化炭素濃度が下がらず呼吸も困難で、
身内の誰かが面会に行っても眠っているように意識が朦朧としていて、コミュニケーションが取れないことが殆どだった。
ところが、運が良く私が訪問した際はいずれも祖父の意識があり、コミュニケーションが取れる状態だった。これには共に面会していた母も毎度驚いていた。祖父は孫の中でも私を特段可愛がってくれていたので、その影響もあったのかもしれない…。
意思の疎通ができる状態であっても、私は面会に行くたびに、祖父の急速に衰えた姿に確定で迫り来る死を実感してしまい、毎度堪えきれず泣いてしまった。
高齢者はいくら健康そうで元気にしていても、骨折や病気など何かきっかけ一つで、こうも急激に衰えてしまうものなのか、と切に実感した。

面会のときは、行く前から凄く感情が持っていかれて、毎度物凄く消耗するので、あまり頻繁には行けず母からの面会の誘いを断ることもあった。
特に祖父がコロナに感染してからの最初の1ヶ月は私自身色々なことが重なったのもあり、凄く動揺して、体調を崩したりもした。

母方の祖父母は自分にとって安心のリソースで、両親以上に"まっとうな身内としての正しい愛"をたっぷり注いでくれた貴重な存在だった。
そのため、今回の祖父の死は自分にとって親の死と同等以上の重大さがあった。

最初の面会では祖父はベッドの上体を起こして話すこともできた。病院食がまずいなど文句を言っていたが、私を見るなり、こちらからは何も言っていないのに、不思議に急に遺言めいたことを言いだした。
向こうのお母さんとは仲良くしたほうがいい。目立つことはするべきじゃない。など。あとなんだったっけな…。今の会社でどんなことをしてるのか、なんとかやってるよ、など、私からはまるで墓前で手を合わせながら頭の中で話しかけるようなことをぽつぽつと話した。
コロナ禍以降お正月の集まりもなくなってしまい、会えなくて寂しかったから久々に会えて良かったと伝えると、祖父は嬉しそうに目尻に皺を寄せて笑顔で頷いて聞いていた。
15分しか面会できないので、時間が来て、お大事にね、じゃあね、と病室を出た去り際、振り返ると祖父がこれで会うのが最期と悟っているかのような目で、こちらをじっと見ていた。あの目がずっと忘れられない。
祖父自身、今回の病気が寿命だということをわかっていたように思う。母が1人で面会に行った時も、戒名の話や家をどうしてほしいかなどの話もしていたようだ。
死を待つだけの状態で、日に日に弱り、体を動かすことも、食べることも話すことも意志を伝えることもできなくなる状態を、祖父はどんな気持ちで過ごしていたのだろうか。絶望と恐怖でいっぱいの入院生活ではなかったろうか。心中を察しては暗澹たる気持ちになる。改めて死ぬと何もできなくなる、本当の終わりなので、生きているうちに、できるうちに愛を伝えたり食べたい物を食べたりやりたいことをせねば、と思った。

数年前に亡くなった父方の祖母も、最後に会った時同じように遺言のようなことを言っていた。会社は続けろ。など。ただ昭和の価値観のアドバイスだったので今は転職が不利にならない時代だよと私は返した気がする…。笑 祖母は孫たちが誰もグレずに育ってよかった、人生頑張った、悔いはない的なことも言っていた。

2回の面会とも、祖父は強い力で私の手を握りしめて握手してくれた。手はとても熱かった。言葉で言い尽くせぬ思いがその強い握手と熱に籠りに籠っていた。
昔老人ホームで実習した時も、最終日ご老人が力強く握手してくれたっけな。そんなことを思い出した。握手に魂が籠っていた。

祖父の最後の言葉は「ありがとう」だった。
2回目の面会の時に、母が家のことはやってあるから心配しないでね、や、私が遠くからはるばる来たこと、など、そんなようなことを祖父に話したときの言葉だったと思う。私の方を見て祖父は、筋肉が衰えて碌に発音できなくなったしわがれ声で、実際にはあひはと、みたいな感じだったけれど、はっきり私の目を見て、「ありがとう」と言った。それがまるで最後の言葉みたいで、また死を実感して、そのときぶわっと涙が溢れたのを覚えている。
2度目の面会の時は祖父はお味噌汁ないの?としわがれ声で言っていて、食への執着は生きる力だなあと感じさせられた。母が治ったら食べよう、と優しい嘘を祖父に言うと、祖父は心から嬉しそうな笑顔で頷いていたのも印象に残っている。

葬儀と納骨の日(同日)は祖父同様コロナ禍以降会えていなかった母方の祖母に久々に会えた。認知症がだいぶ進んでいて施設に入っている祖母は、身内のこともかなり忘れていると聞いていたが、私が名乗ると両目を見開いて「!」という顔をして、笑顔で両手を握って飛び上がって再会を喜んでくれた。久々の祖母の姿を見ては私はまたびゃっと涙が滲んだ。
葬儀の最後、棺に花をたくさん入れるときに、
認知者の祖母が棺で眠る祖父の顔を見て、途端に慟哭といえるほどの号泣をした。意味がわかってしまったのか、、とその瞬間、私含む数人の身内もつられて号泣した。もらい泣きせざるを得なかった。号泣する時って喉の鼻の奥あたりが震えるんだよね。しくしく泣くのとは構造から違う感じ。
パートナーの死って人生でトップレベルのストレス値の出来事のはずで、祖母の辛い気持ちは計り知れない。

大切な人の棺の蓋を閉める瞬間、
火葬場で見送る瞬間、
この二つは人生でもトップレベルで辛い瞬間だと身をもって知った。
火葬場で炉に棺が入って扉が閉じられるその瞬間まで、私は心の中で「いかないで」と叫び続けていた。火葬場でも泣いていた人は私1人だった…。こんなに行かないで、と思う死は初めてだったかもしれない。故人が心残りなく旅立てるよう、感謝の気持ちで見送らないといけないのに。

火葬の後、食事を終え式場に戻り、待合室で一族で軽く話しているときに、祖母が祖父の遺影から「悲しくなるから見たくない…」と顔を背けつつ、隣の私に「でも夫に先立たれた人はみんなこの辛さを味わってる。自分だけじゃないから耐えなきゃね」と、前を向いていた。式と火葬の当日のうちに、そう思える祖母の強さに感嘆した。あれほど慟哭していたのに。戦争を乗り越えた人、昭和の人は強いなと思った。

帰りは祖父母の家にいつも遊びにいっていた時のように、私が乗ったタクシーが見えなくなるまで、祖母は両手を振って笑顔で私を見送ってくれた。普段なかなか会えていなくても、離れて暮らしていても、自分には大切に思ってくれていて繋がりのある家族が確かにいるんだと久々に思えた。葬儀の日は悲しくも、心温まる一日だった。

心温かな祖母が次亡くなってしまったら、また同じくらい辛い日がやってくるのだろうけど、祖父母に縋りたくなる気持ちを少しでも減らせるようしっかり生きないと、と思う。


命日や火葬場の事情で、元々決まっていた新婚旅行の前日に葬儀になった。つまり、私は葬儀の翌日からハネムーンという非人道的なスケジュールをこなすことになった。
行きの飛行機の中で祖父のことを考えると湧水のように涙が吹き出たし、旅先で瞑想をしては涙が滝のように噴出して、とても旅行どころではないよ…といっぱいいっぱいな気持ちだったが、不思議と、旅行3日目くらい、祖父の死からちょうど1週間が経った頃から急に感情のデトックスが終わったのか、ピタッと気持ちが落ち着いて、整った感覚になった。
旅先がインドネシアのバリ島ということもあって、何も急かされることなく、癒される空気感で、そのままで居るだけでいいんだよ、と言ってもらえているようで、グリーフケアの旅としても良い場所だった。何もしないでただ外でのんびり寝転んでいるだけで、CBD摂取後のようなチルさが味わえて、お香を焚かなくても瞼を閉じるだけで瞑想にそのまま入れるし、そんな癒されるリラックスに満ちた空気感がバリにはあった。
辛いことや悲しいことがあった時のデトックスや癒しの旅先として、バリ島は本当おすすめ。

これから先もきっと祖父母の家を彷彿とさせる古民家や田舎を目にするたびに思い出しては寂しく恋しくなるのだろうし、そう簡単に短期間で悲しみが癒えることはない。それだけ唯一無二の大切な存在だったのだから。その湧き出る感情を無理に否定する必要はないと思う。
目の前の日々の日常を懸命に生きて、物事の負の側面に囚われすぎず、目の前にある大切なことや有難い側面をきちんと受け止めて、
時々故人を思い出して、
感謝の心を持ちながら、やりたいことを存分に悔いなくやって生きていけば良いのだと思っている。
あとはこんな時だからこそ食べなきゃ、と思って今は普段以上に食べるようにしている。

自分が死を迎える時、祖父のようにあんなふうに見送ってもらえるのかな。祖父はすごいなあ。

胸いっぱいの悲しみが、時間と共に溢れんばかりの感謝の念に変わり、未来を力強く生きていける糧になることを願う。地に足つけてちゃんと生きるのみ。頑張って生きるぞ。


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ネキ
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