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血道 第四部 『血道』①

『怪異』が産み落とした中野新苗は血の色の何かで汚れていたので、樹音は風呂場に投げ込み、シャワーでそのまま洗い流した。
 香菜子は中野新苗の着替えをするころには、かなり落ち着いていた。
 先ほどまで、大山美国がいた客間のベッドに、今度は中野新苗を寝かせて、樹音は彼女の容態を確かめた。
 香菜子はすぐそばの椅子に腰かけて、樹音に声をかけた。
「中野さん、どう?」
「んー、脈拍も問題ないし、血圧も体温も大丈夫。血中酸素濃度もしっかりしてるし………ひとまずは目を覚ますまでは様子見かな」
 聴診器を外しながら、樹音は答える。
 香菜子が倒れた時ように点滴の一式は存在しているので、処置できなくはないが、今段階では何かすべきではないように思う。
 床に落ちていた時は、樹音にも見れるくらい真っ黒に染まって見えたが、洗い流してしまったせいで、何も分からなくなった。
 樹音には、ただ、意識を失った女性に見えるだけだ。大山美国のようにやせ細っているわけでもない。
 分からないものは、分かる人間に聞くに限る。
「香菜ちゃん的に、この子は安全?」
「んー……」
 香菜子は首を傾げる。
「医学的には分かんないけど、今、狙われることはないんじゃないかなぁ……お姉さんに見えたようなべったりした跡は見えないもん」
 大山光里に特徴的な印のようなものは見えないようだ。
 じっと身じろぎもせずに、中野新苗を見つめていた光里がふらりとベッドサイドに歩み寄った。
「俺が……見つけられたから?」
「ん……?」
「俺が、祟りに見つけられたから、こんなことに……? 姉さんも、中野さんも俺のせいで……こんな目に遭ったんだ……」
 呻いて、光里は両手で顔を覆った。
 大山の家に祟りがあるとして、何が原因で、ここまで執拗にこの姉弟を追いかけてくるのか。
 樹音は、うめく光里を無感情に見つめた。
 何故だろう。彼らを追いかけて、何があるのだろうか。
「──……大山くん……?」
 中野新苗の唇がかすかに動いた。光里ははっと顔を上げて、中野新苗の顔を覗き込んだ。
 中野新苗のまだ覚醒しきらないぼんやりした目が、光里を探してうろうろとさまよう。
「ここにいるよ、中野さん」
「大山くん……無事?」
「……」
 光里は何も言えずに唇をかんだ。
「大丈夫……?」
「……中野さん……」
「ちょっと失礼。お嬢さん。目を閉じて」
 樹音がそう声をかけながら、中野新苗の目を手で覆った。二、三秒塞いで、そっと手を離す。
「どう? 見える?」
 再び目を開けた中野新苗は、幾何かしっかりとした表情をしていた。
 光里の顔を認識して、すぐにぼろりと大きな涙をこぼした。
「大山くん……っ」
「ごめん、中野さん……」
「大山くん、よかった……また会えた」
 光里は、まだ起き上がることはできない中野新苗の手を握って、そっと額に引き寄せた。祈るように、許しを乞うように。
 しばらく、ふたりはそうして動かなかった。

 樹音や香菜子は、光里から簡単なあらましを聞いた中野新苗が落ち着くのを待った。だいぶ混乱していたので、待つしかなかったのだ。
 彼女は背中にクッションをいくつか挟み、ベッドの上に座っていた。光里はそのすぐそばに腰かけ、彼女の手を握っていた。
 もう、女友達だという言葉でごまかすのをやめたようだ。
 樹音は重なった大きさの違う手を眺めてから、中野新苗の顔を見た。
「大丈夫そう? 話? できる?」
 中野新苗は、光里を見た。彼が頷くのを見てから、彼女も口を開いた。
「はい。大丈夫です」
「さっきもあいさつしたけど、おれは遠野樹音。君を探してほしいって大山光里くんに依頼を受けた探偵。で」
「妹で助手の遠野香菜子。ゼミの後輩なんだよね? よろしく」
「……よろしくお願いします」
 頭を下げた中野新苗は、見るからに自信がなさそうなおどおどとしたタイプだった。
「君の前に『大山美国』が現れたのは、いつ?」
「……新学期が始まってすぐくらいです、四月の頭で……大山くんが大学にも来ないって、みんな気づいた頃でした」
「君が、大山くんが姿を消したことに気づいたのは?」
「……三月の中ごろに、メッセージが返ってこなくて……既読もつかなかったので、おかしいなとは思っていたんですけど……新学年になってからです、本当にいなくなったんだって気づいたのは。
 そのころに、お姉さんに突然大学で呼び止められて……大山くんを探しているって言って、連絡先を交換して……家に来るってなって……」
 そこまで話して、中野新苗は急に顔を曇らせた。
 中野新苗は不安げに視線をさまよわせて、自分の手を握る人物を恐々と見上げる。
「……お姉さんが、気が付いたら家の中にいて……わたしを飲み込んだんです……信じてもらえないかもしれないけど……それから、ずっと眠ってるような、そんな不思議な感覚で水の上に浮かんでいるような……一体……何があったのか」
「君は、お姉さんを部屋にあげた?」
「いいえ、勝手に入ってきました。家に行っていいかとは聞かれたので、大丈夫だとは言いましたけど……」
「それだ」
 樹音はパチンと指を鳴らした。
「君は怪異を呼び入れた。許可を与えたんだ。
 だいたいどの文化圏でも、魔なるものの侵入は拒むことが出来る。古代エジプトではピアスをすることで耳からの侵入を防いだ。もともと衝立も中国では玄関に置いて、妖怪を入れないための障害物として使っていたくらいだ。
『怪異』は中野さんに目を付けてたんだ」
 きょとんとする中野新苗に、樹音ははっきりと言った。
「君が、あの時会っていた『大山美国』は偽物だ。本物の大山美国は三月中旬には精神病院に入院していた、君に会いに行けるはずがない。偽物は君を取り込むことで、大山光里を引っ張り出すことを選んだんだ、君は餌にされたんだよ、中野さん」
「……そんな……。じゃあ、私のせいで……?」
「どうしてそうなるのかなぁ? 君たちは思考回路が似ているね。大山くんと中野さん、どっちも自分を責める。少しは他人を責めたらどう? 君たちを苦しめたのは『怪異』──大山くんの言葉を借りるならば、大山家の祟りだ、祟りを前に自分を責めても無駄だと思うよ」
 樹音はゆっくりふたりに語りかけた。それから、小さく笑った。
「香菜ちゃん、今は、大山くんと中野さんはどう? 安全そう?」
「うん、もう、何も見えない。ふたりとも、『怪異』がこだわっているようには見えないな。微かには残っているけど……」
 こうなっては、香菜子に分かることはほとんどない。
「うーん、じゃあ、出来るだけ早く、大山くんの実家に行くしかないんじゃない?」
 樹音があっさりと言った。「ファミレスにモーニングしにいこうよ」くらいの軽さで。
「中野さんを置いていくことも怖いから、身内の医者を呼んで、帰ってくるまでついててもらおう。その間に、おれたちはおれたちでできることをした方がよくない?」
「確かに、アレが帰るとしたら、大山の実家以外にはあり得ないもんね。どうする? 大山」
 香菜子は尋ねた。
 どうするも何も、選択肢はほぼないに等しかったが、光里はゆるやかと目を伏せて、振り絞るようにして頷いた。
「中野さんを助けられたなら、俺は、姉さんも助けたい」
「うん」
「まだ、力を貸してくれますか?」
「貸さないって言ったら、どうするの?」
 樹音は首を傾げて、笑った。
 それに、光里も眉を下げて答える。
「力を貸してください。お願いします」
 光里の声は、吹っ切れたように軽やかだった。


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