90歳で亡くなった父のこと
生前、父から戦争の話を聞いたことがない。
父は6年前の8月に亡くなった。葬儀の前、故人略歴を確認するために私は叔父に「父が徴兵されて戦争に行ったのは、何年だったのか」と訊いた。すると、それは違うという返事が返ってきた。「兄貴は志願して戦争に行ったんだ」と叔父が言ったとき、私は心底驚いた。父が志願して戦争に行ったなどとは、まったく考えたことがなかったからだ。
「兄貴は泳ぎが上手くて海軍に行きたかったんだが、その試験に落ちたんだ。それで次は陸軍に志願して、今度は受かった。馬に乗るのも上手かったから、騎兵に志願したんだよ。それで兄貴は騎兵になって、中国に行ったんだ。」
何もかもが驚きだった。父は泳ぎが上手かった?馬に乗るのが得意だった?それで志願して軍隊に入って戦争に行った?父からはそんな話を1度も聞いたことがなかった。
大正15年(昭和元年)生まれの父は、皇国教育を一身に受けた世代なので志願して兵隊になっていたとしても、本当はそれほど不思議ではない。しかし、戦後の生涯を一貫して左翼として生きた父しか知らない私には、戦争に志願する父の姿など全く想像できなかったのだ。
ちなみに、三島由紀夫は大正14年の生まれで、父より一才年長だ。この世代にとって、戦争体験の有無は決定的だ。三島(と、その父親)が検査不合格を密かに期待して、住んでいた東京ではなく、わざわざ屈強な青年が多くいる田舎で徴兵検査を受けたことの顛末は、『仮面の告白』の中で三島本人が「告白」している。戦時には戦場に送られるのを忌避しようとしたが、戦後になって派手な自死に向かって突き進んだ三島と、志願して戦地に赴いたが戦後は平和主義者となり、自分は100才まで長生きをするというのが口グセだった父とは、何もかもが対照的である。
話がさらに脱線するが、私が父といつも較べてしまう物書きに吉本隆明がいる。吉本は三島よりさらに1才年長にもかかわらず、やはり戦争に行っていない。文学青年だった吉本の兵役が遅れたのは「父親の強い勧め」で渋々と理科に進んだためで、やがて戦争が終わってしまったのだというのが、吉本自身による説明である。
若き日の吉本は、人を批判するときの激しい物言いで名をはせた。父が所属していた左翼政党のことはバカの集まりだと言わんばかりに罵倒し、嘲笑した。私はいつからかこの激烈な口撃の裏側には、吉本の戦争へ行かなかったことへの負い目が潜んでいるのではないかと、勝手に推測するようになった。だから小熊英二による容赦ない吉本批判を『民主と愛国』で読んだときは、私と同じような疑念を持つ人間がいるのだと、初めて知った。
話をもどそう。
父の父、つまり私の祖父は皇室を敬愛する明治の人だったという。これも叔父から聞いた話によると、近隣で結婚する者がいると、祖父からの若い夫婦へのお祝いは決まって天皇ご一家の写真だったそうだ。そんな祖父にとって、長男が志願して兵隊になったときは誇らしい気持ちだったのだろうか。それとも本心は悲しかったのか、今となっては分からない。
戦争が終わり、若くして左翼の活動家となった父は家を勘当され、仕事も辞めて故郷を離れた。そしてこの町に落ち着き、母と結婚してやがて私が生まれた。
父からの知らせで私が生まれたことを知った叔父は、ひそかに1人でその様子を見に来て、室蘭に戻ると、祖父に孫が生まれたことを告げたそうだ。祖父は私の顔を見たくて堪らなくなったらしい。国鉄で8時間かけて、この町までやって来た。そして10年に及んだ勘当を解き、以降は孫の顔を見るために、しばしば訪ねて来るようになった。
あれは私が小学校に上がる前のことだったと思う。ある日母が家までの帰り道で、今日は家におじいちゃんが来ているからねと言った。それまでも何度か来ていたらしいのだが、私の記憶ではこのときが自分に祖父がいると認識した時だった。
短髪で白髪の祖父は無口な人で、父や母と会話を交わしているのを見たという記憶がほとんどない。孫として可愛がられたという思い出もまるでなく、静かに日本酒を飲んでいる人だった。飲んだあとは、子どもの私より早く寝ていたように記憶している。
祖父が室蘭に帰るという日、私は母に手を引かれて駅まで見送りに行った。当時は駅のホームの後ろはすぐ海で、小さな駅のホームは人でごった返していた。列車に乗り込んだ祖父は運良く座る席を見つけて、窓越しに私たちの顔を見ることができた。私は、寂しいとも何とも思わなかった。
列車が動き始めると、私は信じられないものを目にした。あの感情を表さない祖父が、涙を流していたのだ。見送りの人であふれるホームと、すし詰めの列車内と、涙を流す祖父の顔が幼かった私に忘れられない記憶を残した。
父は、静かな人だった。戦後は生涯を左翼として生きた父と、戦争の話をしたことはほとんどないが、それでも忘れられない小さなできごとが二つある。一つ目は、父が斥候を命じられたときの話だ。1人で森を抜けていかなければならなかったが、その森にはオオカミの一群がいる。夕陽が落ち始めた森を1人で抜けるのは本当に怖かったと、話してくれたことがあった。二つ目は、10才くらいの私が怪談を怖がったときのことだ。夏のテレビ番組を見ていて、私はトイレに行くのが怖くなってしまった。そのとき父が、「直。死んだ人間は何にも恐ろしくない。恐ろしいのは、生きている人間だ。」と笑いながら言ったときのことを、今でもよく憶えている。
私の若かったころというのは日本が経済成長を続けていて、ジャパン・アズ・ナンバーワンとまで呼ばれるほど、多くの人間が豊かさを実感できる社会が生まれつつあった。そんな時代にあって、人権だの平和だのをわざわざ口にするオールド左翼は、いかにも古くさく、時代遅れに見えた。一言で言えばダサかったのだ。
私自身もオールド左翼の父を、内心は少し馬鹿にして見るところがあった。誰もが「おいしい生活」に手が届くと認識している時代に、何をそんなに怒って世の中を変えなければならないのだろうというのが、当時の私の感じ方だった。
おそらく父も、私に軽く見られていることに気づいていたのではないだろうか。今思えば政治や社会のことを私と話すのを、避けていたフシがある。そうであったとしても無理もないと思う。振り返るとあのころの私は、今でいう所謂「冷笑的」な人間だった。父のようなオールド左翼の側が勝つことなど、今も、これから先も無い。そんな負け戦に相変わらず汗を流している父が、私には古くさく思えたのだ。
自分は父とは違ってリアリストなんだと、私は思っていたのだ。あの頃の私は、今の私がもっとも嫌いなタイプの人間にかなり近かった。世の中の空気に流されて父を軽く見ていたのは、今となっては浅はかだったと言う他ない。
父は最後まで自分の思想信条を貫いて生きた。父親に20代で勘当されて家を離れ、知らない土地で職を探し、貧しい中でも家族を持った。どこに行くのも自転車で、小さな子ども2人と母を乗せてペダルを漕いだ。昭和30年代にあって、幼子の私を背におぶって共同水道を使い、近所の女性たちに混ざって洗濯物を干し子供たちに晩ごはんを作った。「近所では、まあ変人扱いだったわ」とは、むかし母から聞いた言葉だ。
50才を過ぎてからクルマの運転免許を取り、仕事の資格をいくつも取って会社を興した。泡沫候補として何度も地方議会選挙に出馬する自分の妻を支えた。叶わなかったが100才まで生きようとして、晩年は歴史を勉強する心づもりでいた。口数の多くない人だったが、気骨は誰にも負けなかったのだ。そのことに私は、遅まきながら60も半ばとなってからようやく気づいたのである。
父が亡くなって6年目の命日に、そんなことを思った。
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