2022年春、私はキム・ナムジュンさんへ手紙を書く
大好きなラジオ番組がある。その番組は毎回テーマが設定されており、そのテーマに沿ったおたよりを募集している。私はたびたびその番組におたよりを送っている。
5月の初め、そのラジオ番組が設けたテーマは「キム・ナムジュンのここが好き」。
それは私にとって今までのなかで一番難しいテーマだった。
推しの好きなところを語るのは、少しばかり勇気がいる。普段Twitterで喚き散らかしている、どうしようもない脳直ツイートとは違って、襟を正してしまう。それに推しの好きなところなんて、大体みんな同じなのだから、私が言葉にする必要はないのでは?きっと誰かが言ってくれるし……など、書く前からいろんなことを考えすぎておなかをくだした。
それでも、私が言葉にすることを選んだのは、きっとその行為がその時の私にとって必要なことだったのだと思う。
私は不特定多数が聴くラジオのおたよりにも関わらず、キム・ナムジュンさんへ個人的な手紙を書いた。
手紙は相手に届いて意味を成すのだと思う。それなら届かない手紙に意味はあるのだろうか……。
そんなことを考えたりしたけれど、やっぱり届かなくても意味はあったと心から思う。
この手紙をずっと残しておきたいぐらい、私にとってすごく大事なものになった。お腹をくだして書いた甲斐があった。
これはそんなただの備忘録である。
キム・ナムジュンさんへ
初めまして、私は日本に住むARMYのひとりです。
突然ですが、私はあなたのルックスに一目ぼれをしました。そんな偶然の出会いだったのですが、あなたのことを知れば知るほど、この出会いは必然だったと思わずにはいられません。
何にせよ、出会った頃から今も変わらず、私はあなたのことが大好きです。
あなたは見ず知らずの人から寄せられる、「好き」をどう受け止めて考えているのでしょうか。
もしかしたら、RMとキム・ナムジュンでは、「好き」の受け取り方が違うのかもしれませんね。
あなたが歌う『Persona』、または、『Trivia 承: Love』に出てくる「もしも僕が"僕"でないのなら僕は何なんだろう」という歌詞のように、私はあなたが、RMとキム・ナムジュンとして生きるうえで、“自分自身は何者なのか”をいつも自問自答し続けているように思います。
実際どうかは分かりませんが、私はそんなあなたが好きです。
RMであろうとする自分と、キム・ナムジュンでいたい自分、それとはまったく違う、何にもカテゴライズされたくない自分。
いろんなあなたを、ステージやインタビュー、インスタグラム、ビハインドなどで見かける、ふとした姿に感じます。
予想もつかないような、いろんな出来事から、メンバーやARMY、そして夢を、たくさん守ってきたんだと思います。
賢いあなたは考えなくてもいいようなことも考えてしまう優しい人だと思うから、ただただゆっくりと眠れていたらいいなと思うし、美術館に行ったり、お友達と過ごしている時間を知るたびに、私はすごく嬉しく思います。
こんなふうに私の勝手な考えを述べるのは押しつけがましいでしょうか。
でもきっと、よくもわるくもあなたには響かないんだと思っています。響いてほしいとは私も思っていません。
じゃあ、響かないついでに、もうひとついいでしょうか。
私はあなたをデロンデロンになるまで、褒め散らかして甘やかしてあげたいと思っています。年齢や立場なんて理由にならないからって、たくさん褒めて甘やかしたい。えらいえらいってしたい。そして、何も考えないでいいし、何もしないでいいよって時間を作りたい。
それはあなたにとって不必要かもしれません。でもワガママを言えたとしたら、私はあなたにそう言いたいです。
けれど、こんな長文のお手紙を書いておきながらこんなことを言うのもなんですが、言語の違う、私の言葉は響かないどころか、何の意味もないんだと考えています。
他の人みたいに、私も絵が描けたらよかった、音楽ができたらよかった。
そしたら、言葉よりも、ストレートに想いを届けられることができるのでしょうか。
私はどちらもできません。
私にとって、あなたに伝えるすべは、言葉しかないのです。
けれど、どんな翻訳機を使っても、フィルターがかかり、そのまますべてを伝えられないでしょう。どれだけ言語を学んでも、その距離をあらためて実感することになるでしょう。私がツイッターやnote、そしてこの手紙でつづる言葉には何の意味があるのでしょうか。
そんなことを、よく考えます。
それでも、あなたには、愛しているを、愛している以外の言葉で伝えたいと思うのです。
……でもね、いよいよ本当に何を言っているか分からないと思うけれど。
きっとあなたとなら、言葉での意思疎通が難しくても、その上手くいかない感じさえも、楽しんで理解できそうな気がしているんです。表情のひとつひとつを察知して、どんなに時間がかかっても、通じ合えると思っている。
あなただからこそ。
私と同じ言語を話す人とも通じ合えない、私の奥底にある感情をも、きっとわかってもらえるんじゃないかって、そんな根拠のない願いをすがるように思っている。
分かり合いたい、通じ合いたいとおこがましいにもほどがあるけれど、でも、きっとあなたとならそれができる気がするんです。
それもこれも、私の行き過ぎた妄想でしかないのでしょうか。
あなたが教えてくれたLove Myselfを、あなたのおかげで出会えた周囲の人々のおかげで、私は少しずつできるようになりました。
あなたは今の自分は好きですか?
100%そうでなくても、1年前よりも、1か月前よりも、昨日よりも、少しずつでも好きでいてくれたらいいな。もしもそれが難しい時は、私がたくさんLOVEを届けるから。
空や海が青いこと、草花が美しいこと、動物たちの愛くるしさ、そんな日常のなかの些細だけど、大事なことに気づかせてくれる、あなたでいつまでもいてください。
最後に、愛しているの代わりとして、私はこの言葉を伝えたい。
窓を打ちつけ、流れ落ちてゆくたくさんの雨粒を見つめ、そのしずくの行く先を二人の指でたどりましょう。
あとがき
これを書いたのは5月の初め頃で、6月に公開された会食の動画よりもずっと前だった。あの動画を観た後だったら、まったく違う内容になっていただろうと思ったりもする。
彼らの言葉を借りるなら、ここで綴った言葉は私がキム・ナムジュンを推す上でのchapter1になったのだろう。想いをまとめる意味でもよかったし、すごくすっきりしたし、自分の好きを再確認することで自信が持てたりもした。そして、これを書いたから終わりではなくて、この気持ちの延長線に今があるんだと強く思う。
先日Weverseで、J-HOPEさんがファンレターの画像を投稿していた。私はそれを見て、ちゃんと届く手紙があることを目の当たりにし、泣きたくなった。それは、いろんなことが重なり偶然届いたものかもしれない。けれど、その世界線はちゃんと実在する。
少し話がそれるけれど、私はファンレターを書いたらちゃんと読んでくれて、私のツイートもちゃんとチェックしてくれるアイドルの推しがいる。だからこそ、キム・ナムジュンさんへ綴る言葉の意味や必要性について考える機会が多かったというのはある。もちろん、溢れる想いは止められないのだから、そこに意味や必要性なんてなくていいのだろうけど。
私はこの手紙のなかで、「この手紙は何の意味もない」と書いた。それは、届くはずないし、本質的な部分で届かなくていいと思っていた。けれど、J-HOPEさんのファンレターを見て以来、(もちろん私にとって大きいとする言語の壁はなくなったわけではないが)、いつかいろんな奇跡が重なって、どうにかしてキム・ナムジュンさんに「好きです」と、それだけでいいから届いたらいいなと、そう考えるようになったのだった。
最後に。私は、好きや大事と思う気持ちは、誰からも、とやかく言うことを許されない不可侵のものだと考えている。だから、私には私の好きがあって、あなたにはあなたの好きがある。それに優劣はあってはならないものだし、比べられるものでもない。正解なんてない。あるとするなら、それは自分自身のなかだけ。意見として、合う合わないはあるだろうけど、否定されるものではない。時間や分量、いいねの数、そういった目に見えるものが、あなたの好きを測るものじゃない。
好きなら好きでそれでいい。それだけのこと。
私は"好き"に対して、そう思っている。
キム・ナムジュンさん、あなたはどう思っていますか?
私の大好きなラジオ番組です。
※ラジオに送ったおたよりを一部、加筆修正しています。