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血道 第四部『血道』④

 客間と言われて案内されたのは、二階だった。
 増築されて作られたそこは、茅葺屋根の部分を改築したのだろう。天井の部分は一部が斜めになっている。
「すごいねえ、茅葺の部分がトタンなのは、重さのため? 瓦だと重すぎるのかな?」
 建物のつくりを見ていた樹音がのんきに尋ねる。
「恐らくそうでしょうね。瓦の家もありますけど、ほかでは家ごと建て替えているところがほとんどです」
 美国は答えながら、二階の一室の扉を開けた。
 目の前にあるのは、書院つくりの和室だ。床の間に掛け軸がかけられ、布団が二組置かれている。窓辺に小さな文机があるくらいで、今までの家の中に比べれば、比較的新しい。
 樹音の陰にほとんど隠れているような格好の香菜子は、扉のあく音にビクン身をすくめる。
「大丈夫、何もなさそうだよ、香菜ちゃん」
「ええ、ここは大丈夫です。座敷牢から一番遠いので」
 香菜子に声をかける美国は、柔らかな声で告げた。
「……さっきまで、緊張していたの?」
「お恥ずかしいですが、血道の親戚の前では……反射的に」
 親戚相手に語り掛けていた声は、命令に近かったし、そうしなければいけない立場に、大山美国はいた。
 上座に座った女、この家を継ぐべき存在。
「遠野先生、香菜子さん、ご迷惑をおかけしました」
「うん?」
「光里があなたたちを巻き込んでしまって……申し訳ないと思っています、こんな身内の恥みたいなもの、みっともないですよね」
「まぁ、うちも病院をやっているから、親戚がうるさいのは理解できるよ」
 樹音が病院をやめたときも騒いだのは親戚だった。
「あの人たち、好き勝手言うよね。やれなんだかんだ、右を見ても文句を言うし、左を見ても不満がある。じゃあ、どうすればいいんだって。ねえ?」
「ふふ、本当にそうですよね……うちは、もう何もないんですよ。血道の人たちが集まってもね、どうしようもないんです。財産らしい財産はなんにも残ってないんですよ。生命保険金が入りましたけど、わたしと光里の学費で終わりです」
「そうなの?」
「はい。貯金はあったと思いますけど、貸してくれと親戚に言われたらお金を渡していましたよ。それが『本家の務め』だって。わたしが知っているだけで、数百万は渡してるんですよね」
「それ、あの宴会で騒いでる人たち、お金のことを知ってるの?」
 樹音の問いに、美国は首を傾げた。
 あいまいに笑って、目を伏せる。
「さぁ。どうでしょう。それぞれの家が、それぞれお金を借りた。借用書もありませんし。お互いにお金を借りたと、話せはしないんじゃないでしょうかね。見栄がありますから」
「大変だよね。そういうのって」
「そうですね……でも、ない袖は振れませんから。わたし、父の相続の時に見ましたし、今の大山の家の現状も。祖母の遺産が入ったといっても、祖母が一番資産を崩していましたからね、もう、昔の大山家はどこにもないんです」
 晴れ着の女がそう言って笑う。
「どうして、君の血道のひとたちは、君に固執するの?」
 樹音が首をかしげる。
「いや、なんだか腑に落ちないことがあってさ。大山の家って、めちゃくちゃ横溝正史の作品世界みたいな感じじゃん? 葬式のあとに親族会議したり、女性と男性の役割があまりにも明確に分かれてたりだとか、。この環境なら、長男が重視されそうなものだけど」
「……」
 香菜子の手を握ったまま、樹音は美国に近づいていく。近づきたくない、近づきたくないと思ったところで、樹音は美国の顔を覗き込んだ。
「……いや、これが本当の怪異なら、どうして中野新苗を辿ってまで、君たちを探したんだろうなぁって、疑問なんだよ。だって、地方の家なら、余計に男性を大事にするものだと思うし、君のカウンセリング記録を見ても、その印象はあるんだよね。でも、座敷牢に閉じ込めてまで残すのは、女性なんだろう? 理由があるのかなぁって」
「理由があってもなくても、同じことですよ。わたしたちは同じ道を歩くんです」
「道?」
「この家の女の歩くべき道はずっと同じだったんです。私も逃げられなかったし、祖母も逃げられなかった」
 大山美国は見事な晴れ着の袖を、二人に見せた。
「綺麗ですよね。祖母とその妹が作ったんです、この屋根の下で、昔は養蚕をしていて、その糸を紡いで染色して、祖母が機を織って、妹が着物を仕立てて……」
「君はどうして、その着物を着たの? あれだけおびえていたのに、どうして、今は何もない風に立っている?」
「遠野先生。この世界で一番怖いものは何だと思いますか?」
「人間」
 樹音は即答した。
「人間だよ、人間。ありとあらゆる悪意を持っているし、ありとあらゆる悪事も働ける。本人が悪事だと思っていなくてもね、簡単に影響される」
「奇遇ですね。わたしもそう思っています」
 おっとりと美国は微笑んだ。
「でも、君は怪異に苦しめられている。おれが知っている精神疾患で、君の症状は何一つ証明できない。その幻聴も、病的な症状じゃない、君は、実際に聞いている。そうだね?」
「そうですね。聞いていると思います、今も」
 急に、香菜子が天井を振り仰いだ。
「香菜ちゃん?」
 樹音が声をかけると、香菜子は息を吐いた。
「聞こえないの? 樹音くんこの音……」
「聞こえないよ」
「聞こえるよ……機織り……?」
 香菜子は何かを聞いている。
 機織り。
 樹音は連想する。
 乾いた木の当たる音に、糸がすぅっと抜けていく音。
 機織り機が規則正しく鳴る音。布を織るために一心不乱に女が機を織る。その音だ。
「これが記憶の中の音なのか、何かはわかりませんけど。私は、あの座敷牢を出て、東京に行ってからはずっとこの音を聞いていました。そして、呼ばう声。姉を呼ぶ声……」
「君の幻覚だ。おれには聞こえないよ」
「香菜子さんは?」
 美国に尋ねられて、香菜子は首を振った。
「機織りの音はすると思いますけど、声は聞こえません」
 香菜子は樹音の腕を、ぎゅうと握った。
「君は、昨日、化け物に食われた。おれたちの前で、弟をかばうようにして。何があった?」
 臨床現場で、あっという間に変化を遂げる患者がいないわけではない。そういう時、治療者の何気ない一言だったりもするが、ほとんどはきっかけとは言えないほど、些末なことだったりする。
 だが、昨日目の前で起きたことは、些末とはいえない。
 見えないはずの樹音でさえ、何かが起きていることは理解したし、そもそも、いたはずの大山美国が手品のように消え、代わりに血まみれの中野新苗が現れた。
 常識では説明できない。
 樹音が知っている物理法則でも。
 大山美国は淡々と口を開いた。
「……昔……何代前かは知りません。ずぅっと昔、殺人が起きました。姉が親族に手籠めにされて、その上に殺された。それを目撃した妹は精神に異常をきたして、座敷牢がはじまりました。
 そのあとから、大山の家の女は誰かが倒れるんです、倒れるか……不幸に見舞われるか。何度か、殺人が起きていると聞いています、親族が親族を殺すんです。そして何か変事があったときは、家の直系の女が入るんです、座敷牢に」
「ずっと?」
「祖母が教えてくれました。先代の牢屋様はお鶴さんといって、祖母の妹です……この時も変事が起きた。ひとりの男が突然日本刀を抜いて、反目していた私の曾祖父母を殺したんです。お鶴さんは、それを見てしまって失神して……そのあと、お鶴さんは暴れるようになってしまったそうです。
 そして、お鶴さんは、座敷牢の中に入れられた。やせ細って、何かにおびえて、格子戸から手を伸ばして「あねさま」ってずっと祖母を呼んでいた。祖母は時々、格子戸越しに過ごしていたみたいですが、その時は近づくことは許されなかったから、何を話しているかはわかりません。ただ、大事な時間だったのだろうとは思います」
「美国さん、君は……」
「弟をうらやましく思わなかったといえば、うそになります。男で、背負っているものが少なくて、自分が壊れてしまうかもしれないなんて恐れることもない、大山の女の呪いは、わたしの骨の芯にまで染みついているのに、弟は自由で……不公平だと思いました。わたしはこんなに重い荷物を背負っているのに、苦しんでいるのにって……。
 でも、分かったんです」
 彼女は笑った。
 目を細め、口角を上げて、完璧な笑みを作る。
「祖母は私に教えてくれました。本当は、祖母は東京に出るはずだったんです。作法の先生になりたくて、一緒に連れて行ってくれるという先生と約束までして、でもね、その日の朝、目を覚ますと座敷牢に入れられていた。許されなかった……この家を離れることを」
「それから、おばあさんは死ぬまで、ずっとここに?」
「はい。私、お骨になった祖母を食べたんです。そうすれば、大好きな祖母も一緒にいれるし、どこにでも行けるって」
「へえ、すごいね。それだけ思い入れがあって、外に連れて行ってあげたかったんだ。──でも、あなたも、座敷牢に入った。それは、どうして?」
 カタン
 カタンカタン
 カタン
 ──音がする、樹音にも確かに聞こえた。家が鳴っている。
 大山美国は微笑んだままだ。
「逃げられなかった。準備も覚悟も足りなかった。
 甘かったんです、血道の親戚を捨てて私を選んでほしいって、どこかでずっと願ってた、そんなの無理だって知っていたのに。両親はここで生まれて、祖母みたいにどこにも行けずに死ぬんです。父はそうだった、わたしを解放しようとしてくれた父は、一番はじめに死んでしまった」
 カタン。ダン、ダン。
 音が、音が響く、背後から、頭の上から、どこからか響いてくる。
「私は、分かったんですよ。血道の意味が」
 ゴォッと強い風が吹きぬけた。
 大山美国の着物がはためく中、彼女はびくともしない。はためく着物から真っ黒い触手のような影が伸び、樹音たちの横を突き抜けていく。
 ──階下から響いた悲鳴に、樹音は香菜子を抱きかかえるようにして、走り出した。


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