もうそろそろリタイアしようと思った途端、自分が何者かわからなくなった・・・
noteを書きは初めて3年。
コンテンツや備忘録など思い思いに綴っては見たものの、ある日突然書けなくなった。
毎日が活気に溢れ、目標設定しながら目的に向かって突っ走っていた数十年。色々やりたいことが増え、様々な活動をこなし、結果たどり着いた先が
「自分は何者だ?」という答えだった。
それでも自分にいい聞かせた。
「やりたいことが次々出てくるのは、自分に必要なことだからだ」と。
「いや違う!迷っているのか?・・・」「彷徨っているのか?・・・」「結局何がやりたいんだ?・・・」
それでも、毎日楽しい日々だと勝手に思ってた・・・。それが、ある日突然記事が書けなくなった。
伝えたいことがたくさんあって、それを記事にしたり、ラジオトークしたり、SNSで発信していたのに。
毎日の生き方に不安を抱えてはいけないと思い、無理してでもPCの前に座り
何か浮かんでくるものを探す日々。
しかし、そんなことで書いた記事にメッセージ性などあるはずもなく、そうしているうちにどんどん記事を書くことを手放すようになった。
自己啓発本を敵に回した瞬間
「ビジネスで成功した」という経営者や著名な人が書き綴った本を集め、あたかもその人たちをお手本にしていれば、成功に近づくと思っていた。
勝手に思い描いていた「成功」という二文字を目的に、自分自身のスキルを高め、あらゆる手法を学び、あれもこれもと手を出してしまった私は、精神的にも肉体的にも限界に来ていた。いつになっても自分が描く「自分自身」が見つからない。
何年経っても、毎年毎年過ぎていく、いつも通りの日常・・・と、そんなふうに思い始めていた。
いつの間にか増えてしまった自分の作業場に山のように積んである自己啓発本。頼りになっていたのに、突然、その本が迫ってくるように感じたとたん、開くこともなくなり、段ボールに詰め込んだ。私にとって要らないものに変わっていった。
情報が多くなった挙句の先で見つけたもの
いくつもの時代の変化を経験して、いつかは成功という土台の上に立っている自分に出会えると思っていた。ところが、振り返ってみると何も自分に残っていないと気づいた。
多くの情報を取り入れて書き綴ってきた文字はなんだったのか。自分というものを世の中に知ってもらうためのツールではなかったのか?
いったい、何のために書いているんだろう・・・
そう思った瞬間、
「自分は何者なのか・・・?」と、疑問が湧いてきた。
これだ!これが書けない理由だ。自分は何がやりたくて何を目指して、どこに行こうとしている、何者なのか?
自己肯定感とやらは、一気に自惚れと化した。社会貢献とやらも、絵空事に変わった。何をして何を成し遂げたのかと聞かれて、何もないことにギリギリのタイミングで気づいた。
「脳科学」という言葉が目に飛び込んできた。
脳を知ることでこの先の人生が楽しめる
脳は年齢と共に衰えると思われてきた。しかし、最近の研究で人間の脳は死ぬまで衰えることがないということがわかってきた。
脳自体はいい悪いの区別がつけられないが、道徳やモラル、ルール、人間関係の中で作り上げてきた経験に伴う感情が勝手に指令を出して、物事の良し悪しを決めているらしい。
だとするなら、自分は何者か?ではなく、自分は何者でもない、と決めた方が気持ちが軽い。
脳科学が教えることは、脳をコントロールしているのは自分だということだ。苦しくなるのも辛くなるのも自分。反対に、楽しくなるのも嬉しくなるのも自分が決めれるというなら、文字が書けない自分に不安になる必要がないと気づいた。
仕事も、お金も、人間関係も、自分の中の脳が良し悪しを決めているのではなく、過去から学んだ何かと比較している自分がいい悪いを決めている。
だから、もうそろそろリタイヤしようと考えた時、何も残っていないと勝手に決めつけ、自分自身を見失い、「こんなはずじゃなかった・・・」と嘆いたのが、馬鹿馬鹿しく思えた。
発展途上の自分だと思うことが大事
今回のようにnoteに想いを綴るのは、3年ぶりだ。
書けないなら書かなきゃいいだけ、カッコよさも必要なく、自分を取り繕うことさえも必要ない。欲があるから書けなくなっただけのこと。
やりたいことが目の前にあれば、やってみればいいだけ。
やった成果や結果に期待するから心がざわつく。やっているときに、楽しいか、楽しくないかだ。
人はいつか人生の最後を迎える。その時にやり残したことがあったとしても悔いではなく、それも人生だと思えるような気持ちと感情で過ごしたい。
私は、何者でもない。