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短編小説:【真夜中の独り言】《流れる》

何度も何度も思いとどまってきたけれど、やはりどうしても辞められない事はあるもので。

ドラッグストアで買ってきた三本入り200円もしない安全カミソリ。

つかの間の現実逃避をするには持ってこいである。

もう既に治りきっている私の手首は、現実ばかりを見せるのだ。

つまらない事の繰り返しで、私の心は自分を見失っていた。

ビニールの袋に仕舞われたその三本の勇者たちはこちらをにこやかに見ている。

ビニールの包装とはどうしてこんなに開けにくいものなのか…

いつも取り出す時にくっついてしまう。

ピンク、青、黄色の3色。
何故か私は黄色から使いたくなる。
黄色いカミソリを手に取り、キャップを外すといかにも安全ですと言わんばかりに歯の先に白いカバーがついている。

本当はプラスチック製の安全カミソリではなく、箱入りの昔ながらの金属製の方が欲しかった。
売り切れていたのか、取り扱っていなかったのか、店頭をいくら探しても見当たらなかった。

少々残念な気持ちになりながらも、たまにはプラスチック製のカミソリでもいいかとこちらを買ってきた。

安全カミソリは本当に安全であまり切れ味が良くない。
私の欲求を満たすには加工しなければならない。
加工とは行っても刃を取り外すだけなのだが。

安全カミソリの刃は意外と簡単に外せる。
私はマイナスドライバーを使うが他にもやり方があるのだと思う。
メガネ用の小さなマイナスドライバーをカミソリの刃とプラスチックのカバーの隙間に滑り込ませ、テコの原理で割るのだ。

力任せに扱うとドライバーの方が折れてしまうので注意せねばならない。

パキッとプラスチックの割れる音がすると安全カバーと刃がポロリと取れた。

普通の手持ちの部分がない分、力が入りにくいが、まぁ、ご愛嬌だ。

普通はきっとそのまま力任せにするのだろうが、私は違う。
これは芸術品を作る行為だ。
だから、可憐で華やかで美しく鮮やかに行わなければならない。
ただの自傷行為ではない。美しく儚い現実逃避なのだ。

消毒用アルコールをコットンに染み込ませ、手首を念入りに撫でる。少しの汚れも許さないのである。

私の手首は両腕とも芸術品の足跡が無数についている。
もちろん刃の入りが深いものもあった。
様々な刃物で試したが、どれもこれもとても素敵なものだった。
綺麗な直線の両側には小さな点が複数ある。
これは針の後だ。
この点の一つ一つも、私にはとても愛おしく綺麗にみえる。
病院によってはテープで済ませる所もあるが私は断然、糸と針で縫ってある方が好きだった。

皮膚と皮膚を繋ぐ不自然なナイロン製の糸は非日常を思わせる。
抜糸の必要がない溶ける糸もあるのだが、手首の傷程度では溶けない糸を使う方が多い。

あぁ、もう待てない。

取り外した刃を清潔に拭きあげた腕に当てる。
真っ白なキャンパスに色を落とす瞬間はこんな気持ちなんだろうと毎回想う。
少しの緊張と高揚感、期待感も入り交じってなんとも言えない気持ちになる。

手首に当てた刃をゆっくり横に引く。
刃を持っている親指と人差し指に少し力を入れると、刃につられて皮膚が引っ張られる。
そのうち限界を迎え、プチっと弾ける。

私の体は、カミソリの刃を易々と受け入れ飲み込んで行く。
5センチほど引くと、薄らと赤みのかかった傷跡が出来た。

少し遅れて赤い小さな玉が傷跡から顔を出した。
それは愛らしく、艶やかでなんとも愛おしい命だった。

私はその愛おしい玉のような我が子を指でひと消しにした。
色が滲み、まるで水彩絵の具のように私の手首を描く。

浅く切った傷口はすぐに閉じてしまう。もう血も滲まない。

もう一度あの景色をみたい。
隣に今度は太くて歪な直線を引きたくなった。
安全カミソリはどこまで私を満足させられるのだろうか。

今度は青色の安全カミソリを手にした。キャップを外し、そのまま腕に押し当てる。
思いっきり力を込めて引き抜くのだ。

あぁ、この瞬間がたまらない。

腕に押し当てたその刃は、鋭さもなく、安全だと豪語されている優等生だ。
すんなり綺麗にスパッと切れる訳では無い。

力を込めたカミソリを動かすと、ジャリジャリっと無理やり肉が裂かれる感触がする。
パカッと開いた傷口の先に、白い肉がこちらを見た。
途端、瞬く間に血液が流れ出してくる。

先程の可愛らしい小さな宝石ではない。
力強く川底で湧き出る湧水のようだ。
私の手首の上から楽々とこぼれ落ち、床に小さな泉をつくる。

なんて、なんて美しい。
私から生まれ出たとは思えない。
これこそ生命の芸術。

しかし、今日の私は歯止めが聞かなかった。

まだまだ見てみたい景色がある。
こんなものでは無い。
もっと欲しい。

欲求というものはそう簡単に抑えられない。

そういえば、先日友人の結婚式で、引き出物にともらったカタログの注文品。いつも期限を過ぎて忘れてしまうので、いらないのなら包丁を頼んで自分に譲ってくれと母に言われ、注文しておいた物がまだ箱に仕舞われたまま玄関に…

何故か私は、弾けたように玄関先に走り取りに行く。

先程まで綺麗な泉を作り出していた私の血液たちは、蹴散らかされ無惨にも食べこぼしのシミのようにただ何となくそこに落ちている。

冷静になどなれない。早くあの景色が見たい。
衝動がどうしても抑えきれない。

箱の中から取り出したのは、丁寧に仕舞われた出刃包丁だった。

何かに取り憑かれたかのようにその刃先をさっさと手首に当て、引き抜いた。


パッと花が咲いた。

秋に、垣根の足元によく見る彼岸花がそれによく似ていた。

包丁の刃はどうしてこんなにもよく切れたのだろうか。
私はそんなに力を入れていたのか。
鋭く鈍い光を放った刃は、私の皮膚を切り裂き、肉に飲み込まれ、血管も腱をも断ち切り、腕の中枢で止められていた。

治まらない。生命の泉は湧き上がり、とめどなく溢れ出る。

彩やかな朱の赤とはまた違う。
そこにはビロードの赤い絨毯が敷かれている。

美しい。
私の命はこんなにも芸術になるのか。

次第に美しさで目眩がしてくる。
意識が遠のくような美しさを放つビロードの赤い海が、私の腕から広がっていく。

あぁ、止まらないでくれ。

生命の海に寝そべり笑みがこぼれ落ちる。

あぁ、流れる…

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