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私が私の煩いの種
私の最近の悩み、煩わしいと感じることは全て私の考え、思考によるものだ。
その文の通り私が私の煩いの種なのである。
さぁて一体全体
そんな煩わしい私自身と私はどう対峙していけば良いのだろうか。
なかなかに難しい問題で、簡単には答えは出ない。
私が私の煩いの種ならば、私という存在がなくなれば私の煩いはなくなるのだろうか。
でもその前に「私」がそもそもないのだから私の煩いという概念さえもなくなるだろう。
果たしてそれは私の煩いにしっかりと向き合ったことになるのだろうか。
思考を放棄したことになってしまうのだろうか。
こんなことを考えていると私という概念でさえもとても脆くちょっとした衝撃が加わるだけで壊れてしまうものなんじゃないかと怖くなる。
思考することを放棄せず愚直に考え続ける人でありたい。そう私は願います。
でもそれらが私を煩わせるのならば、私のやろうといていることは本当に私のやりたいことなのかどうか。分からなくなってきます。
私との向きたい方。
私と向き合うということは私は私ではないということか?
でもそもそも私は私ではないってどういう意味なんでしょう。
私と向き合っている私は私ではなく他者の視点で私を見ている。そういうことだと思うのですが、ならばその他者の視点を持っているのは私ではないのかという新たな疑問が湧いてくるわけです。
向き合うってとっても難しいことだと常々思うのです。
だって、向き合うことには終わりはなくて、愚直にそうあり続けるという態度のことだと思うから。
その態度を私は貫き通すことができるでしょうか。
それは私の勇気の問題なのかもしれないし、覚悟の問題なのかもしれない。もしかしたら全く違うところに問題はあって、私はまだそのことに気づいていないのかもしれない。
考え続ける強さ。それが欲しい。
例え、私が私の煩いの種だったとしてもそこにじっくりと立ち向かえる強さが欲しい。
私という概念に私で持って向き合える強さが欲しい。
そのためにはきっと考え続けること。それしかできないのだろう。いろんな考え方に触れて、刺激を受けて、私は考え続ける。
そんな人でありたいと強く願う私です。