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ポアンカレ予想みたいな話。

コンビニでドーナツを手に取る。ドーナツは輪っかである。中心には何もない。よく言われる「ドーナツ哲学」みたいな話をしてみる。

ドーナツには穴がある。穴だからそこには何もない。むしろ、「ない」という事実が、ドーナツそのものの存在意義を際立たせている。

もしドーナツの真ん中に何かしら詰まっていたなら、私たちはそれを「ドーナツ」と呼びにくくなる。ドーナツとは「穴のあるあの菓子」なのであり、その穴こそがドーナツをドーナツたらしめているから。

つまり、「ないはずのものが意味を持っている」と言える。

この「ないはずのものが意味を持つ」という現象は、よく考えてみれば日常に溢れている。

音楽では休符という無音の区間が旋律に流れを生み出し、絵画では余白が、描かれた部分を際立たせる。

「無い」ということが、そこに何か新しい価値や感情をもたらすのである。ドーナツの穴は甘い生地に囲まれた空虚そのものだが、その空虚があるおかげで、我々は「これこれ、これがドーナツだ」と安心してかぶりつくことができる。

人間関係や言葉遣いにも「穴」のようなものが存在する。

たとえば、気の利いたジョークを言ったあと、ほんの一瞬黙ることで、その冗談はより鮮明な笑いを誘う。もし言葉が詰め込まれすぎていたら、笑う隙もなく押し流されてしまうだろう。ここでも無言という「ないはずのもの」が相手の感情を生み出す装置になっている。

考えてみれば、我々は「無い」という状態を軽く扱いがちだ。なければ単なる欠如として捉え、「足りない」「不足している」と嘆くことも多い。

しかし、ドーナツは我々にこう語りかけているようだ。

「ないからこそ、今あるものが輝くのですよ」



この議論はドーナツを超えて我々の生き方にも通じる。

人間関係においても「穴」のような空白が必要なことがある。間が持たない沈黙も、状況によっては会話を際立たせる。仕事のスケジュールにも余白があると、次のタスクがより充実する。

この穴を「主役」と見るか「脇役」と見るかで、その空白の意味は大きく変わってくるのだ。

ドーナツの穴は語りかけてくる。

「私が主役であるかどうかなんてどうでもいいよね」

重要なのは、穴と生地が一体となってドーナツを完成させていることだ。生地がなければ穴はただの空虚だし、穴がなければドーナツではない。主役でも脇役でもなく、二つで一つ。


無が有を生み出すのである。



私たちの人生もそうだ、ということが言いたい。無いことを嘆かず、余白が大事だということが言いたいんです。


〈あとがき〉
ドーナツはトーラスと呼ばれるトポロジー的対象です。穴があるかないかで物体の分類が変わるわけですが、ここでポアンカレ予想が浮かび上がります。同予想は、3次元空間で穴のない連結かつ単連結な多様体は3次元球面に等しい、という主張です。平たく言えば、「穴がなければ、それは球である」ということなのですが、よくわかりません。今日も最後までありがとうございました。

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