神を見る人たち

私はクリスチャンで聖書をよく読むんですが、有名なところでは、イエスキリストが言われたどういう人たちが幸いかという箇所がありますね。今日はその一部からシェアしたいと思います。

マタイ書5章に、心の清い人は幸いだ、その人は神を見るであろう、と書かれているのですが、(聖書がない方はググると出てきます。マタイ書は新約聖書の最初です。) 心が清いってなんでしょうね。人間は24時間のあいだに色々考えますし、良いこともよくないこともある。いつも清い心でいられるかというと、そうでもありません。で、思い当たったのは、これは人間の意図かな、ということ。

例えば、電車で誰かに席を譲ろうとして、断られる。でも実際に譲ったかどうかというより、神はその意図を見ているので、その人は幸い、英語では「神に祝されている」とかかれてます。その人の意図を見ているのです。逆に表面的にはとてもいいことをして認められても、その意図が違うところにあれば、それも神はご存じですよ、という意味ではないでしょうか。他の箇所でイエスは偽善について厳しくいわれていますから。私たちが何かするとき、そこに善意があれば神が見ている、そして純粋な善意というのは、人の目に見えない小さいものでも、神に出会う道なのではと思います。

私には日系3世の同僚がかつていたのですが、彼女は善意に溢れた人で、私もお世話になった人です。キリスト教とは縁がない人でしたが、彼女の善意は神に覚えられていると確信しています。善意というのは目に見えないので、どうでもいいと思っている人たちもいるなかで、宗教的には意味があることは生きる希望となりますね。

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