他人の幸せを見たいわけではない人たち。
ネット社会でよく見かけるのは、不倫やクレーム、誰かの失敗談がバズる姿だ。なぜネガティブな情報にはこれほどまで人が群がるのだろうか。
これは人間の持つ「他人の不幸は蜜の味」という心理に由来すると思うのだが、さらに遡れば古代ギリシャの喜劇の舞台や、中世の見世物小屋にも似たものを感じる。
古代ギリシャでは、失敗や滑稽さを演じる役者を観客が嘲笑する「コメディ」が人気を集めた。
人は自分が直面しないリスクを他人の姿を通じて消化することで、ある種の優越感と安心感を得たわけである。
さらに中世の見世物小屋では、奇形や病気を持つ人々が見世物にされ、多くの人が好奇心と恐怖を織り交ぜながら見物に訪れた。
これら過去の「ネガティブなエンターテインメント」は、現代のSNS上での他人の失敗や不幸に反応する現象と何ら変わらない。私たちは他人の幸せにはなぜか興味を持てないのである。
では、なぜ私たちは他人の幸せにはそれほど興味を示さないのか。
他人の幸せが自分の現実を突きつける鏡になるからだ。
幸せな人を目にすると、自分も頑張らねばならない気がしたり、自分の生活に物足りなさを感じたりする。そこで、自分の現状を守るために無意識にネガティブなものに目を向け、「ああ、自分もまだマシか」と安心する。ネガティブな情報は自分の優位性を守るためのコンテンツなのである。
ではこのような社会に生きる私たちは、どう生きるべきなのか。その答えは、他人の幸福を見ないのではなく、自分の幸せを他人と比べずに探すことだ、と過去の人たちがみんな言っている。
つまり、他人の失敗や不幸を安易に消費するのではなく、自分の小さな成功や幸せを地道に積み上げていくこと。幸福に関しては自分だけを見つめること。
ちょっと難しく聞こえるが、他人の幸せに「いいね」を押すくらいの心の余裕を持つことが、現代の知性の一つなのかもしれない。
知性のある人はこういう場所で発言をしないのだけどね。
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