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自分憲法を守り続ける人たち。
いわゆる「自分憲法」というものをもっている。
憲法といっても、国の話ではなく、自分のルールのことだ。大人になると、どうやらみんなそれぞれに「自分なりの憲法」をもっていて、それに従って生きているらしい。私も例外ではないのだが、これまでに何度も「改憲」を繰り返してきた。
若いころ、私はかなり厳格な憲法を制定していた。第一条は「一日8時間勉強すること」。この条文は、大学入試の時期に思い浮かび、試験終了と同時に速やかに忘れ去られた。私の中でこの憲法が守られていた期間は、実に2週間ほどである。結局、8時間勉強したのはそのうち3日だけだったが、残りの時間は「どうせ明日から本気を出せばいい」という条文を頭の中で追加した。人間はかくも自己修正が早いものだ。自分が人間じゃないみたいな文章になっちゃった。
大人になってからも私は憲法改正を続けている。例えば、30歳のときには「毎朝5時に起きる」という新しい条文を採用したが、これも2週間後には「スヌーズボタンの使用許可条文」に置き換えられた。いつの間にか、8時起きの憲法違反が当たり前になり、最終的には「目が覚めたら起きればいいやんけ」という憲法の精神に回帰したのだ。実に自由主義的である。
憲法改正といえば、よく耳にする憲法9条の話がある。もちろん、国の話と自分の話を同じにするつもりはないけれど、どうしても思い出してしまう。第9条は平和主義を掲げ、改正には慎重であるべきと言われる(ような気がする)が、私の自分憲法もある意味で平和のためのものだ。本家の日本国憲法と異なり私の場合、必要とあらば改正案は即採用。過去の自分と現在の自分が共存できるよう、常に柔軟な対応を心がける(ずっとなに言ってんだ?)。
にしても、現代の多くの人は自分憲法を厳守しすぎて息苦しくなっているように見える。SNSでよく見かける「モーニングルーティン」動画の通りに毎日を過ごしている人たちを見ると、ちょっと不安になる。「毎朝5時起き、瞑想10分、筋トレ30分、そしてオーガニック朝食」。まるでルールの守護者だ。いや、それで幸せなら何も問題はないのだけれど、どうにも窮屈そうに見えて仕方がない。
私の自分憲法は、そういう意味では相当自由だ。いつでも改憲できるし、違反しても罰金は発生しない。むしろ、違反こそが新しい発見を生む瞬間だと思っている。先日も、仕事を終わらせるために「徹夜」を誓ったが、夜の10時には「明日でいいか」という条文が自然に浮上した。結局、翌日には全てを片付けたし、むしろいい睡眠があったからこそ効率が上がったのだと自分を納得させる。
だからこそ、私はあまりに厳密な自分憲法に縛られすぎないように気をつけている。時にはルールを破ってみるのも大切だし、その違反が自由をもたらすこともある。自分憲法は改正を続ける限り、私にとっての自由の象徴なのかもしれない。
とはいえ、まだ改正が必要かどうか検討中の条文がいくつかある。たとえば「スヌーズボタンは1回だけ」なんてルールは、どう考えても守れる気がしない。でも、まあそれでいいのだ。憲法違反こそが私の自由を守ってくれているのだから。
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<あとがき>
今日のこの記事なんですけど、このnoteでの文章の投稿を初めて13日目に書いたものです。下書きの奥底に眠っていました。ふつう、長く放置されたものは熟成されていい味になっているはずですが、この文章がなんの円熟味もない、自己満足の極地にあるような文章になっています。そういうときもあるわけです。今日も最後までありがとうございました。
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