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Richard Davisインタビュー(1993)1/3

今回はジャズベーシストのRichard Davisのインタビューを約しました。

翻訳元の記事↓

それではいきましょう。

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Richard Davis, ジャズ界のコントラバスの名手のひとりだ。今日87歳の誕生日を迎えた。
私は1993年にWKCRでこの巨匠を接待する特権を得た。その模様は以下に掲載してある。私たちの時間がもっとあれば、と思うばかりだ。
もしもっと時間があったら60年代や70年代の話ができたし、このインタビューではSarah Vaughanとの月日のことを話していない。しかしRichard Davisを形作ったChicagoシーンについての彼の証言をシェアできることをうれしく思う。

イ: Richard Davisは1960年代にChicagoからアメリカ全土のシーンに現れた才能あるミュージシャンのひとり。あなたはジャズとクラシックのエリアをカバーするミュージシャンだよね。両方の領域のキッカケはChicago時代の楽器教育にルーツがあるの?

RD: その通り。おれの高校の先生のWalter Dyettは彼自身のバックグラウンドをの典型をしっかり持っていたし、世界で人気を博していた。彼のアプローチは完全に世界に向けたものだった。

イ: 彼はコンサートバイオリニストだったと記憶してる。

RD: そう。それに彼はErskine Taleバンドでバンジョーを演奏したりもしてたよ、あとピアノも。Walterのバックグラウンドが彼を形作ったんだ、わかるか?すべてのタイプの音楽だったりさ。彼は自分の教え子にそういうことを教えたり、勇気を与えることをやっていたんだ。

イ: 今彼はDuSable High Schoolで音楽教師やってるんだっけ?

RD: そう。

イ: たくさんの他のエリアのプロミュージシャンやジャズソロイストなどの人々がそこから排出されたよね。

RD: Oh yes.

イ: あなたがいたとき有名だった人は誰?

RD: Okay. あの高校の新入生だったら、前から音楽で知られている人との学校生活さ。彼らはかなり有名だったし成功していた。だから新入生は自分にフィットする立ち振る舞いを知るんだ。Dinah Washingtonもいたな。Milt Hintonも以前はDuSableに通っていた。

イ: Phillips High だと思うよ。

RD: Milt Hintonは創立したときのWendell PhillipsとDuSableに通ってたんだよ。New Wendell Phillipsって呼んでたと思う。だけど後に名前がDuSableに変わったんだ。Chicagoではかなり有名な学校さ。

イ: Chicagoの立役者であるJean BaptisteはDusebleだよね。

RD: Yeah, 彼はChicagoに根を張った第一人者だね。

イ: 僕が思うにMilt HintonはMajor Nで有名になったと思うんだ。Phillips HighでずっとバンドマスターをやってたのはClark Smithだったと思う。

RD: それ初めて知ったよ。おれは知らない。だけどサウンドはかなり理論的なんだよね。後にGene AmmonsやJohnny Griffin, Clifford Jordan, Joseph Jarman, Leroy Jenkinsがそこに所属した。もっと名前を挙げることができるけど、それでも今日有名な人の半分にも満たないのさ。
だけどあれって彼が創り出した類のモノだろ。ジャズミュージックに対して純粋なプロフェッショナルなアティチュードってわけだ。彼のアプローチは人々に届けるためにやりたいことを信じるようミュージシャンに覚悟を決めさせたのさ。

イ: 彼はバンドを作ってもいたよね。学校外のバンドだったと思うけど、キッズがそれに加わって、実質プロのミュージシャンとして活動してたよね。

RD: Oh yeah, おれは彼のバンドでやってたよ。

イ: そのことを教えて。そのバンドはどんな曲をやってたの?

RD: おれが彼のバンドでやってたのはほとんどクラブのダンスだったね。だけど彼はジャズをプレイして、人々はそれで踊るんだ。なぜならビッグバンドだったから。おれは近くにあった他のバンドでも演奏したよ。Eddie Kingは同じタイプのバンドを持ってたし。だけどWalter Dyettのバンドでおれは働いた。それから...

Walter Dyettは教える場を絶対に離れなかったよ。彼の周りにいる人間はただ座って耳を澄ますんだ。彼の教えは自分の人生に意味がある何かだってことを理解してたからね。
おれが高校を卒業した後、そのずっと後にDyettは亡くなった、1968年だったと思う。おれが高校を卒業したのが'48年だから、その20年後だね。20年間彼から学んでいたんだ。
DyettはNew Yorkを訪れていたよ、至る所に出没していた。そして彼はいつだって楽器のことで悩んでる人への指導やポジティブなことを話していた。Dyettは20分ぐらいおれらをバンドルームに座らせて話すんだ、その間楽器を触ることは無い。おれらは楽器について教えて欲しいことを話すんだよ。DyettはそれをMind Powerと呼んでいた、ファンタスティックだぜ。

イ: あなたはベースプレイヤーになることを選んだのか、高校に入った時点からベースをやってたの?

RD: No, no. おれが彼にベースを教えて欲しいと頼んだんだ。

イ: 何が魅力的だったの?なんでベースプレイヤーになりたいと思った?

RD: おれの一番の親友Emest Jonesがバンドにいたんだ。毎日家まで一緒に歩いていた。彼とは帰る方向が一緒だったからね。彼がおれに話すことと言えばすべてバンドルームでやっていることさ、小節のカウントや空白とかについてね。Emestが家で練習してる間、おれは彼を見張っていた。彼がやってることをひたすら見るんだ。そしておれは "やべえな、ハマっちまったぜ" と言った。とにかくおれはベースに惹かれていたのさ。だからおれはバンドルームに行って、おれも入れてくれって言ったんだ。

イ: 子供のころにレコードを聴く機会があったの?

RD: Yeah!

イ: Chicagoのバンドを観る機会は?1930年代や40年代のChicagoにはたくさんの音楽があったよね。

RD: テレビなんて無かったからね。家にじっとしているなんて耐えきれなかったんだ。いろんなことやったな。おれの場合は家から4ブロックのとこにあったRegal Theatreに行っていた。誰もが教えを乞いたいバンドがRegal Theatreに勢ぞろいしてたんだ。そうして彼らのライブを見るんだ。そうしてできるだけ長くRegal Theatreに溜まるんだよ。だって一回の入場料払ったら時間の許す限りそこにいるもんだろ。

イ: あなたもそんな感じだったの?

RD: Oh Yeah!

イ: あなたのお目当ては誰だった?

RD: 素晴らしいバンドすべてだね。Duke Ellington, Count Basie, Jay McShann, Lucky Millinder.... そこに出演していたバンドだね。

イ: Jimmy Blantonを見るチャンスはあった?

RD: 彼は1942年に亡くなっている、おれはそのとき12歳だぜ。今おれはレコードで彼のプレイを聴くことができるけど彼のことは思い出せない。当時おれを家に連れて行ってレコードを聴かせてくれる年上の友達が何人かいたんだ。特におれが遊んでいたのはKarl Byrom。彼は普通の高校生より年上だった、留年してたから年上だったんだよ。それはおれにとっては運が良かった、彼はおれの面倒を見てくれたからね。Karlは家にあるファンタスティックなレコードたちを聴かせてくれた。Oscar Pettiford, Milton Hinton, Jimmy Blanton。

イ: これらの人たちが最初にベーシストとしてあなたをインスパイアしたんだね。

RD: Oh Yeah. 素晴らしいフィーリングだったよ。そこに座って先輩ミュージシャンのプレイを聴いてさ。
Johnny Griffinがシニアだったとき、おれは新入生だった。おれはフットボールグラウンドでクラリネットを演奏してるJohnny Griffinを見た。マーチングバンドとかそんな感じだったりね。おれらがブースターコンサートと呼んでたものでLionel HamptonがJohnny Griffinを聴いてたのを覚えてるぜ。
フットボールシーズンの開幕を受けてジャズバンドが演奏したんだ。Lionel Hamptonがそんときのゲストアーティストだった、それでJohnny Griffinがソロで目立っていたのを聴いたってわけだ。ステージが終わるとすぐにJohnnyを呼んだ "Hey, お前が一番だ" ってね。

イ: 今あなたはビバップ移行期のジェネレーションにいるわけだけど、これらのレコードが発売されたときあなたはティーンだった。Clifford Jordanが「Red Cross」を聴いてるってことを話してくれたのを思い出すよ。

RD: Uh-huh.

イ: 彼はそれが「Red Cross」だってことを知らなくて後で知ったんだって。だけどあれがClifford Jordanの方向性を決めたんだ。あんな感じのレコードはあなたにビッグインパクトを与えた?

RD: Yeah. 最初聴いたときは大嫌いだったよ。だっておれはそんころboogie-woogieベースラインの演奏の仕方を学び始めたばっかりだからな、あとスウィングの時代だったし。レコードからよくを学んだ、そこにChaelie Parkerが現れたんだ。"God!" って感じだったよ。だけどあれがあの時でほんとラッキーだったよ。それがおれの成長につながったんだ。「My Old Flame」の78回転を何度も何度もプレイしたのを覚えてる。Tommy Potterがベースで何をやっているのかを見つけるためにね。

イ: Ray BrownがDizzy Gillespie Big Bandは聴いた?

RD: Yeah! それからCharlie Mingusね。全部聞いたよ。

イ: 全部だ。

RD: あるときからおれがやりたかったことを知ってどっぷり漬かったっていう意味ね。古いジャズマガジンをたくさん読んだりしておれがプレイしたかった音楽のルーツを調べたんだ。それから膨大な量の音楽コレクションを聴き始めた。いろんな人の家に行ってレコードを交換したりもした。Jimmy Blantonのレコードを何枚か友達から借りてレコーディングスタジオに持って行った、そこで作ったコピーを今でも持ってるぜ。

イ: 今、僕が25年くらい前のDown Beatに掲載されてたあなたの記事を思い出したんだけど、Calumet Cityでのサーキットについて話してるやつ...

RD: Heh... Yeah!

イ: ... 高校卒業後のChicagoでのすべてのギグは間違いなくあなたがChicagoで得たすべての経験だよね。あなたはクラシックのトレーニングをやっていたように思えるけど....

RD: Mmm-hmm

イ: ブルースやboogie-woogieギグをプレイしたり、ビバップだってそうだね。ジャンプバンドだったり全てのことを。

RD: Mmm-hmm.

イ: Chicagoはどうだった?

RD: Yeah.Chicagoにはいろんな音楽があったよね。朝の5時とか6時だろうがジャムセッションに行けたんだ。ブレックファストジャムセッションが始まったのもこのころだし、それらのセッションでおれが偉大なIke DayIke DayとWilbur Wareにあったのもそのころ。居合わせた人間は音楽から包み込まれる体験をしたんだ。音楽の扉がすごく広く開かれてたのさ。

おれのお母さんがNew Orleansからレコードを持ってきたこともあったことも言っておかなくちゃいけないな。1904年のレコードを持ってるぜ。わかるか?RCA- Victorでレコーディングした腕のあるミュージシャンたちさ。もちろんおれのお母さんはLouis Armstrongの作品を持ってたし彼らと同い年だったよ。

イ: お母さまはNew Orleans出身?

RD: Yes. New Orleansの外れにあるLouisianaのHomeに住んでた。

だれもがClub DeLisaに行ってビッグバンドショーなんか全部を聴いたもんだ。Joe Williamsとかいろんなボーカリストをね。友達とジャムったりもしたもんだぜ。友達の家に行ったりしてね.... ちょっと昔の写真を見てた。おれはいくつかプロモを配らなきゃいけなかったからね。おれんちでSun Ra, Jimmy EllisとCharles Hinesとおれがリハーサルしてるところ。

イ: 僕がコメントしたい名前を言ったね。まず最初にWilbur Ware。かれは当時のChicagoですべてのベーシストに影響を与えたと思うんだけど。

RD: Yeah,彼はキングだったよ。マジで尊敬してるしマジでキングだと思ってた。なぜなら個人的に彼とたくさん遊んでいたからね。今のWilburはオールラウンダーのベーシストだ。かなりの天才だよ。ただ健康の理由で表舞台にあまり現れることができなかったんだ。わかるか、New Yorkに打って出ようっていう空気だよ。思い出すぜ... 自分たちの高校にJimmy Blantonがいるみたいな感じだよ。

イ: 彼はストロングだったね。

RD: Oh, 彼はストロングだった。Jimmy Blantonの全てのレコーディングを聴けばわかるけど、彼はノートを知っていた。Slam Stewartもそう。それに加えて独自のやり方を持ってるんだ。ただ単に彼が好きなんだよ。

以上です。

続きは来週アップします。

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