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『 日暮硯』を読む

聞き書き『日暮硯(ひぐらしすずり)』は、江戸後期に松代藩(現在の長野県長野市周辺)の財政改革にとり組んだ家老・恩田杢(おんだもく)の功績の記録である。

恩田杢について興味を持っている人間というのは、今では珍しいだろう。新聞などの大きなメディアが杢を取り上げることは、ほとんどない。しかしかつて、昭和の高度成長期と平成初期までは一定の関心を持たれていた人物だった。
1970〜90年代には恩田杢の改革を検証し、彼を再評価する本がいくつか書かれている。歴史家や杢の研究者ばかりではなく、山本七平や堤清二のような著名な評論家・文学者も杢について興味を持っていた。

さらに、堤清二は丸山真男も恩田杢に関心を持っていたことを記している。堤が丸山真男との会話の中で、じつは『日暮硯』の現代語訳を進めようかと迷っているのですと言うと、丸山はこう応えたという。「あれは面白いよ。松代藩は僕の郷里だからよく読んでいるが。」

堤によるとこの丸山の言葉が、彼の背中を押した。そして堤清二の現代語訳『日暮硯』が世に出ることとなった。堤はこの本に長文の解説を書いているのだが、これがとても面白い。

このように、かつては研究や調査の対象となっていた恩田杢と『日暮硯』だが、次第に人々から忘れられていき、今ではほとんど関心を持たれない存在となった(学者の研究動向については、私には分からないが。)

私はこの恩田杢と彼の行った政治に興味があり、少しずつ彼のことを調べている。と言っても私は学者でもなく原資料を読めるわけでもない。一般的な書籍を読むだけだが、私にはそれで十分であり、入手可能な本を買い求めて読んできた。

まずは『日暮硯』の内容についてかんたんに紹介しよう。全文を読みたい方は岩波文庫にあるので、そちらを読んでほしい(短いのでそう時間はかからない)。

概要は以下のようなものだ。
 
松代藩で最年少の家老だった恩田杢は、破産寸前の藩財政の立て直しの命を受ける。いくら主君の命令とはいえ、自分より年長の家老が並み居る中での改革は不可能に近い。杢は何度も固辞するが、若い藩主は聞き入れない。

そこで杢はひとつの条件を願い出る。改革の進め方については彼に任せる、という一任を取り付けた。藩主は家老全員の前で、藩財政改革は恩田杢に一任することを明言した。ここから彼の常識を超えた改革が始まることになる。

杢は老中職・城の役人・農民と町民の代表を呼び、彼の進める藩のこれからの施策を告げた。このとき集められたのは、農民だけで200名いたと言われている。

杢はまず、今後いっさい城からは年貢の取り立てに出向かないと宣言した。当時松代藩には千人ほどの足軽がいたが、その大半が未納年貢の取り立てと称して村に出向いていた。彼らは長く村に滞在して酒と食事を強要し、女性を求めるということが常態化していた。村はこのことに困り果てていた。

杢はこの武士のたかりのような行為を一切禁じた。破れば厳罰である。そのかわり、農民側は年貢を必ず納めること。また、村に足軽が出向かない代わりに、村人の方から年貢を城に持ってきて納めてほしいと打診した。
全ての村が喜んでこの申し出を受けた。

じつは村に長逗留する足軽側にも、言い分があった。長く財政難が続く松代藩には、これまでも改革にあたった人物が幾人かいた。この杢の前任者たちは、財政改善の名目で武士の給与を減らし続けてきていて、彼らの給与はかつての半分にまでなっていたのである。一番困るのは給与の低い者たちだ。言葉は悪いが、足軽たちが村人にタカルのにも理由があったのだ。

杢は会議の場で、武士たちの給与を以前の額に戻すことを約束した。ただし、働きが悪い者には必ず相応の処分をするので、城の仕事に励んでくれと宣言した。給与が元に戻るならば、彼らに反対する理由はない。

城出入りの商人たちに向かっては、これからは一切の付け届けは必要ないと宣言した。賄賂の授受は、今後は厳罰である。
 
ここからは杢の政治手腕の真骨頂である。
農民の中には年貢を未納していた者たちもいたが、彼はこの未納分をチャラにした。いわば返済不可能となっている負債を清算して、再起する機会を与えたといえる。そして今年からは必ず年貢を納めることを約束させた。

次はさらにすごい提案である。
当時、余裕のある農民の中には、城側に請われて1年2年先まで年貢を先衲している者たちがいたという。杢はこの分もチャラにする提案をしたのだ。つまり彼らに、今年も税金を払ってくれと言ったのだ。

このとき、末席とはいえ家老の杢は農民たちに向かって「これは城からの〝無心〟だが、受けてくれるか」と問いかけたと、日暮硯には記録されている。農民は、この申し出を受けた。

藩の政治が荒ぶと、不正が横行する。当時の松代藩も例外ではなかった。家計の苦しい武士たちにたかられていたのは農民ばかりではなく、商人も同じだった。杢は集まった者たちに、これまでの城からの不正行為を紙に記せと言い、それを見るのは殿様一人だけだと付け加えた。

記録(日暮硯)によると、武士たちがもっともざわめき立ったのは、このときだったという。城から村に帰った人々は積年の恨みを書いて、主君にそれを提出した。

後日、杢は藩主の許可を得て、切腹もあるかと動揺していた彼らを無罪放免とした。それだけではない。私の改革に力を貸してくれと言って、部下として彼らを重用した。その効果はひじょうに大きかったという。
 
このようにして恩田杢は藩の改革を進めた。残念ながら彼は過労により、このあと5年ほどで46才の若さで亡くなってしまう。しかしその功績を後世に伝えようと、彼の言葉が残された。それが『 日暮硯』である。

研究や検証が進んだ現在では、じっさいには『 日暮硯』のとおりに改革は進まなかった点が多々あることが、分かっている。

松代藩の財政は5年で建て直しできる状態ではなかった。今後はしないと杢が約束した武士の給与削減は、完全に撤廃ができなかった。農民と約束した労役への狩り出し廃止も、一部にとどまったという。

しかし、杢の意志を継いだ部下たちにより改革は継続され、彼の没後しばらくしてから藩財政が大きく好転したこともまた明らかになっている。成果を上げることに尽力した後進の部下たちは、藩からの報償を受けた。また、領民の教育を重視したことが実を結び、この地はのちに佐久間象山を輩出する。

なにより一揆が起きなかった。ずっと後になって一揆が起きた時、農民がムシロ旗で訴えたのは「 杢さまの治世にもどれ」だったという。

江戸後期の藩政の改革者として今でも有名なのは、上杉鷹山だろう。彼は恩田杢の少し後の時代の人間だが、そのころすでに杢のおこなった政治は注目されていたという。鷹山は『日暮硯』を愛読していたと伝えられている。

『日暮硯』 研究の第一人者笠谷和比古氏は、こう記している。
藩政の改革ではつねに激しい対立と家臣団の主君からの離反があるものだが、「 ここに見られるのはまことに大らかで穏やかな改革の営みであった。本当にこれが同じ時代の出来事なのかと疑うほど、激しい対立も出てこなければ、権力獲得を企てる陰謀も策略も存在しない。」

同じく歴史家の奈良本辰也氏も「 杢が果たせなかった約束は幕末まで続いたものもあるのに、一揆が起きていない」と書いているが、私もこの点にとても興味がある。杢が5年の改革の中で成せたことは、じつは少なかった。守れなかった約束がいくつもあったのだ。にも関わらず領民は一揆を起こすことなく、藩政の改革に力を貸してくれた。

奈良本氏は、それは政治の姿勢だという。笠谷氏も、杢は温情があり条理を尽くしたとその姿勢を評価する。

たしかに、それは間違いない。改革を始めると、本人ばかりか妻子や使用人のすべてが一汁一菜でとおし、木綿の服しか着ないという清廉の見本のような人物である。異論を挟みがたいということもあったろう。

他の研究者や作家もみな一様に、清廉・率先垂範・対話を重視する杢の、ある意味「 民主的な姿勢」を理由としている。

そんな中、堤清二は「あまり我々の時代に引き寄せることは疑問だ」と述べている。学者ではなく企業経営者だった堤氏が他と見方が違うところが、面白い。わたしもそう思う。

それでは恩田杢の何が注目に値するのだろう。堤清二や、やはり経営者でもあった山本七平が注目したところはどこだったのだろう。次は少しそこを考えてみたい。
 

 

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