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水がゼロに戻してくれる。

アジフライを食べて白米を食べる。そのあとできればお味噌汁にも行きたい。そしたらまたアジフライを食べて白米、またアジフライを食べて白米、からのお味噌汁。

タンタンターンのリズムでアジ、米、汁を口に入れていく。たまに水かお茶を挟む。水が望ましいだろう。水だ。無色透明・無味無臭の水を口に入れる必要がある。硬水か軟水かはお好みでいい。ちなみに私はこの2つの違いがよくわからない。とにかく水だ。

なぜなら水はすべてをゼロにしてくれる。

どんなにアジを食べようと、そのしょっぱさを使ってどれだけ米を食べようと、ダシの効いたどんな色の味噌汁を飲もうと、私たちは必ずどこかで水を挟む。水だ。なぜ水を挟む必要があるのか? なぜなら水は私たちを原点ゼロの位置に戻してくれるからだ。いままで口に入ってきたどんな味でも水が一瞬で消しとばしてくれる。


おごり高ぶり、悲しみに暮れ、フォロワーの数と反応の数を気にする。書いたもの出したものが人様から良い評価を得られないだろうかと期待する。仕事では取引先の期待を少しでも越えようと頑張り、成果を出したら「ありがとう」と言われる。かと思えば感謝もそこらで「もっともっと」の日々となる。

だれかが頑張っているのを見たとする。いけすかない頑張り方をしていたとする。どうも好かんなと思って「俺は違うぜ」と思うことがある。もっともっとと頑張る人が目に入ることもある。正しい頑張り方をして正しい成果を出す人。

憧れの人がいたとする。あの人はいい。あの人はすごい。あの人は頑張っている。一方でこの世界は比較の世界になってしまっているから、否応なしに自分の小ささが目にあまる。


水を飲め。

自分の中に水を持て。清らかな水を。


口の中が味でいっぱいになって、もう何が本当の味か、何が本当の自分かがわからなくなるときがくる。それはほぼ毎日である。

で、気づいた。自分には水がない。私を原点ゼロの位置に戻してくれる水が、あるようでないぞ?



友だちが「宮沢賢治を知らない」と意味不明のことをほざくので、「きみ、それはONE PIECEやスラムダンクを知らないのと同等の損失かもしれない」ということで、魅力をプレゼンしたのである。

「雨ニモマケズ」をスターバックスで朗読してあげた。スターバックスステラプレイス店で。

そしたら友だちは「ほげほげ」という顔をしていたのに、私はなんだか心が洗われたような気持ちになって、しまいには涙をオロオロ流す始末である。たかが岩手の誰かが書いた文章ごときで涙だ。


で、気づいた。雨ニモマケズを音にしてわかった。


なるほど、私にとっての「水」というのは「雨ニモマケズ」のことなのですね。日々の疲れ、憧れ、夢、にごりをぜんぶ綺麗に洗い流してくれる原点ゼロの水。

宮沢賢治さん、私を原点ゼロ地点に戻してくれてありがとうございました。疲れたときに飲もうと思います。

誰かにとっての私も、そういう水になっていたらいいな、と願うわけである。


<あとがき>
国語の授業で宮沢賢治を読むじゃないですか。なんか忘れたんですけど、むかし、舞台で『銀河鉄道の夜』を観に行ったことがあるんですね。すっかり寝ちゃいまして。で、飛行機の中で改めて宮沢賢治の文章を読んでるんです。すごい。あ、自分って古典というか、ホンモノの文章に触れてなかったんだなと身につまされる思いがしました。今日も最後までありがとうございました。

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