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血道 第四部『血道』②

 翌日、東北地方。
 何も知らなければ、美しい風景だっただろう。
 大山家のある東北の寒村は、緑の稜線に縁どられた青々とした空が、一面に広がっている。
 山間の平地には、ずらりと等間隔に田んぼが並んでいた。
 樹音が運転する車は、定規で引いたようにまっすぐに伸びる農業用道路を走っていく。
 延々と続く田んぼはきちんと手入れされているのに、誰ひとり姿が見えない。
 あるのは、ゆらゆらと揺れるマネキンの首だけだ。女性の首が、農業用の帽子をかぶって揺れていた。
 高速道路を車で数時間、インターチェンジンジを降りてから一時間半。
 東京から、近いとは言えない距離だが、想像よりは遠くはない。
 だが、樹音や香菜子のなじみのない日本の風景が広がっていた。
 遠くをトンビが飛んでいるが、あまりにも静かで、変化がない。
 時間が、停まっているかのような場所。
「あの山が、うちのマケの山です」
 助手席に座っていた光里が、周囲の山よりも少しだけ高い山を指さした。
 山肌には、確かにいくつか家が建っている。寄り集まっているようでいて、絶対に隣合わない。そんな奇妙な情景だ。
 後部座の香菜子は『マケ』という単語に首を傾げた。
「マケ……?」
 答えたのは樹音だ。
「一族のことを言うんだって。カーナビは山の下で停まっちゃうね。車で登れる?」
「はい。家の前が駐車場になっているので、そこに停められますよ」
「……すごいね、家の前が駐車場かぁ」
「すごくはないですよ、何もない場所ですから」
 何もない場所。
 大山の家に繋がる道は、車がすれ違うことがぎりぎりできるかできないかの、細い舗道だ。周囲は木々に区切られ、歩道もなければガードレールもない。
 街灯もないその道は、すでにもう、薄暗くなってきていた。
 まだ昼を過ぎたころだ。ただ、木々の深いこの場所には、日が傾いたその瞬間から、光と影は逆転する。
 日が沈んだその時、本当の闇が、樹音が体験したことがないほどの濃い色の闇が、辺りを包み込むだろう。
「すごいところだね」
 すごいところだ。
 樹音の言葉はぼんやりと車の中を漂った。
「何が見える? 香菜ちゃん」
「大山の足跡と同じものが見える。たぶん、カーナビ切っても、あたしが案内できると思うよ。そのくらい、はっきりと残ってる」
 香菜子の言葉を聞いて、樹音はイメージした。
 何もない田園風景に、真っ直ぐと筆で引いたような跡がべっとりと伸びている。それは、大山の家があるというこの道の先に向かっていく。
 祟り。
 祟りがあるなら、はじまりがある。
 この先に、はじまりがきっと埋もれている。

 山の中腹を切り開いたあたり、墓場もあった。無造作に並んだ墓石ば、都会にある墓地公園とは違い、風雨にさらされすっかりと苔むしたものもあれば、古びて梵字の消えた卒塔婆もある。
 百基あるという無縁仏は道からは見えなかったが、このどこかにあるのだろう。
 森の中の細い道を抜けると、大山の邸宅が見えてきた。
 邸宅、という言葉がふさわしい。
 門こそないものの、木立がぱっくりと割れたその先に大きな屋敷があった。もとは茅葺だったたろう大きな三角屋根は全てトタンにかわっている。
 玄関は雪除けのための軒があり、すりガラスの引き戸だった。
 引き戸は、開け放たれている。
 屋敷と漆喰の見事な蔵、稲屋、ガレージの他に、屋敷と同じくらいの庭があった。
 とてつもなく、広い。
 そこに十台近くの車が並んでいる。それぞれパズルのように組み合い、駐車されていた。
「車……?」
 つぶやいたのは、光里だった。
 樹音もハンドルにもたれて、ため息をつく。
「すごい数だね。適当に駐車していい?」
「構わないと思いますけど……なんでこんなに車が?」
「誰の車か、わかる?」
「全部、血道の親戚です」
 光里の声は、奇妙に引きつっていた。樹音と香菜子は顔を見合わせた。
「わ、香菜ちゃん、顔色ひどいね。大丈夫?」
「樹音くんは感じない? 血の臭い……あの時もしてたけど」
 言われて、樹音はクンクンと鼻を動かしたが、何も感じることはできなかった。中野新苗を吐き出した瞬間だけははっきりと強い臭気を感じたが、それきりだ。
「じゃあ、これはこのあたりが臭いわけじゃないんだ……」
 香菜子の言葉もなかなかひどいが、実際に臭い方がまだましだったのかもしれない。
 人一人、消すことのできる『怪異』。それが、この屋敷の中にいる。香菜子にしか分からないほど、おとなしく。
 樹音の手を借りながら車を降りた香菜子はまだ青い顔をしていた。樹音が一緒にいても、今はだめなようだ。
「どう?」
「跡が見える。玄関に向かってるし……臭いもすごく濃くなって……血の臭いと獣くさい……」
「それは最悪だねぇ」
 呪いの根源。
 その言葉がこれほどしっくりくる場所があるだろうか。
「それに、腕が……無数の腕が、玄関から、大山に向かって伸びてきてる」
 招かれている。
 あいつらは、光里を、樹音たちを招いている。
 樹音と香菜子を無視して、光里だけに伸びてくる無数の女の手。これは、光里が大学で香菜子を訪ねて来た時から見えていたと話していたものと同一だろう。
 この手は、ここから伸びていたのだ。この家に、光里をつなぎとめるために。
「普段がどうかは分からないけど、これが実家なんて、大山はすごいね。本当に、ふるいふるい家だ。──玄関が、深い洞に見えるよ。入ったら、二度と出てこれなそう……」
 香菜子は樹音にだけ聞こえるようにささやいた。
 ふいに、玄関に女が現れた。
 樹音さえも、さすがにぎょっとする。
「あれ、光里……?」
 玄関には、大山美国が立っていた。白の単衣をまとい、髪を軽くまとめた状態で、しっかりと立っている。相変わらず痩せて、腕の傷は痛々しいが、表情は穏やかだ。
 彼女は和装がとても似合っていた。所作もこなれているし、帯もきちんとお太鼓に結んでいる。
 つい先日、いや、半日前に東京のマンションにいた女性とは結び付かない。目ばかりがぎょろぎょろと動く、怯えきった美国とは別人だ。
 彼女は優しく笑って、弟に声をかけた。
「なに、帰ってくるなら連絡してよ、おばさんたちに迎えに行ってもらったのに」
「姉さん……?」
「おふたりにご迷惑おかけして、ちゃんとお礼は言ったの?」
 困惑する光里をよそに、美国は樹音と香菜子に頭を下げた。
「すみません、こんな遠くにまで……」
「あなたは本物ですか?」
 樹音が尋ねる。
 すると、ふふ、と短く美国は微笑んだ。
「本物ですよ、樹音さん。あなたが私にナイフを渡してくれましたよね。『人の形をした悪魔が来るかもしれない、何かあれば刺してでも助かる気でいなさい』って」
 美国は袂から、抜身のナイフを取り出した。光里はぎょっと目を丸めて、姉の手のひらの上にあるナイフと顔を見比べている。
「これ……、あの化け物を刺したナイフ」
「遠野先生が、お守りにって渡してくださったの。よかった、光里を守れたから」
 おっとりと、誇らしげにはにかむ美国は格好も伴って日本人形のようだ。
 樹音の脇腹を、香菜子がバシンと叩く。「痛っ」と小さな悲鳴を上げてのけ反った樹音をつかまえて、香菜子は耳打ちした。
「ちょっと、樹音くん。一体何を考えてるの? もし、彼女がナイフを怪異以外に向けたらどうする気だったの?」
「んー、大丈夫じゃないかなぁって思ったんだよね、彼女の精神状態は確かにひどかったけど、他害はなかったし」
「でも……」
「確かに、病院だったら絶対渡さないけど、病院じゃないし、おれは医者としてやったわけじゃないしね。なんだろうな、俺の知ってる精神医学的な状態と、彼女は違う気もしたし、いいかなぁって思ってさ」
 そういわれて、香菜子は黙った。
 心理学を学んでいるとはいえ、香菜子は専門家ではないし、今現在、医師資格を目指しているわけではない。確かに、頭にはアメリカ精神医学学会が定めた診断基準は入っているといっても、有名な病気のみだし、確定診断をつけることはできない。
 樹音は精神科医だった。医師資格は業務独占資格であり、その仕事についていない時でも効力を発揮するタイプの国家資格だ。
 今は臨床を離れているが、そもそもはずっと臨床医として、実家ではあるものの精神科単科病院に勤めていた。
 重篤な患者と対面する機会も多く、様々な症状の対処をしてきた。
 退院した美国がもらってきていた心理検査の結果や、カウンセリングの履歴なども全部目を通している。
「まぁ、実際何も起きなかったし、オールオッケーじゃない?」
「……はぁ、次は先に言ってね」
「うん。次は先に言うね」
 言わないだろうな。
 今回だって、樹音が香菜子に言わなかったことには、何かしら理由があるだろう。
 こしょこしょ話していたふたりに、美国が声をかける。
「ここまで来てくださったんだから、せっかくですから、泊っていらしてください」
「え、でも……」
 光里は樹音たちと美国を見比べて、戸惑った様子だ。
「大丈夫、光里。みんな、姉さんが呼んだのよ。血道の人たちをね」
 血道。
 大山美国は微笑んでいる。
「おふたりにも、ぜひ、一緒に過ごしていただきたいです、今日のこの日を」


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