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血道 第三部 苦しみの連鎖③
マグカップを手に樹音が部屋を出ると、美国を封じた客間の前に香菜子がいた。彼女は彼女で、ビーズクッションに半分寝るように座り、学術書を読み込んでいた。
「何もない? いまのところ」
「んー。ない」
香菜子は学術書から顔を上げずに言った。
「なら、よかった」
「樹音くんの方は? コップ割れたりした?」
「してません」
シンクにマグカップを置いて、樹音は笑う。
確かに、以前香菜子に何かあった時に、コップが割れたことはある。双生児にはそういう不思議な現象が起こるという話は聞いたことがある。
樹音と香菜子の間にはそういう奇妙な情緒的なつながりが存在していた。だからこそ、両親はふたりを一緒に住まわせているのだ。安全のために。
「大山くんは?」
「部屋で寝てる」
「そっか」
完全にデッドスペースになっていた三畳の部屋は、いまでは光里の隠れ場所になっている。その部屋にもいくつも鈴を置いていた。住居全体に置いているこの鈴は、香菜子の信頼する霊能者が念を込めたもので、何かあれば、絶対に鳴るセンサーのようなものだ。
生活しているだけでは、普通の鈴の音しかしないが、霊的な何かがある時には、驚くほどけたたましく鳴る。誰かがその鈴を持って、その場で一心不乱に鳴らそうとしても、あんな風にはならないだろう。
仕組みは分からないが、面白い鈴があるものだ、と樹音は室内の鈴を見ていた。
「何読んでるの? 香菜ちゃん」
「卒論の先行研究」
「あ~もうそんな時期」
「うん、そんな時期」
香菜子は年齢で言えば、既に大学は卒業している。ただ、彼女は医学部浪人を二年経験した。
良くも悪くも樹音にさえ期待しなかった親なので、香菜子にも当然、進路の自由は与えられた。
だが、香菜子は、恩を返したがった。育ててもらった遠野家の恥にならないようにと、勉強はきょうだいの中で一番する子だった。
医者になることだけが正解ではなかったはずだが、医者になることを香菜子は目指した。
最終的に、浪人を続けることに香菜子は耐えらなくなった。別段、親も他のきょうだいも、香菜子が浪人を続けると言えば何年でも予備校に通わせ、必要なら家庭教師もつけただろう。
分かっていたからこそ、香菜子は二十歳になる年に、医学部を諦めた。心理学科に進学し、臨床心理士と公認心理士を取るために大学院に進む方向に舵を切った。
聡い子だ。そして、家の誰よりもまともで、性格がいい。
両親は賢いけれど、イマイチ人の心がない親だったので、樹音でさえ分かるような香菜子の複雑な気持ちを察する人ではなかった。
樹音は香菜子のことが好きだ、家族の誰よりも。一番幸せになるべきだと信じている。シスコンということはこういうことなのかもしれないなぁ、と、時々自分で笑ってしまうほどだ。
「テーマなに? 手伝おうか?」
「西洋のいわゆる悪魔憑きの状態と、沖縄のユタのカミダーリィの状態の文献を、心理学的に『精神病』的状態のケースと、そうではないケースに分けて論じる……みたいな、半分民俗学みたいな論文です、を予定しておりますが、お手伝いはいりません」
「はは、じゃあ、手伝いませ~ん」
憑依という状態を心理学として論じるというテーマは、香菜子らしい。
「沖縄にでも行くの? フィールドワークとか」
「ん~、行けたら行きたいけど、ツテもないしなぁ~」
「自分も霊媒体質だって言えば、ある程度取材にはいけそうだけど? むしろ、修行とかできるかも?」
「樹音くんが同行しないとなると、それはリスキーですねぇ」
心霊スポットの類に、念のため香菜子は近づかない。中には本物の怪異が潜む場所もあるからだ。
沖縄に香菜子をひとりで行かせたら、それこそ家族から総スカンを喰らうだろう。
「ノロとユタだっけ? 沖縄のシャーマン」
「ノロとユタは別なの。ノロは琉球神道の女性神職で、ユタは民間のシャーマンなんです。ノロは家系で、ユタは家系によらなくて。基本的には、神降ろしの神事をするのがノロ。秩父神社とかにも竜神降ろしの神事があるんだって、多神教に属する神職者は神降ろしが一般的に聖なるものとして扱われる傾向があるみたいだよ」
「まさに多神教だねえ」
神降ろしの神事に関しては日本中に事例が残っている。
そのことは樹音も知っていたが、詳しいわけではない。香菜子は本に視線を落としたまま、言葉を続けた。
日本の宗教観には、憑依の感覚が根強く広まっている。神事としての憑依は『神降ろし』や『神宿り』と呼び、神聖視するが、『憑き物』と呼ぶ場合は神霊ではなく、下級霊とされる動物霊などが憑くとされる。地域によれば、憑き物筋と呼ばれる家系もあるが、基本的には忌避されることが多い。なので、癲狂院が彼らを支えた。癲狂院がないような土地では、寺院が病院としての役割を果たした。
ただ、琉球王国として独立国であった沖縄は、独特な文化を形成した。憑き物に関しての感覚についてもそうだ。
ユタの『神がかり』であるカミダーリィという状態は、神による試練の時期を経るという意味ではあるものの、現象としては『憑き物』に分類としては近い。
ただ、カミダーリィはユタになるために必ず経るべき試練であり、その試練は数年以上かかることもある。精神的な受難であったり、肉体的な病であったり、本人や家族への干渉であったり、カミダーリィは決まったルートがあるわけではない。
この場合、『憑き物』として忌避されることはない。
「不思議な話だよね、ユタは試練を越えてようやくなれるものなんだけどさ、色々調べてみると、その流れが悪魔憑きの辿るルートに感覚的に近い気がするの」
香菜子はページをめくりながら、言葉を続ける。
「へえ? 悪魔憑きって、映画の『エクソシスト』みたいな?」
「そうだけど、樹音くん、エクソシストが何をさしてるか分かる?」
香菜子はようやく本を閉じた。
「勿論。悪魔を祓う神父さま。養成する学校もあるよね、ヴァチカンに」
「なーんだ、正解。つまんないの」
「映画で見たからね、何年か前に、『ポゼッション』って取りつかれる側の映画もあったよね」
本来、悪魔憑きのことをエクソシストと呼ぶのではなく、祓う人間がエクソシストとされる。エクソシズム(悪魔祓い)を行う行為者としての名前だ。
キリスト教の伝統にのっとった悪魔祓いをするエクソシストは、カトリック教会により指名されている。それ以外にもプロテスタント教会の牧師にも高名なエクソシストはいるし、霊能力者もいる。アメリカなどのケーブルテレビでは、リアリティショーとして悪魔祓いを中継するものもる。
「ポゼッションかぁ~。とりつく、接続するって意味の英語だっけ?」
「違うよ、『所有』とか『占有』。もともとエクソシストが言ってたのかな? ちゃんと調べたことがないから分からないけど」
「あたしが樹音くんくらい英語分かったらな~論文とかももっと楽に読めたのに」
香菜子のむくれた声に、樹音は肩を竦めた。
「んで? 香菜ちゃん的には、どこがユタの『カミダーリィ』とポゼッションが似てるの?」
「よく聞いてくれました! はじめは苛虐の段階があり、悪魔は本人を苦しめるの。信仰心の揺らぎや、肉体的なダメージを植え付けるためにね、そして本格的な悪魔憑依にいたる。ユタのカミダーリィも似ていてね、精神的・肉体的にとてつもない受難を迎え、その先にユタとしての目覚めがあるとされているの。それはもう、耐えがたい苦しみなんだって、肉体的な病気とか、死別もあるけど。その結果、普段の本人とはかけ離れたようなことをしたりもするみたい」
「ふーん」
「興味ないでしょ」
「うん。よく分かんない。でも、実際に精神科に『これは本物だな』って患者は、来たよ」
それを悪魔と言うかは分からない。
時々、人間には不可能だと言われることをやってのける人間がいる。どれだけの拘束をしても破り、相手につけた計器は狂い、蛍光灯も破裂する。
手の打ちようがない。当然薬物療法もうまく行くはずはないし、現場にいる経験豊富な看護師が泣きはじめたこともある。
樹音は、何も感じなかった。そんな様子を見ても、ガラスの破片に塗れた人間が突進してきた時も、ただ受け止めた。相手の体に降り注いでいたガラスの破片が樹音を傷つけたけれど、痛みに鈍いので、皮膚の表面を切ったくらいでは感じることが出来ない。
そういう相手には、つきっきりで見ているしかなかった。必要があれば、人を呼ばい、ずっと椅子に座って相手を見ていた。
目を合わせてくる人間もいれば、気絶したままの人間もいた。
人間だったのだろうか。ヒトという入れ物は機能しているが、人間というパーツは存在していない。そんな風に感じていた。
大山美国も、そのタイプだ。
「なんだか、大山美国も『カミダーリィ』みたいな感じだね。目覚めちゃうのかな、彼女も」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、樹音は香菜子を振り向いた。
「香菜ちゃんは、このまま、何も起こらないと思う?」
「まさか。あんだけのドス黒、大山美国を諦めないと思う。探すために人ひとり消してるんだもん」
中野新苗もいまだ見つかっていない。
「おれは、香菜ちゃんが心配だよ」
樹音が言うと、一瞬、香菜子は虚を突かれたような顔をして、それから、苦笑した。
大山家を襲っている不可解なできごとは、本当に怪異なのか、それとも。
樹音は確信している──生きている人間は、この世界で一番強く、そして一番浅ましいということを。