覇者は自ら倒れる
自分でも意外なことに、ヘミングウェイが好きである。と言っても、その作品をたくさん読んだわけではない。私が好きなのは『日はまた昇る』と『武器よさらば』に限られている。とりわけ好きなのは『日はまた昇る』で、4,5回は読んでいるだろう。
どこが面白いのかと言われても、説明がむずかしい。若いアメリカ人の新聞記者(ヘミングウェイ)がパリでメシを食べワインを飲み、夜ごとに若い男女と羽目をはずす。バカンスでスペインに行き釣りを楽しむ。パンプローナで闘牛に夢中になり、複雑な恋愛関係があり、破局を迎えパリに戻るという話だ。
それがどうした、と言われるとその通りだ。どうしようもない〈力〉の浪費の物語である。
登場人物にはそれぞれ実在のモデルがいたという。R・コーンはアメリカから来た裕福な男だ。好きな女性への嫉妬から、スペインで闘牛士を殴り倒してしまう。コーンは決して人柄も悪くないのだが、どこか鈍い気の利かない人間として描かれている。作者の描き方には、この主人公の友人を小馬鹿にしたところがある。しかしコーンへの冷ややかさというのは、当時のヨーロッパがアメリカに向ける視線であったろうと私は勝手に想像する。リッチで、明るくて、善良なのだがどこか間が抜けていて、何かが通じない。
ヘミングウェイは晩年に、この若き日のパリ時代を回想して『移動祝祭日』を書く。そのために、何十年も前に別れた最初の妻ハドリーに電話をかけて記憶を確かめたという。ハドリーとは彼自身の不倫が原因で別れたわけだが、回想録の草稿には彼女への思慕が多く綴られていた。しかし出版の際には、最後の妻(4人目)がその大部分を削除したと言われている(ヘミングウェイ本人はすでに猟銃で自殺していた)。
ヘミングウェイは魅力的な人物だったに違い無いとは思うが、勝手な男である。物心ともに支えてくれた最初の妻を裏切り、志願してスペイン内戦に参加し、アフリカで狩猟をするかと思えば、最後はキューバ沖でバラクーダ釣りをして4人目の妻と暮らした。その派手な人生は私のような平凡な人間のそれと、似ても似つかない(たいていの人と似ていない)。
自尊心が高く、基本的に身勝手で、弱い者には冷淡さを隠すことができない。この〈弱さ〉への向き合い方が、同時代のフィッツジェラルドとヘミングウェイでは違う。ヘミングウェイは強くあることを志向し続け、自身の欲望を満たすべく冒険に満ちた人生を歩むのだが、なぜか憂鬱から逃れることができずに自ら終わりへと向かっていった・・。私にはアメリカそのものに見える。
ところで日本人の作家にもかつて、ヘミングウェイばりに旅と釣り、そして美食を愛した男がいた。故開高健である。と言っても2人の作風はまったく異なる。削れるものは削り落とすことで本質を描くことをセザンヌから学んだというヘミングウェイと、味覚・嗅覚・触覚を総動員して比喩を積み上げていった開高健ではまるで違う。ただ、勝手な男であったというところが同じだ。
開高には40才頃に発表した『夏の闇』という代表作がある。ほぼ実体験を題材としたと思われる小説だ。パリの下町で内蔵料理を食べる快楽や、ドイツの重厚な森や川釣りの描写は、何度読んでも惹かれるものがある。そして作中では、愛人との濃密な性の行為がくり返し描かれている。開高健を担当した編集者が何かに書いていたが、この作品を発表した後に自宅を訪れると、氏と家族との関係は非常に険悪で、開高も辛そうだったという。
当たり前だ。
それ以降、開高はますます旅にのめり込み、『オーパ!』『もっと遠く!』などの話題作を次々と世に送り出し、時代を表象する文化人のような存在となった。作家人生としては良かったのだろう。
私の人生とは似ても似つかないという点では、開高健もヘミングウェイと同じだ。ところが私は彼の作品もまた、大好きだ。先述した『夏の闇』と短編集『ロマネ・コンティ1935年』は、どちらも愛読書だが、先だっても再読した。
そのとき私はあらためて思い知らされた。かつての日本は、なんと豊かだったのだろう。それに胸が締めつけられる思いがした。ここにあるのは、コスパ、タイパ、ファスト教養、早送りで映画を観たり本の結論部を最初に読む(ことが求められる)社会が登場する以前の人間の営みである。無駄と、愚かしさがある。
もっとも、これが旧い人間のセンチメンタリズムということも承知している。
話が逸れた。開高健には『輝ける闇』というもう一つの代表作がある。高校生の時に一度読んで、いつか読み返したいと思っていたのだが、先日この作品を再読した。
1960年代前半、開高はベトナム戦争を取材した。従軍記者だった彼は、行軍中にベトコンの奇襲に遭う。戦闘は熾烈を極めた。総勢200名の米軍部隊は敗残を重ねて撤退するが、10数時間後に生き残っていたのは、20人以下だった。開高はその1人だった。『輝ける闇』はこの体験から生まれた傑作である。
こう書くと戦闘の記録のようだが、決してそれだけではない。作家は共産主義勢力の怖さも西側世界の偽善も冷静に見透し、当事者ベトナム人の賢さと耐える力を見事に描いている。英訳され、ニューヨーク・タイムズでも高く評価されたらしい。
作品の後半に、アメリカ人でクエーカー教徒の男が登場する。老人はボランティアとしてサイゴンにやって来た。軍の病院で奉仕活動をしているが、絶望に押しつぶされそうになっている。彼は言う。「我々アメリカ人はここで恥ずかしいことをしている。キリスト教徒なのに、汝の敵を愛せよという言葉を忘れてしまった。恥を知らない時代を生きている・・。」
老人は結論を吐き出す。「簡単な算数だ。アメリカ人を引けば良い。戦争はそれで終わりだ。我々は今、無知と偽善の罰を受けているんだ。この戦争は、アメリカの倫理にとっての致命傷だ・・。」
こんなセリフが書かれていたことを、まったく覚えていなかった。開高健がサイゴンのアメリカ人に語らせたベトナム戦争の姿は、その後のイラクにもアフガニスタンにもそのまま当てはまったのではないか。「簡単な算数だ。アメリカを引けば良い。それで戦争は終わりだ。」
今はどうか。アメリカが武器支援を止めても、イスラエルは今と変わらずにガザでの虐殺を続けるのか。できるのか。
ハマスは悪くないというのかという声が挙がるだろうが、そんなことを言っていない。武力による侵攻と民間人への攻撃は一切擁護しない。ロシアであってもアメリカであっても、それが中国であっても同じだ。私は自分の立場を特別だとは思わない。どんな理由があれ殺すな!と考える市井の人々はたくさんいる。
力は衰えてもアメリカは世界唯一の覇権国家である。その他の大国は、アメリカという覇者への挑戦者だ。誰よりも戦う力において勝る覇者を、武力で倒すことはできない。負けることを想定しない覇者は、次々と敵を見つけ出して戦いに出かけて行く。自ら出かけるのだ。それでいて覇者は、覇者であることに常に不安を抱えている。
感謝もされず、信用もされず、嫌われる。憂鬱にもなるだろう。そんな覇者を倒すことは誰にもできなくとも、いつかは自分で倒れてしまうことを私は想像する。私たちは今、アメリカという覇者がゆっくりと倒れていくのを目撃しているのかもしれない。