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“欲しリス”が乞食と言われる理由

Twitterの自己紹介文にAmazonの欲しい物リスト、通称“欲しリス”のURLを載せている人がいる。Amazonには気になる商品を保存しておける機能があり、設定で住所や氏名を明かすことなく匿名でプレゼントを受け取れるものだ。しばしば“乞食リスト”と揶揄される欲しリスについて、乞食呼ばわりされてしまう根本的な理由と欲しリスを公開する人と贈る人の心理、それを踏まえた僕の考えについて述べていく。

贈り物と欲しリスの違い

欲しリスは乞食ではないと頑なに主張する人としては「贈り物をもらって何が悪い!どうせもらうなら自分の欲しいものがいいじゃないか!」という言い分があることだろう。しかし、本来の贈り物と欲しリスは全く異なる性質のものと言っていい。なぜなら、欲しリスには贈る人の意思が反映されていないからだ。

贈り物とは本来、相手への感謝の気持ちを伝えるためであって単に金品をあげることが目的ではないはずだ。だからこそ相手の立場を慮り、よく観察し、本当に喜んでもらえるものを選んで贈るのではなかろうか?そういったプロセスを踏んで贈られたものは、たとえ自分にとって欲しいものではなかったとしても、自分のことを想って選んでくれたというプロセスそのものが嬉しいと思えないだろうか?

大切なのは何を贈るかではなく、どういう気持ちで贈るかなのだ。逆に言えば、そのくらい相手のことを考えられるほど親しくならない限り、本当に喜んでもらえるものを贈ることは難しいとも言えるだろう。被災地に千羽鶴を贈る連中はそういった点では論外だ。確かに効率を考えれば、もらう側からしても贈る側からしても欲しリスは合理的なシステムなのかも知れない。しかし、欲しリスは贈る側の人が贈られる側のことを考える機会が根こそぎ奪われてしまっているのだ。

自分が欲しくないものは嬉しくないし、どうせもらうなら自分が欲しいものをと考えてる時点でそれは贈り物とはいえない。こと欲しリスに関して言えば、単に自分が欲しいだけのものを不特定多数の人に向けて開陳し、都合よく自分の代わりに買わせているだけである。それを乞食と言わずに何と言おうか?どうしても乞食という言葉を避けたいのであれば、代理購入と言うべきだろうか。いやそれだと後からお金を請求できそうだから違うか(どうでもいい)。

欲しリスを公開する人と贈る人の心理

欲しリスに掲載されているような商品をざっと見たところ、真面目に働いている人であれば買えるようなものばかりであることに気づく。つまりそれは、欲しリスは単に物欲を満たすために公開されているわけではないことを意味している。では、欲しリスを公開している人はいったい何を満たそうとしているのだろうか?カンの良い人ならもうお判りだろう。僕のnoteで度々出てくるあの四字熟語だ。

ずばりそれは「承認欲求」である。もちろんある程度は己の物欲に従って商品を載せているのだろうが、重要なのはそこではない。欲しリスに載せたものを誰かが確認し自分の代わりに購入してもらうことで、「自分は応援されている」、「自分は認められている」という実感を得たいのだ。お金がかかっている分、それはいいねやリツイート、リプライよりも重い。

そしてそれは欲しリスからモノを贈る人にも同様のことが言える。真面目に働いて稼いだお金を、いくら推しとはいえ他人のために使うのだ。そこには、「何者にもなれない自分が推しの欲しいものを買ってあげられた」、「自分が買ったものを推しが使ってくれている」というような承認欲求が渦巻いているのだろう。そしてそれは段々と「欲しリスから買ってやったのに」、「なんで使ってくれないの」に変わっていくのだ。

そしてお金がかかっているという生々しい事情がトラブルの原因となることもしばしばある。先に述べた通り、贈り物とは気持ちが大切だ。欲しリスという安易な手段を用いたことで相手のことを考えるというプロセスをすっ飛ばした結果、モノを買ってやった貰ってやったの不毛な争いとなるのだ。その背景として、相手が欲するものを与えたのに自分の承認欲求が満たされなかったのだと容易に想像がつく。始めにモノありきの欲しリスの弊害がこれである。こと構ってちゃんが多いSpoonにおいては、そういうトラブルが多いのも納得できる。その有様はまるで……

参考:Spoonでよくある光景

まとめ

これで何となく欲しリスこと欲しいものリストの正体がわかってきただろう。欲しいのはモノ(物欲)ではなく、自分の心の依存先(承認欲求)なのだ。僕自身は欲しリスを公開していることを良いか悪いかを判断する立場にない(というか、他人のことなどどうでもいい)ので、公開しようが贈られようが当人たちが満足なら(どうでも)いいと思っている。

ただ、不特定多数の人に公開している以上は、「欲しいものですら自分で買えない」とか「ファンを利用して物欲を満たしている」という批判を受ける責任を負うことは仕方が無いのではなかろうか。その覚悟がないなら欲しリスなどというものをそもそも公開すべきではないのだ。もともとファンレターや贈り物が届くような芸能人でも何でもない、しがない一般人のはずである。

僕自身はというと、欲しいものはやはり自分で買いたいのと、自分の機嫌は自分で取れる人間だと思っているので欲しリスとは無縁であるし、今後も作って公開するつもりはない。単に弾き語り配信者で自分が好きなことをやっているだけというのもあるが、素人の演奏を大人しく聴いてもらえるだけでも満たされているのだ。そしてこれはSpoonで高額なバスターやギフトを投げてくる人にいつも言っているのだが、僕にお金を使うよりも自分自身への投資に使ってもらいたいからだ。

僕はSpoonを投げてくれた人の承認欲求を満たすために生きることは出来ないし、本当の意味で自分の承認欲求を満たすには自分自身が成長していくしかないと思っている。自己肯定感が低く、他人に依存しがちな人が多いスプナーにとっては、つまらない課金アイテムにお金を使うよりも、いま自分にとって必要だと思う一冊の本を買って読んだ方が遥かに有意義なお金の使い方になると思っている。だんだん話がずれてきてしまったので修正する。

自分の承認欲求を満たすために欲しリスを公開しているにも関わらず、いざ乞食と言われると「プレゼントしたこともされたこともない人」と決めつける人のほうが本当の意味で心が貧しい(自分で自分の機嫌を取れない)のだと思ってしまう。どうしても乞食リストという表現が嫌なのであれば、いっそのこと「物欲(承認欲求)リスト」という呼称にしてはどうだろうか?と提案したい。

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