花束みたいな恋をした ,共感と等身大と焼きそばパンの幸せ。
コロナ禍、ひっさしぶりに映画館に足を運んだ。坂元裕二さん脚本の「花束みたいな恋をした」菅田将暉といえば「そこのみにて光り輝く」で、うわ、凄い人出てきたな。。と思ったのが初めてだった。毎回、そのツンとした美しい鼻の形はどこの血統ですか?と魅入ってしまう。有村架純は小リスというか、もう万人がぁぁ、、こんなサブカル女子いたら最高、という可愛さでパーカーもダッフルコートもコンバースのジャックパーセルも似合いまくり、いつも頬がツヤッツヤだった。
※ネタバレ含むので見てない人は注意
こんな2人であれば、有村架純は就活に一発合格するだろうし、菅田将暉は営業成績1位になること間違いないのだけど、あくまで等身大であり特別な才能もなく特別にモテるわけでもなくちゃんと終電を逃す、一般人が共感できる人間として描かれてゆき、その日常では不倫もなければ不治の病や交通事故もなく記憶喪失にもならない。私達の日常と同じものが繰り広げられ、アパートで素麺を食べ、多摩川の側に暮らし、ニンテンドースイッチを買うのである。まさに日本人カップル大半の「あるある」で構成されている。
私がテレビドラマを一番見ていたのは小学校からギリ中学までだった。それ以降は現実の恋愛や出来事の方が楽しくなってしまった。私には9歳上の姉がいて彼女が見ているドラマ・漫画・音楽はまだ見ぬ大人の世界で、そこに強く惹かれた。坂元さん脚本の名台詞「セックスしよ」の東ラブは小学校低学年。桜井幸子と真田広之の元祖「高校教師」は小学校高学年の時だった。「大人って・・・」そう思いながら大人の不条理な世界・恋愛に憧れまくった。80年代後半からテレビドラマは黄金期、月九という言葉も生まれ、ロンバケ・ひとつ屋根の下、あすなろ白書で、木村拓哉や福山雅治、語り継がれるキングオブ・イケメンがドラマを飾った。彼らは見た目だけでなく言動も行動もザ・イケメンだった。私が好きだったのは極端な闇の展開多すぎの野島伸司さんのドラマ。高校教師・この世の果て・人間失格・家なき子etcどれも見ると「わかる〜」ではなく「全然分からないどスゴい」という怖いもの見たさだった。86年から91年の5年間はバブルで(私は小学生だったが)夢のような事が日本に起こり、札束が舞った時代だったから、地味で共感できるものより、憧れるもの自分よりランクが上の世界に人は興味が惹かれたのだと思う。ロンバケでは年上モデル(だった)山口智子が年下のイケメン天才ピアニストとボストンの教会まで花嫁姿で走った。もう全く自分がどう生きたってお目にかかれない展開の人生だ。でも、そこにこそ1996年の若い世代は憧れた。
そして2021年、夢のような東京オリンピックはコロナによってたち消え、今年も実現するのか分からない。夏の甲子園は無くなり球児たちは涙を流し、成人式も延期になった。「夢のような」の真逆の事が現実に起こりまくった。外で自分の知らない世界の人に出会い、カップルが車に乗ってデートし、背伸びしてクリスマスには有名ブランドのアクセサリーを渡す時代では無くなり、安定した職について、休日は近場のカフェでパンケーキを食べるかスーパーで買ってきた1本千円以下のワインをベランダで飲み、インスタグラマーを真似て写真を投稿する時代になった。カップルは今何をしているんだろうと考えると菅田将暉・有村架純の麦と絹のカップルがまさに鉄板なのだと思う。 絹の「私がやりたくないことはしたくない! ちゃんと楽しく生きたいよ!」はまさに自分勝手でも学生気分でも無く、今の時代を生きる若者の思うところドンピシャなのかもしれない。終身雇用の時代は終わり、リーマンショックでもなく戦争でもなくナノサイズのウィルスによって倒産したり職を追われ、大学にも行けない日々がある日突然やってくるのが「今」だ。「将来のために・・・」「〜年後に向けて・・・」「やりたくないこともやって積み上げて・・・」その言葉はもはや目の前の現実にはすぐに歯が立たない。だとしたら「やりたいことをやって楽しく生きる」がむしろ正論である。夢を追わない憧れない時代と言えばなんだかとても現実的だけど、叶いもしない夢より等身大の幸せを確立する時代と言えば後者の方が幸せを掴む成功率は高そうだ。そんな中でこの映画が支持されるのだとしたら、まさに坂元さんが丁寧に描く「等身大の日常」が若い人達の心を掴んでいるのだと思う。多摩川の側を近所のパン屋で買った焼きそばパンをかじり合いながら歩く。それが今の時代の誰にも負けない幸せの形なのかもしれない。