月がついてくる。
お父さんが運転する車の後部座席に座っていると月がついてきた。子どもだった。まんまるだった。
車からうしろを見ると、まんまるの月があとを追ってくる。お父さんが交差点で車をまげるとさっきまで真後ろにいた月はいなくなり、右に移動している。それからどれだけ車が進んでも、月はうしろにまえ、右に左、いつも何も言わずじーっと空に浮かんで、ただ私たちの車についてくる。
たとえ数十キロ離れた場所に移動しても、それでも月はついてくる。ついてくるんだけど、距離を詰めようとはしてこない。一定の距離にじっと浮いている。小さな私はとても不思議だった。
「月がついてくる」という感覚は、きっとだれでも幼少期に感じたものではなかろうか。車の中で子どもたちは叫ぶのである。
「お父さん、月がついてくるよ!」
こう言うと父さん母さんは「みんなのことを見守ってるのよ」なんてロマンチックなことは言わず「月はデカくて遠くにあるからね」と言ってきて、きちんとしたこと(たとえば月は地球から約38万キロも遠くにあることなど)を理解できないまでも、子ども心に「そうか、月はデカくて遠いんだ」と思ったものである。
「ねぇ月が迷うようにジグザクで走ってみてよ」
言われたことを理解しないままにそんなことを父さんに言うと「それはめんどくさい」と言う。
そんな小さなころの思い出を振り返ると、次に思い浮かぶのは「星の古さ」についてである。たとえば地球の誕生はいまから46億年まえだ。たぶんあってる。月の誕生は地球よりもすこしあとだと何かで読んだ。あと、太陽はもっと古い。
現代の私たちが目にする物体のなかで最も古いものはなにか? と問われると(問われないと思うけど)それは月および太陽だということになる。私たちは億年モノのスーパービンテージを空に見ている。
鶴は千年、亀は万年、月は億年だ。
同じようなものだとたとえば富士山も古そうな気がする。でも、富士山が誕生したのは億年単位まえの話ではない。せいぜい万年単位。しかも富士山は全人類共通で目にしているものでもない。
つまり全人類がいつの世も必ず目にしてきたもののなかで月と太陽はぶっちぎりで古い。
しかも見てきたのは人類だけじゃない。
昆虫も動物も、なんなら恐竜も同じものを見ている。
なんてロマン。
月と太陽はきっと、神武天皇も卑弥呼も源頼朝も坂本龍馬も渋沢栄一も見ていた。ソクラテスもクレオパトラもナポレオンも孔子も、月と太陽を見ていたはずだ。
たとえばクレオパトラが見ていたエジプトの景色を私は見られない。それはもう失われているし、残っていたとしても完全一致しない。
しかもはるか離れたエジプトと日本で離れすぎているから、その景色は見られない。でも、私とクレオパトラが見ていた月と太陽は今の私とまったく同じものだ。まったく同じものなのだ。これってすごいなぁと語彙力なく思う。
月がついてくる。
もしも月に目があったとしたら、これまでの地球のみんなのことをうしろからまえから見ていて、もうずっと見ていて、いいことも悪いことも見てきてる。
月に脳みそがあったとしたら、みんなのおこないの中の印象的なものを覚えている。
月に口があったとしたら「お前と同じことをむかし言ってたやつがいたなぁ」と言ってくれる。
月はいつでもついてくるから、気に入られればきっとよき相談相手になってくれる、はず。
月がいろいろ教えてくれたら、もっと生きやすいのにな、と思ったりもする。
いや、それは思わないかな。
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